第204話 「再起の火」

 2月7日の夜半から8日の未明にかけて王都近郊を襲った襲撃は、その日のうちにほぼ終息した。もともと有って無かったような魔人側の統制は、首謀者と目される魔人の離脱によって完全に喪失。それ以降、魔人側の連携は完全になくなり、動きはますます散発的なものとなった。

 夜明け頃には騎兵隊と冒険者の協働で、魔人の残存勢力の排除を開始。昼前には、襲撃があった地域含め、王都近郊において一応の事態の終息を見た。

 これ以降の、魔人側による仕掛けの懸念については議論が分かれたものの、軍や国政上層部の有力者による”楽観論”が優勢となった。首謀者が白いマナを使っていたという報告を受け、そのような特異な性質の魔人を捨て石にするような、これ以上の策があるというのは考えにくいというのが論拠だ。本件の首謀者が例の潜入者であるという目撃証言も上がっており、潜入で得た情報を元にしての襲撃が失敗したのだろうというのが、議会における最終的な認識だった。



 2月9日、10時ごろ。アイリスが部屋を取っている、王都でも老舗のホテルのロビーで、マリーはスタッフ数人と問答をしていた。

 そこへ、若手のスタッフに連れられて、支配人と思しき男性が到着した。豊かな白髪の彼は、自身よりもずっと年若いマリーに対して、極めて物腰柔らかく相対する。その彼の応対に、マリーも丁寧な返礼をした。

 しかしながら、そうして互いに穏やかなやり取りをしたものの、ロビーには重い空気が張り詰めていた。マリーが伯爵家の行儀見習いであることは、この場の一同にとって周知の事実である。その彼女が、このタイミングでやってきた事情を察し、多くのスタッフは表情を固くした。

 そうしたスタッフたちの注目が集まる中、冷静さを保つマリーは、かばんから一通の手紙を取り出した。封蝋には伯爵家の印章が押されている。そのような重要な手紙であるが、支配人は一切の狼狽も震えも見せず、落ち着いた所作で受け取って中を確認した。

 それまでは静かな微笑を絶やさずにいた支配人だったが、手紙を読むとわずかに感情を表に出した。ほんの少し下げた眉と寄った皺が、胸中の苦悩を物語る。

「お嬢様に、会わせてはいただけませんか」と静かに言ったマリーに、支配人は首を小さく横に振った。


「私共も、外から何度かお呼びかけはいたしましたが……」

「食事はどうされましたか?」

「戸の外に置いても、そのままにされておりました」


 伯爵令嬢が、部屋に閉じこもっている。余人であれば、会おうと思ってもためらい、すごすごと退散するところであるが、マリーは違った。意志の光がみなぎる彼女の視線に、支配人は目を閉じ、再度手紙に視線をやった。そして彼は、「……合鍵はございますが、お渡しはできません。どうか、ご理解を」と、静かに告げた。

 マリーは支配人と、他のスタッフたちを見回した。支配人は申し訳無さそうにしつつも、謹厳としていて誠意も感じられる。他のスタッフたちは、生真面目さの中に悲しみや慈しみをにじませている。

 マリーは今、伯爵夫人の命を受けて、アイリスに会おうと訪れたところだ。いや、命令だからではなく、自身としても会わなければならないと考えている。それを拒まれたわけではあるが、ホテルの従業員から感じたプロ意識や、アイリスへの思いやりには少なからず感銘を受けた。

 しかし、それでも会って話をしなければ。マリーはフッと顔の力を抜き、支配人に手を差し出して手紙の返還を求めた。すると、彼は頭を下げて手紙を返す。


「申し訳ございません」

「いえ……互いに別の立場であれば、それぞれ同じことをするかと思われます」


 数回り年が離れた2人ではあったが、互いに相通ずるものはある。それから、マリーはごく普通に、気負いのない顔と声音で尋ねた。


「鍵はお貸しいただけないとのことですが、それでも会おうと試みることは?」

「お引き止めする理由はございません……むしろ、お嬢様にも必要なことかと」

「……ありがとうございます」


 恭しく頭を下げる支配人に対し、マリーはそれよりも深々と頭を下げた。そして、頭を上げた彼女は歩を進め、ホテルの中へ入っていく。



 布越しに聞こえてくるノック音に、アイリスはブランケットを手繰り寄せて全身を覆い直す。何も聞こえないように、自分の繭に閉じこもるように。

 しかし、音が聞こえてくる方角に気づいた彼女は、慌てて跳ね起きベッドから飛び出した。果たして、彼女は窓をノックしている――つまり建物の外にいる――マリーを目撃した。驚愕するアイリスに、マリーが悪戯っぽい笑顔を返す。そのままでも問題なさそうではあるが、動転したアイリスは窓を開け、友人を部屋の中に招き入れた。

