第285話 「本当の気持ち」

 7月14日、夜。俺は呼び出しを受けてお屋敷にいる。今は夕食の後に茶を一服したところだ。

 今日は閣下もおられる。しかし、そのお顔はどこか冴えない感じがあって、漂う雰囲気も張り詰めたものがある。それに、閣下が戻られたのは事前に予定がないことだった。

――何かがある。その気配には、他のみなさんも察したのだろう。食堂には徐々に緊張感が満ちていき、互いの口数も少しずつ減っていく。

 そして、閣下の言葉を待つ場が整った。重い沈黙が続き、やがて閣下は深く長いため息をつかれたあと、静かな口調で仰った。


「今から話すことは、決して他言しないように」


 それから、閣下は重い口調で言葉を続けられた。

 閣下が話されたのは、つい先日、秘密裏に行われたという会合の中での話だ。殿下が近臣・重臣の皆様方を招集なされたらしい。

 そして、その場で殿下が語られたというのが……アーチェさんが明るみにしたという、この国――いや、世界の歴史の真実だった。

 閣下の口から語られるその話の内容が、俺には信じられなかった。それは、その会合に関わられた方々にとっても同じ思いだろう。

 しかし、アーチェさんの言が正当であるかどうか、確かめるために魔法を使われていたそうだ。虚言を発せば火に包まれるという魔法を。そして、その場に立ち会われた殿下が、アーチェさんの言葉に魔法が反応しなかったことを確認なされた。

 つまり、信じがたい話でも、信じるしかないようだ。魔人がいない頃は王族が覇を競い、殺し合いのために貴族を作り、そこから魔人が生まれてしまったという歴史を……。


 話を聞いている間、他の誰とも顔を合わせられなくて、俺はずっとテーブルを見つめていた。語られている閣下も、聞いているみなさんも、どういう気持でいらっしゃるのか……それを類推することすら、はばかられる思いだ。

 閣下が一通り、その会合での話を語り終えられると、そばでイスが動く音がした。慌てて振り向くと、アイリスさんが立ち上がって、部屋の外に駆け出すところだった。

 不意に、彼女の背に向かって俺の手が伸びる。しかし、引き止める言葉が出てこない。彼女は走り去って、俺の右手は宙を切った。

 閣下は、彼女を止められなかった。テーブルで組んだ両手に、顔を沈められている。その表情をうかがうことはできなかったし……その心中も、俺の理解を超えているだろうと思う。


 しかし、アイリスさんのことはやっぱり気になる。俺にどうこうできる問題とも思わないけど、それでも……何かできないだろうか。

 俺は立ち上がった。すると、閣下の声がかかる。


「リッツ」

「は、はいっ」

「頼む」


 沈んだ、重い口調だった。しかし、絞り出すように出されたお言葉に、強く背を押される感じがした。

 俺は食堂を出て、とりあえず屋敷の外へ足を向けた。すると、すぐ後ろに足音が続く。

 振り向くと、マリーさんがいた。普段あまり見ないようなシリアスな表情をしているけど、わずかに自信のようなものをにじませている。そんな彼女は、力強い視線を俺に向けて言った。


「あの子がどこにいるか、見当は?」

「……正直、さっぱり」

「屋根の上ですよ」


 自信満々に、彼女は言った。その口調にも、たたずまいにも、揺るぎない何かを感じる。それから、彼女は言葉を続けた。


「私なら、あの子を確実に立ち直らせることができますが、この場はお譲りしましょう」

「……いいんですか?」

「あの子のためですよ。こういう状況で、いつも私が動いたのでは、代り映えしないですしね」


 そして彼女は、いつものイタズラっぽい笑みを浮かべ、言葉を続けた。


「あなたでダメなら、私が2人ともまとめて慰めてあげますからね」

「そうならないようにしたいものです」


 苦笑いして答えると、彼女は「ふふっ」と含み笑いを漏らした後、表情を引き締めた。

「あの子をお願いします」そう彼女が言って、俺は外へ向かった。

 何を言えばいいのか、思考はまとまらない。しかし、前にもこんな事があったような……? その時は、なんかうまくいった気がする。

 たぶん、今から用意したような言葉では、彼女には届かないんじゃないか……そんな気がする。会って、その時その時心に浮かんだ、正直な気持ちを伝えよう。


 屋敷の外に出ると、晴天の夜空に星々が輝いていた。

 目を奪われるような光景だけど、見てる場合じゃない。気を取り直して屋敷の外を回ると、ハシゴが立て掛けてあった。「ああ、空歩エアロステップは使わなかったんだな」そんなのんきなことを思いながら、俺はハシゴを登っていった。


