第317話 「運命の矢」

 ロープの先にいる友人に全てを託し、俺は夜の闇の中を滑り降りていく。

 降下の速度は、エレベーターよりも速く感じられる。吹き付ける風の音が、降りていく俺の風切り音なのか、単に風が強いだけなのか判然としない。そのことが、ちょっとした身の危険を感じさせる。何度も繰り返した訓練でも、真夜中にこうしてロープを頼りに降りるのは、本能に訴えかける恐怖がある。

 しかし、だからといってノンビリ降りていくわけにもいかない。マナによる検知は防げるとしても、ふとした拍子に誰かが肉眼で目撃する可能性はある。

 だから、どうにかきちんと着地できて、かつラウルがコントロールできて、それでいて事を早く済ませられる速度……それが今の降下速度というわけだ。

 幸い、降下は数十秒程度の出来事だ。夜に慣れた目に、街並みの印影が急接近してきて、降下ポイントである屋上の輪郭が見えてきた。目印の屋上の中心とはいかなかったけど、きちんと着地できそうではある。

 着地点が近づくにつれ、降下の速度も少しずつ減速してきた。上でラウルが、ロープの目印を頼りに速度を調整してくれている。


 やがて、降下が完全に停止した。目的の屋上までは、数メートル離れているようだ。しかし、屋上から外れなかっただけ上出来だろう。誰かに感づかれた形跡もない。ただ一人だけ、こちらに潜入している諜報員の方が、俺の方を見上げている。

 今停止しているところから、屋上までの距離が正確にはわからないのは少し恐ろしいものの、俺は腰からナイフを抜いてロープを切り始めた。

 少しずつ繊維が断たれていって、耐えかねた最後の繊維が千切れると、俺は屋上に落ちた。受け身が必要なほどの高さではなかったものの、若干足がしびれる感じはある。しかし、大きな物音が出なかったのは幸運だった。

 諜報員の方に目配せをし、屋上から周囲の様子をうかがってみる。しかし、やはり露見した感じはない。そのことに安心し、俺たちは屋上に灯した明かりを消した。それが合図になって、ロープがするすると上に登っていく。

 それから、腰に括りつけていたロープと金具を外し、フードを脱いでマフラーから口元を出す。そうして街歩きの準備を整えると、諜報員の方が話しかけてきた。


「では、案内します。私の後ろについてきてください」

「はい」


 明かりのない住宅街の闇の中では、あまりよく見えないけど、諜報員の方は俺よりも少し年上ぐらいに見える。服も顔も、さして特徴のない、普通の住民という感じだ。


 彼に従い、俺はまずハシゴを伝って地面に降り立った。こうして地面を踏んだことには、不思議な感慨を覚えた。今まさに、敵地にいる。その緊張感と、ここまでバレずに到達できた達成感が、心の中で渦巻いている。

 それから諜報員さんは、手にしたランタンに光を灯した。少しおぼろげな橙の光が辺りを照らすと、先ほど屋上に立ったこの建物が、闇の中で姿を現した。窓がほとんどなく、壁に飾り気もない。おそらくは何らかの倉庫なのだろう。

 その場を後にして、諜報員さんの後ろを歩いていく。とりあえずの”設定”としては、今から飲みに行くところだ。人目を避けるためにと、細かな路地を歩くと逆に怪しいということで、まずは大通りに出て、それから北上する。


 そうして踏み込んだ大通りは、シンと静まり返っていた。たまに、すれ違うように歩いてくる人がいる。おそらく、帰り道なのだろう。

 ランタンが照らす町並みは、木造の住居が多い。真っ白な石造りの建物と、花壇が飾る王都の街並みとはかなり違う。王都の方は澄ましていて華やかな感じだけど、こちらは飾らない素朴な感じだ。

――そんな町に住む人たちが、俺たちが住むところに反旗を翻している。自分の目で見て、この足で歩いていても、現実感がわかない状況だった。たちが悪い夢でも見ているようだ。

 まだ街に降り立ったというだけなのに、こんな落ち着かない気分は危険だろう。歩きながら頬をつねって、俺は意識を現実に引き戻した。

 それからも無言で、静かな街を歩いていく。一度、こちらの衛兵らしき人とすれ違った時には肝を冷やしたものだけど、そのときは諜報員さんが軽く話しかけただけで終わった。何気ない態度で堂々と住人になり切っている。その有様に、俺は気持ちを新たにした。ここまで来て、足を引っ張るわけには……。