 軽快な動作で、窓から首尾よく侵入に成功したマリーは、アイリスをしげしげと眺めた。少し着崩れた寝間着のままで、くたびれた感じの雰囲気が漂い、髪は少し乱れ、顔はやつれ……とにかく、そんな痛ましい状態だった。

 そのまま2人は、言葉を交わすこと無く立っていた。開け放した窓からは風が吹いてきて、2人の髪を揺らす。窓の外は雲がまばらで、気温を抜きにすれば心地よい空が広がっていた。

 先に沈黙を破ったのはアイリスの方だった。「どうして……」と消え入りそうな声でつぶやく。その「どうして」が何に向けてのものか、マリーはあえて尋ねること無く、本題を切り出した。

「例の、白いローブの人がやってきてね」と言うと、アイリスは驚きをあらわにして、伏せた顔を上げた。例の白いローブの人は、律がこちらの世界に来る前に伯爵家を頼って現れており、そのときは「森に客人が来るから頼む」といったようなことを依頼していた。相手が話に食いついたことに少し満足しつつ、マリーは話を続ける。


「リッツさんは、今は生まれ故郷にいるみたい」

「……無事なのね、良かった。でも……」

「それで、こっちへ来る考えみたい」


 思いがけない情報に、アイリスは目を丸くした。これまでの付き合いから、マリーがこういうときに嘘や気休めを言うことはないとわかっている。それでも、信じられない言葉に耳を疑い、彼女の口からは思わず「嘘でしょ」という言葉が出た。


「……誰を疑ってるの?」

「いえ……そういうわけじゃないけど……でも、故郷を捨てるなんて」

「会ってから聞けばいいじゃない」


 軽々しく言ってのける友人に、アイリスは顔を上げて噛み付くような表情でにらみつける。しかし、マリーの射すくめるような視線には驚き、消沈した。そんな弱々しいところを見て、切なそうな表情になったマリーは、アイリスの肩に手を置いた。小さく震えている。すると、アイリスは重たい口調で言った。


「別世界から来るのは、難しいんでしょ?」

「わかるの?」

「だって……すぐできるなら、きっとあの人がここにいるだろうから……」


 そこまで言うと、アイリスは両手で顔を覆った。「どうして」とまた聞こえ、マリーは視線を床に落とす。

 しかし、少ししてからマリーは、強い眼差しをアイリスに向けて言った。


「少なくとも、彼はその気よ。あなたは、どうするの?」

「……私に、何ができるっていうの?」

「探しなさいよ」


 優しく語りかけても、アイリスはそのままだった。悲嘆に暮れて固まっている。そんな彼女を見て、マリーは一層辛そうな表情になったものの、意を決した彼女はアイリスの両手首を握って顔の前をこじ開けた。

 そして……部屋に乾いたビンタの音が響く。軽く叩いた程度のものだったが、アイリスはしばらくの間、ビンタで魂が抜け出てしまったかのようになった。それから意識が戻った彼女は、打たれた右頬に手を当てながら、マリーに向き直る。頬を打たれた顔は、生気が戻ったかのように色が差し、マリーは少し満足そうになって言った。


「このままじゃ、立ち直った時に自分のこと許せないでしょ? だから、未来のあなたの代わりにやってやったのよ。感謝しなさい」


 話しつつ、結構な物言いをしているとマリーは自覚した。かなり恩着せがましいビンタだ。しかしながら、アイリスの方からは、一切の抗議も非難もない。一方で、感謝も反省も。少しずつ血が通い始めたアイリスの整った顔の奥で、判然としない感情が渦巻いている。自分がどうあるべきか、決めかねている。

