第202話 「選択」

「ほら、兄ちゃん。落ち着いたか?」

「はい……本当に、すみません……」


 自分の墓の前でどれだけ泣いていたかわからないけど、巡回して俺を見かねた係員さんに連れられ、今は休憩所にいる。どうということもない、本当に普通の休憩所って感じだけど、床や壁、机にイスのよそよそしい素材感には、どうにも落ち着かない気分になった。

 休憩所は霊園の高いところにあって、かなり広いガラス戸からは、その光景が一望できた。強い雨の中、暗い空の下に灰色の墓石が延々と並んでいる。見ていてあまり気分がいいものじゃない。

 そうやってぼんやり外を眺めていると、いつの間にか係員のおじさんが、俺の前に温かいココアを出していた。壁の方には紙コップ式の自販機が並んでいる。

 さすが、ここまでしていただくわけには……そう思って返そうとするけど、カップから伝わる暖かさが手に吸い付いて、手放すことをすごく惜しく感じた。また、涙ぐんでしまう。

 幸いにして、客は俺以外にいなかった。係員さんによれば今日は降水確率100%で、わざわざそんな平日にお参りに来る人は滅多にいないそうだ。だから、俺みたいなのは特殊ってことになるけど、彼は俺に何も聞かずに放っておいてくれた。


「まぁ、ゆっくりすればいいさ。でも閉園の時間はあるから、そこは勘弁な」

「いえ、そんな……ありがとうございます」

「いいって。傘もあげるから。どうせ置き傘だしね」


 そういって、係員さんはにっこり笑って立ち去った。いなくなってすぐ、雨音が大きくなる。 

 1人になった俺は、手にしたココアをじっと眺めた。遠慮と、それ以外に何か引っかかる感情があって、なかなか口をつけずにいた。それから恐る恐るカップに口をつける。暖かくて、甘い。ココア特有の苦味もあるけど、それよりもずっと強く甘みを感じた。向こうにはない甘味だった。でも、久しぶりの強い甘みを、体が受け付けないということはない。むしろ、どこかに置き去りにした思い出を呼び起こされるような心地がした。思わず涙がこぼれてココアに落ちた。


 泣いてばかりもいられない。心は動揺していて、悲しさや切なさでいっぱいだったけど、その奥では冷静な部分があるのもわかる。

 今日は、たまたま運が良かった。こうして無計画に霊園にやってきて、みっともないところを見せて、親切な方に手を差し伸べてもらえた。こんな幸運が、いつまでも続くわけじゃない。だいたい、明日からどうするんだ? 決めなきゃいけないこと……決心しなきゃいけないことはいくらでもある。

 最初に決めなきゃいけないのは、家族のことだった。会って、話をするべきか?

 頭の中で何度も何度も、自分の家族に再会する所をシミュレートした。みんなの顔は、今でも鮮明に思い出せる。でも、想像の中での再会で、俺達は顔を合わせた瞬間にフリーズして、そこから先へ進めなかった。

 俺が家族の前に姿を表したとして、みんな平気でいられるだろうか? 幸せな再会になるだろうか? 去年、墓の下に弔ったはずの長男が目の前にやってきても? それでも話をすればきちんとわかってくれて、喜んでもらえるだなんて、そんな都合のいい再会を期待することはできなかった。俺が死んでからの、事の真相を知っている本人でさえ、この有様なんだから。もしかしたら、誰か気が狂ってしまうかもしれない。

 俺は、家族に受け入れられることを、心の底から信じ切ることができなかった。みんなのことは夢にまで見たけど、それは先立ってしまったことへの罪悪感からくるものだったんだ。今どうしているか、知りたいとは思ったけど、会いたいわけじゃない――俺が一回死んだ事実を前提に、再会なんてできない。自分の墓を見てわかった。もう、済んだ件なんだ。自分は、この世では異常な存在なんだ。


 それに……仮にすべて都合よく回って、俺のこれまでを理解してもらえたとして、1つ問題は残る。俺は残りの生をこっちで過ごすのか? あっちへ行こうと一切試みたりせずに、全部忘れて?

 目を閉じて、あっちにいるみんなのことを思い出した。ありありと思い浮かぶその顔に、体が熱くなる。

 こっちで死んだときだって、もちろん心残りはあった。でも、執着というほどの強力なものはなかった。そういう強い思い入れは、今ではあちら側にある。こちらでの俺は、結局の所モラトリアム学生で、単なる消費者でしかなかった。でも、あちらでは仕事があって稼ぎがあって、俺なりの立ち位置があった。誰かに頼られ、求められる喜びがあった。そして……人の生き死にに関わってきた。

 もちろん、こっちの世界のほうが、ずっと住みやすいのはわかってる。あっちにもいいところはいっぱいあるけど、こちらの便利や安全には遠く及ばない。でも……だからこそ、あっちに戻らなければならないんじゃないか。アイツにふっ飛ばしてもらったことをこれ幸いに、こっちの甘さにぬくぬく浸って、それでいいんだろうか? あちらへ行く手段があるのかどうかもわからないけど、それを全力で試みずに、こちらで暮らす? それを是とするのなら、今までの俺の頑張りは無になるんじゃないか。そうなって俺は、何かにまた全力で取り組めるようになるんだろうか? ここで流されたら、きっと腐ってしまうんじゃないか。