 そうして大通りを北上していって、街の中央辺りに着いた。大広場に隣り合うように城がそびえ立ち、城を回り込むように幅広な道が通っている。

 城の方に壁はなかった。もちろん、そう安々と忍び込めるものではないだろうけど。後でまたお邪魔することになる城を横目に、俺たちはさらに北東へ向かった。


 さらに歩いていって到着したのは、ちょっとした屋敷だった。ここに、ジェームスが軟禁されている。

 しかし、屋敷の壁は人の背丈ほどあって、ここからでは中の様子をうかがい知ることができない。

 そこで俺たちが向かったのは、屋敷とは通りを挟んで向かいにある、ちょっと立派なホテルだった。重厚なドアを開け、諜報員さんが「予約していた者ですが」と話しかけると、ホテルマンの方が丁寧に対応する。

 それから問題なく中へ通された俺たちは、予約してある3階の部屋へ向かった。これまた立派な装飾のある、部屋のドアを開ける。すると、向こう側に広い窓が見えた。


 俺が部屋の中に入ると、諜報員さんが「あとは手はず通りに」と言った。それに、俺が硬い表情でうなずき、諜報員さんは何も言わずに立ち去っていく。

 一人になった俺は、歩を進めていって、大きな窓を開けた。冷たい風が入り込んできて、白いカーテンが大きく揺れる。

 つい、辺りの様子をうかがうように視線を走らせてから、俺は少し身を乗り出すようにした。すると、向かいの屋敷を囲う壁の上から、その中の様子が見えた。

 事前の調査で、ジェームスが囚われている部屋に窓がないということは判明している。脱出防止のためだろう。彼が軟禁されている部屋は、屋敷の外壁には面していない。しかし、その部屋を囲む廊下には窓がいくつかある。

 そこから見えたのは、格子状の壁だ。俺が魔法庁に捕まった時みたいに、座敷牢のような部屋に囚われているのだろう。

 そして、その部屋を見張る人の後ろ姿が見えた。こんな夜中でも、直立不動で彼の部屋を見張っている。


今から、俺が、彼を”無力化”しなければならない。


 横からカタカタという小さな音が聞こえ、窓枠を掴む俺の右手が震えていることに今やっと気が付いた。乗り出した身を戻して深呼吸をする。

 これからの動きで、中心になるのは諜報員の方だ。しかし、見張りに目撃されれば騒ぎになって、以降の動きが頓挫しかねない。

 だから、この狙撃ポイントにいる俺が、あの見張りの彼を無力化して、その隙に諜報員さんが忍び込んで仕事を果たす……それが一連の流れだ。


 やがて、目的の部屋の上の窓に、目印の青い光がチラリと見えた。それを合図に、俺は右手を構えて狙いを定め、心徹の矢ハートブレイカーの記述に入った。それに合わせて異刻ゼノクロックも使う。狙いを可能な限り精密にするためだ。

 視界の端を埋める青緑の時計盤と、構えた右手の魔法陣が照準のようになり、その中央には見張りの彼がいる。


 今から俺は、彼を無力化する。つまり、気絶させるか、声も上げられない状態にするか――さもなくば、殺すかだ。

 殺す気じゃなければ意味がないボルトを構えて、俺の照準は小刻みに揺れた。普段は問題ない照準のズレでも、この距離、この状況では大問題だ。時の流れを遅くさせて、狙いを定めようとしても、心に沸き立つものがそれを邪魔する。

――ああ、そうだ。狙いを定めるためじゃなくて、悩む時間欲しさに俺は、自分のマナを絞り上げながらも異刻でその時を引き延ばしているんだ。


 今狙っている彼は、別に敵ってわけじゃない。ただ、邪魔なだけだ。事前の仕込みでも買収が効きそうになくて、こうすることでしか排除できない。こんな夜にも、謹厳実直に見張りを続けている、ただの真面目な人だ。

 そんな人を、これから撃つ。そのことを意識して、俺が本当に戦争に関わっているんだと強く感じた。そして、あの子のために、代わりに戦うってことは、つまりこういう事なんだ。

 王都に残したみんなのこと、今上空にいる仲間のこと、ともに行動する諜報員さんのことを考えると、いつの間にか照準の揺れはなくなっていた。これなら撃てる。悩みは後からすればいい。


 そして俺は、一瞬を引き延ばし、今にしがみつくのをやめた。次に進むために魔法を放ち、針のような青緑の矢が放たれる。

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