 マリーさんの言葉通り、彼女は屋根の斜面のてっぺんにいた。両脚の間に顔をうずめている。

 彼女のもとへ歩いていくと、先に彼女は「何?」と声を発した。俺が初めて聞く、少し棘のある響きだった。きっと、マリーさんと気兼ねなくやり取りするとき、こういう感じになるんだろう。

 きちんと声をかけてもらえたこと、普段聞かない声を聞けたことに、妙な喜びを覚えつつ、俺は彼女の隣に腰掛けてから「ちょっと様子見に」と答えた。

 彼女は急に顔を上げて、こちらを見た。きっと、マリーさんが来たと思っていたんだろう。それが、彼女たちの絆の強さを感じさせた。

 やってきたのが俺だと確認すると、彼女はまた顔を伏せた。その顔は今にも泣き出しそうで、憔悴していて、見るのも苦しかった。


 しばらくの間、俺は声をかけられずにいた。追い返されなかったのは幸いだ。でも、変なことは言えない。不用意な言葉で逆に彼女を傷つけたんじゃ、自分のことを許せなくなるだろう。

 結局俺は、かけられる言葉を探しつつ、彼女が言葉を放つのを待った。卑怯というか、情けないとは思ったけど、慎重になりたかった。

 そうして、俺が屋根の上に腰掛けて数分経つと、彼女は小さな声で話し始めた。声と一緒に、体を小さく震わせながら。


「私、今までずっと、人のために尽くせる人間になろうって、そう思って……ずっと、頑張ってきました。でも……」


 自分の気持ちを確かめるように、短く区切りながら話すその声が、消え入りそうなくらいに儚いのが……彼女の中で何かが揺らいでいるようで、切なかった。


「……私の、この気持ちが、植え付けられた、作り物だったかもしれないなんて……だったら、私の人生って、なんなの?」


 それから、彼女は顔を上げてこちらを向いた。「ごめんなさい」と彼女は言ったけど、その無理して作ったような力のない微笑みが、俺の胸を万力みたいに締め上げた。

 彼女の気持ちは、原初の貴族に植え付けられた忠誠の名残なんだろうか? 作り物としての徳性なんだろうか? それは……違うと、俺は思った。

 もちろん、確証はない。最初に刻み込まれた、そういう善性が、マナと一緒に遺伝しているのかもしれない。真実はわからない。それでも……俺は彼女に話しかけた。


「アイリスさん、ちょっといいですか?」

「……何です?」

「これから生意気言います。気に食わなかったら、この屋根から蹴り出してもらって構いません」

「そんな……しませんよ」


 彼女は冗談と受け取らず、不安と深刻さが入り混じったような表情で俺を見つめてきた。そして、静かに俺の言葉を待つ。

 俺は自分の心臓がメチャクチャに高鳴るのを感じ……息を落ち着けてから言った。


「アイリスさんって、少しめんどくさいところがあるなって……」


 彼女は何も答えなかった。予想外の言葉だったのか、ちょっと呆けた感じで固まっている。そんな彼女に、俺は続けた。


「……昔の、新しい人種を作ってしまえるような連中が、そういう面倒くささとか許すかなって。だって、奴らは従順な駒を求めたわけですし」

「それは……世代を経て、少しずつ変わっていったと」

「それで、少しずつ変わっていって……もう、俺たちと変わらないんじゃないですか? いや、この世界からすれば、むしろ俺が異物なんですけど」

「そんな!」


“俺だけが違う”そんな表現に彼女は、心からの否定を示した。それがとても嬉しくて……逆に、1人だけ違うというその場に、自身を置いているのだろうと感じて、切なくなった。

 彼女と言葉を交わすほどに、体温が高くなるのを感じながら、俺はまた続ける。


「さっきはめんどくさいとか言っちゃいましたけど、俺もそういうめんどくさいとこあると思いますし……他のみんなもそうですよ」

「でも……」

「……ご両親のことは、どう思ってますか?」


 俺の問いかけに、彼女はキョトンとした顔になった。急な質問で、ご両親の何を問われているのか、疑問に思っているのかもしれない。俺は少し言葉を付け足した。


「小さい頃、閣下や奥様を見て、ああいうふうになりたいって、そう思ったんじゃないかって」

「……はい」

「そうやって、代々気持ちを引き継いでいったんじゃないかって、そう思います。血が定める呪いみたいなんじゃなくって、親から子に色々教えて、精神をつなげていったんじゃないかって」