 俺は……あっちに行かなければならないと思う。あっちで頑張ってるみんなのために、何より自分のために。故郷を捨ててあちらで頑張ると、一度ならず決意したんだ。それを状況のせいにして、嘘に変えたくない。

 だから……俺は家族に会えない。会って全てを話して、それでも異世界を選ぶだなんて、そんな話はできない。


 うつむき気味にココアを眺めながら考えていると、休憩室内にアナウンスが響いた。そろそろ閉園とのことだ。

 俺は窓の外を見遣った。いつのまにか、雨足は少し弱めになっている。なんだか少しだけ踏ん切りがついたような気がして、俺は残っていたぬるいココアを飲み干した。


 休憩所を出て、俺は管理事務所に足を運び、係員さんに礼を言った。そのうち傘を返しに来ると言うと、彼は朗らかに笑った。もらっても構いやしないんだろうけど、いつか晴れた日にまた来て、きちんと返そうと思う。

 それから俺は霊園を出た。このあたりに来てから、ほとんど人通りはなかったけど、今も誰かとすれ違うことはなかった。周囲を見回すと、本当に誰もいない。霊園の周りは自然が豊かというか、木が生い茂っていて、晴れた日には森林浴でも楽しめるんだろうけど、雨の日の夕刻になるとちょっと不気味な感じがする。他に人がいないから、なおさらだった。

 雨もあまり落ちてこないくらい、鬱蒼とした木々の中に、俺は足を踏み入れる。何か出るんじゃないかって感じの雰囲気だけど、よくよく考えれば、俺自身がその何かなんだろう。そんな下らない、誰も笑えない冗談を思い浮かべる程度には、気持ちはいつもどおりに近づいていた。あっちでそれなりに辛いこともあったから、ちょっと打たれ強くなったのかもしれない。

 さらに俺は足を進めた。周囲には誰もいない。でも、念のためにもう少し、人の気配があった所から離れておきたい。


 あっち側へ向かう手立てが、まったくないわけじゃない。それでも雲をつかむような話だとは思うけど。

 俺は腰につけた小物入れから、目当てのものを取り出した。深い青色の、小さな鈴だ。俺が死んだときに釣り上げたあの人が、あっちに着いてちょっと経ってから渡してくれた物だ。年に3回ぐらいしか使えないって話だったけど、結局使わずじまいで今に至る。いや、今日のこの日のために取っておいたんだ、そう思っておこう。

 問題は、鈴を鳴らして呼べるかどうかだけど、それも大丈夫なんじゃないかと思う。無理なら、そもそもどうやってあの人は、俺をこの世から釣り上げたんだって話になる。きっと、いける。

 心臓が高鳴るのを覚えつつ、俺は鈴を鳴らした。すると、一瞬だけ世界が歪んだような錯覚がした。静かな林から音が消え失せ、世界が暗くなったような感覚に陥る。ただ、目の前に藍色の細い線だけが瞬いた。

 そして、それまでの世界が戻ってくると、目の前にあの女性が膝をついてかがんでいた。表情は苦しそうだ。それに、色が薄い。向こう側が透けて見える彼女は、今にも消えてしまいそうなほど儚い。

 そんな彼女を見て、体が勝手に動く。右手で俺は、薄霧ペールミストを幾つも書いていた。全部、きちんと魔法になった。目の前の女性の存在と、今俺がこうしてここにいる事実が、こっちでも魔法を使えることを肯定しているように思うけど、俺の右手はそういう理屈はさておいて働いた。俺のマナで霞を作って、それを彼女の糧にしようというわけだ。実際、彼女がいかなる存在なのかはわからないけど、直感的にいけると感じた。

 俺が青緑の霞を作ると、彼女は少しためらうような反応を見せた後、俺のマナを取り込んでいった。透けて見えるぐらいだった体が、次第にはっきりしていく。やがて、彼女は立ち上がり、とても切なそうな表情を俺に向けた。

 視線が合って、互いに何も言えないまま時間が過ぎた。俺の方から色々言わなきゃいけないはずなんだけど、彼女の表情があまりにも申し訳無さそうな顔で、言葉をかけるのには躊躇してしまった。それから、先に彼女が口を開く。ただ、一言「ごめんなさい」とだけ言ったけど、声を震わせて絞り出すような彼女に、こちらも無性に辛くなった。

 この人が悪いんだろうか? でも、最初に話を持ちかけたのはこの人だけど、それを了承したのは俺だ。それに、あっちの世界ではいいこともいっぱいあった。あっちに行ったことに、後悔はない。

 意を決した俺は、彼女に話しかける。


「お願いがあります。あっちへ戻りたいから、手を貸してください」

「でも……こちらは、あなたの」

「もう、いいんです。きっと、この世に居場所はないだろうから」


 この世への諦めを実際に口にすると、決心で固く締めた心の隙間から、暖かくて湿った感情がこぼれだした。視界が滲んで両手が震える。真っ直ぐ見つめるのが辛くて、俺は目を閉じて顔を伏せた。

 すると、誰かに抱きしめられるような感覚がした。あの人に実体も体温もあるようには感じないけど、それでも温かい繭に包まれているような、そんな気がする。

 耳元で囁くように「ごめんなさい」と言われた。「戻れない、ってことじゃないですよね」そう問いかける自分の声が震えているのは自覚できた。俺の問いに、彼女は少し間を開けてから静かに答える。


「……確実じゃないわ。とても、難しいと思う」

「でもいいですよ。頑張って、どうにかします」

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