 マリーは、友人の肩に優しく手を置いた。年も背も同じようなものだが、こういうときは少しだけ友が幼く見える。まるで妹に教え諭すように、マリーは語りかけていく。


「自分にできることも探せないなんて、そんな悲しいことは言わないでよ? せっかく、あの森から解き放たれたっていうのに」

「マリー……」

「だいたい、彼に魔法を教えたのはあなたでしょ? あなたが帰還を信じて手伝わなくて、どうするってのよ」

「……うん」


 それから何か言いかけて、言葉に詰まったアイリスは、うつむいて体を震わせ始めた。マリーは、言われなくてもなんとなく察した。彼女はそっとアイリスを抱き寄せ、「今日は一緒にいてあげるから」と言い、アイリスは小さくうなずく。


「でも、その前に顔洗いなさいね」

「……うん」


 落ち着いたアイリスは、マリーの抱擁から解放されてから姿見で自身の現状を見た。思わず顔を赤らめ目を背けると、マリーの屈託のない笑い声にますます顔が赤くなる。そんなやり取りに、また少し涙ぐんだアイリスだったが、もう感情の処理は1人でできた。袖で涙を拭い、「ありがとう」とマリーに告げると、友は「どういたしまして」と言って、アイリスの頭をポンポン叩いた。



 アイリスの身支度が済み、ホテルのロビーに着くと、ホテルのスタッフたちは呆気にとられた表情になった。

 支配人も、マリーがやりおおせたことには驚いた。それから彼は、穏やかな表情に万感の思いを込め、マリーにあらためて頭を下げた。すると、他のスタッフ一同も後に続く。そんな彼らの醸し出す、暖かな空気を感じつつ、アイリス達はホテルを後にした。

 ホテルの外の空気は、やはり冷たい。外気に身を震わせながら2人は歩いた。

 先を行くのはマリーだ。わずかに期待感を込め、「あてはあるの?」とアイリスが尋ねると、「んなわけないでしょ」とマリーは即答した。しかし、向き直ったマリーの顔に、暗い影はない。


「色々探す前に、まずは案内したいところがあるの。いい?」

「もちろん」


 それからマリーが案内したのは、王都西区にある静養所だった。敷地に入ろうというところで、マリーは振り返った。アイリスは少し暗い表情をしている。

「先に言っておくけど」マリーは言った。「あなたが行くのが遅れたってことはないからね? そういう事を言うのは、逆に失礼だから」


「それぐらいの分別はあるから」

「これは失礼しました」


 軽口で気持ちをほぐそうというマリーの心遣いに、アイリスはわずかに切なさが残る笑みを返し、静養所に踏み入れた。

 受付の女性は、アイリスの姿を見るなり席を立って、直立不動の姿勢を取った。そんな彼女にアイリスは微笑みかけて座ってもらった。それから、マリーがコソコソと受付の女性に話しかける。自分に聞かれないように話しているその様子に、アイリスは少し訝しげな表情を向けた。

 そんな密談が済み、マリーが先導する。その背を追うアイリスは、少し戸惑っていた。しかし、困惑よりも信頼のほうがずっと勝った。何も言わず、2人で静養所の廊下を進んでいく。

 やがてたどり着いたのは、ベッドが8つ並ぶ大部屋だった。部屋に入る前には身構えたアイリスだったが、中にいる8人に重篤な感じは見受けられない。そのことに彼女は安堵した。

 すると、マリーはアイリスに耳打ちした。ここにいるのは、瘴気にやられて回復を待っている人たちだと。逆に言えば、瘴気の中から救い出された者達でもある。それが意味する所に気づいたアイリスは、呆然と立ち尽くしたものの、マリーに押されるようにして部屋の中に入った。

 そして、見舞客向けのイスに座ったアイリスは、助けられた者達の口から救護者の活躍を聞いた。感謝のあまり涙ぐむものもいれば、その時の興奮を思い出して熱く語りだすものもいる。魔道具を組み合わせて赤紫”っぽい”色で魔法を書いたという件については、過去の罪状を思い出して、アイリスとマリーは思わず苦笑いした。