 彼女は目を閉じ、顔をわずかに伏せた。閉じた目の端からは涙がひとしずく、頬を伝って落ちる。

 そうして静かに口を閉じている彼女に、俺は言った。


「アイリスさんも、ご両親に憧れる気持ちはあったと思います。でも、それは俺たちもそうなんです。みんな、アイリスさんには憧れがあって、ああいうふうに強く生きられたらって……だから、俺もあなたも、みんなも同じだって、そう思います」


 そこまで言い切ると、彼女は顔を上げ、ほんの少し笑って――作り笑顔じゃなくて、普通に微笑んで――言った。


「口が回るようになりましたね」

「これでも苦労してるんですよ」

「私がめんどくさいから?」

「……そーですね、そうやって困らせてくるところとか、誰に似たんだか」


 彼女は表情を緩めた。急に、雰囲気が砕けたものになって、真面目な話を続ける気がしなくなった。

 でも、もうちょっと……彼女のためにできることがあるんじゃないか。それで俺は……彼女に向き直って両手を広げた。それまで瞳を潤ませながらも笑顔だった彼女が、不意をつかれて真顔になる。

 そんな彼女に俺は、「先着1名様! どうぞ!」とヤケクソ気味に言った。


「お代は?」

「元気になってくださいね!」


 すると彼女は、俺の胸元に身を預けた。両腕は俺の後ろに回して。

……我ながら大それたことをやっている。そんな自覚に恐る恐る両腕を動かして、彼女を優しく抱きしめると、彼女の体が小刻みに揺れているのがわかった。高鳴る心臓の鼓動に混じって、かすかに鼻をすする音が聞こえる。

 そのままずっと、俺は彼女を抱きしめ続けた。あれこれ考えていた気はするけど、熱に浮かされていたようになって、結局の所は覚えていない。


 それで何分か経つと、彼女は静かになった。泣いている感じはない。これで良かったのかな。

 そう思って心身が安堵するのを覚えたところに、胸元から彼女のくぐもった声がした。


「頭、撫でてみてください」

「はい?」

「頭を撫でてほしくて。いつも頑張ってる、私へのご褒美に」


 恐れ多い気がした。しかし、今の俺と彼女の体勢を考えれば、今更ではある。それでも、ためらう気持ちを感じつつ、彼女の頭に右手をかざして俺は言った。


「ご褒美にしては安すぎる気がするんですが」

「物は試しです」


 その言葉が変におかしくて、俺は少し吹き出した。

 それから、意を決して彼女の頭に手を置く。すると、彼女の体全体がビクンと少し跳ね、俺もつられて似たような反応をしてしまった。

 それで、自分から反応してしまったにもかかわらず、胸元から俺を笑うような振動と声が伝わってきた。ちょっと釈然としないものを感じつつ、俺は彼女の頭を撫でた。今度は、特に身動きされなかった。

 彼女の頭をなでていると、不思議と気持ちが落ち着いた。彼女も同じ気持ちだといいな、そう思いながら、俺は頭をなで続けた。


――こうして彼女に接していて、改めて思い知ったことが一つある。


 俺はこの子のことが好きだ。


 身分の差っていうのがあるのはわかっている。きっと、彼女は同じ貴族と結ばれるだろう。その血と一緒にマナを引き継ぎ、民草に代わって魔人と戦う宿命がある以上、それは避けられないことだ。

 俺は、それは仕方ないことだと思う。そういう社会の有り様を無視してまで、彼女とどうにかなろうだなんて思わない。そうするのは……あまりに自分本位だと思う。

 でも、それでもよかった。こうして彼女を抱きしめるだけで、とめどなく暖かな気持ちが溢れてくる。その全てが、俺じゃなくて彼女に向けられている。そう、心の底から信じられた。それが嬉しかった。

 こうして彼女を支えられるなら、俺は満足だ。そして、もっと強くなって、傍で支え続けられるようになりたい。


 そうして、ずっと支え続けて、いつか彼女が別の誰かと結ばれたなら……。

 きっと俺は喜び、前途を祝福し……友達にはヤケ酒に付き合ってもらおう。それで十分、幸せになれるだろうから。

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