 そうして談笑していると、1人が神妙な表情で口を開いた。


「……あいつ、大丈夫なんですか? その、消されたって話ですけど……」

「それは……」

「……申し訳有りません。でも、どうしても気になって」


 気がつけば、アイリスは問いかけた者の手を両手で優しく包んでいた。「私も動いて、どうにかしますから」口をついて出た彼女の言葉に、相手は瞳を潤ませた。

 そうして場が少し湿ると、それを嫌ったかのように砕けた口調で、「私も手を」と若い娘が握手をねだり、他の連中もそれに続いた。アイリスは「仕方ないですね」と言いつつ、笑顔で要望に答えていく。


 静養所を退出すると、またもマリーが先導し、西区の小さな広場にたどり着いた。すでに日が沈みかけていて、茜色の地面に長い影が伸びている。

 周囲に誰もいないことを確認すると、マリーはアイリスと共にベンチに腰掛け、かばんから一通の手紙を取り出した。「読んでないからね」と言うマリーに微笑み返して、アイリスは受け取った手紙を広げた。

 手紙は、王太子アルトリードからのものだった。手が震えるのを抑え、アイリスは読み進める。



 まずは、現場へ向かってくれたことに礼を。立場上、私の命で君を飛ばすわけにもいかなかった。しかし、君とハルトルージュ伯は、どうやら私と似た者同士らしい。ああいった厳しい状況の中、言葉をかわさずとも心を通じ合える者がいることは、何よりも心強く、嬉しいものだ。ありがとう。


 では本題に入る。リッツ・アンダーソン殿のことについては、大変残念に思っている。各種証言から、おそらくは転移で飛ばされたのだろうというのが我々の見解だ。

 しかしながら、どこに飛ばされたのかははっきりしない。呼び戻す手立てがあるのかどうか、彼がそれを望むのかどうかも、現時点では不明だ。

 君もわかっていることとは思うが、来月には黒い月の夜がある。その備えへの都合もあって、彼1人のために国のリソースを割くのは大変に難しい。私の権限を用いるにも限度はある。それに、平民1人のために王族の力を用いるというのは、いささか不公平だろう。

 つまり、国は彼のために動けない。


 だが一方で、彼の働きが目の森の攻略において、代替できないものであったことも事実だ。彼がいなければ、今の君もいないだろう。それを踏まえれば、彼のために君を動かすのは、理にも道義にもかなっていることのように思われる。


 いや、失礼。私の方から君を動かそうという気はない。国も同様だ。”想定”よりもずっと早く森を解放した若い勇者に、さっそく他の目を任せようなどというのは礼節に欠ける。

 それでも君は、民草のために次なる戦場へ向かうのかもしれないが、どうするのかは君の自由だ。


 私からは以上だ。無論、君にも言い分はあるだろう。この手紙を握りしめ、王城の門を叩くのもいいだろう。それはそれで、私の望むところでもある。


 つまり、君は君の好きにするといい。



「アイリス?」

「……うん」

「見ていい?」

「ダメ」


 答えつつ、目の辺りを拭ったアイリスは、そそくさと手紙を畳んで胸にしまった。隣の友人は、ほんの少し残念そうにして、笑顔で見つめてくる。


「マリー」

「何?」

「明日からは、私1人で動くから」


 マリーは心配そうなそぶりを見せず、柔らかな微笑みのまま耳を傾けている。そんな彼女に、アイリスは言葉を続けた。


「私にも……私にしかできないことがあるから。だから、1人で」

「了解」


 それだけ聞ければ十分とばかりに、マリーは発言を途中で遮った。彼女が立ち上がると、アイリスもそれにならって立ち上がる。そして2人は広場を後にした。


「夕食、どうする?」

「私も作りたい」

「じゃあ、3人で作ろっか」

「うん」


 街路を歩く2人に、冷たい風が吹き付けた。冬の夕方だけあって身を切るような寒さだが、アイリスは逆に体を温かさが満たすのを感じていた。傍にいるかけがえのない友人と、胸にしまった手紙が温かい。

 そして、人の温もりが火種になって、心の奥底に火が灯ったのを、彼女は自覚した。

 辛いことはいっぱいあったけど、私は負けなかった。これからも、絶対に。

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