第82話 「停滞感という敵」

 6月26日9時、闘技場にて。

 昨日と同じように机と椅子の準備をして、軽く柔軟をやってから魔法の練習を始めた。

 ちなみに、お嬢様は来ていない。正直に言うと、いなくてもちゃんとできてるってのを見せてあげたいという気持ちがあるので、たまーに会うぐらいがちょうどいいかな、なんて思っている。


 昨日覚えた黄色の染色型は、暗記の方は問題なくなっていた。目を閉じてもきちんと書ける。エリーさんが試しに見本を消したけど、それでも最後まで――色変えはともかくとして――描ききれた。


「覚えるのは問題ないですね」

「問題は染める方ですけど」

「ええ」


 俺はこの後のことを考えると、やっぱり心配になった。しかしエリーさんは平然としている。何人にも教えてきたんだろうか。なんとなくそう感じさせるような、ゆったりした余裕がある。

 彼女は俺の方を向いて、こともなげに言った。


「では、できるところまで染めてみましょう」

「だ、大丈夫ですか?」

「後ろに控えてますから、倒れるなら後に」


 言うなり彼女は立ち上がって、宣言通り俺の背後に回った。お嬢様のときもそうだったけど、やっぱり女性の方に倒れ込むのは避けたい。特に、こんな周囲の目があるところでは。早めの時間帯だけど、それなりに練習している姿はある。しかし、俺たちの方に気を取られている人はほとんどいないようで、それは不幸中の幸いだった。

 エリーさんは、何も言わずに後ろで待っている。待たせるのも悪いと思い、息を吸い込んで気持ちを落ち着け、地面と向き合った。そして、覚えたばかりの黄色い染色型を、描き上げる。

 最後の線がつながった瞬間に、意識もろともマナを指先から急速に持ってかれる感覚があった。いくらか耐えないと練習にならない。だからって勢い余って気を失うわけにはいかない。どの辺りまで耐えられるか、自分と相談しなければ、目まぐるしく脳裏に考えが浮かんでは消えて、少しずつ真っ白になって……。

 気がついたら俺は自分の魔法を消していた。気がつくと、額から冷や汗をかいている。何度か息を深く吸い込み、また吐くのを繰り返していると、頬に冷たいものが触れた。瓶入りの冷水だ。


「あなたの分です。一口どうぞ」

「あ、ありがとうございます」


 遠慮せずに受け取り口の中に水を含むと、涼感が体中に染み渡り生き返った心地だ。瓶の口にコルクをねじ込んで机の上に置くと、エリーさんが話しかけてきた。


「気絶せずに、手綱を握れているようですね」

「少し危なかったですけど」

「最後まで突っ走る人もいますけど、踏みとどまれるのならそれに越したことはないです。ですが、気絶しても気にしないようにしてください。それも訓練のうちです」


 気絶するのも訓練ってのは、確かにお嬢様も似たようなことを言っていた気がする。Dランクの練習ではよくあることだとか。それでも、やはり恐怖感はある。


「正確に言うと、気絶する訓練ではなく、気絶せずにこらえる訓練です。格上の魔法を手懐けようとするなら、すんでのところで耐えるのは必須技能です」

「なるほど、Dランク以降もこんな感じなんですね」

「Dが一番難しいかもしれません。ここでコツを掴めば、以降のランクでも流用できますから」


 なんか、どこかでDランクは挫折者が多いとかなんとか聞いた気がしないでもない。それって、この気絶しそうになる感覚のせいなんじゃないかと思った。


「なにか、コツってありますか?」

「そうですね、できる限り自分を客観視することを意識してください。そうしないと、マナの流れに意識を持っていかれやすくなりますから。体の一箇所か、あるいは外のどこかに意識を留めるイメージで」

「わかりました」

「マナを流そうと意識するとその意識も一緒にということは多いですから、最初はうまくやろうとは考えずに。とりあえず、マナと意識は別物ということを念頭に練習しましょう」


 アドバイスを元に昨日同様の順番で、黄色い染色型、一呼吸、水の矢、一呼吸という順で進めていく。

 慣れないうちは仕方ないとわかっていても、自分で書いたものをうまくコントロールできないっていうのは、あまり愉快な経験じゃない。逆に、水の矢みたいに最初よりも習熟を感じられるようになった魔法に対しては、自信を感じられる。


 練習を繰り返して、水の矢の方では、なんとなく自分を客観視という感覚がつかめてきたような気がする。黄色の方と違って、あまり追い詰められる感じがないから、その分自分を冷静に捉えられるのかもしれない。成功率は、上がってきている気がする。

 水の矢を通じてなんとなく掴んできている、客観視を黄色の方にもやってみようとするけど、こっちはやっぱり手強い。自分の体と描いた器の綱引きから距離を置こうとしても、結局は栓を抜いた浴槽の水みたいにギュンギュン意識を吸われる感じだ。


 練習していて気がつくと、いつの間にか周囲から人がかなり減っていた。お昼時らしい。エリーさんの案内で、俺たちも昼食を取りに行った。今日はまた別の店で、焼き魚を食べた。居酒屋が暇な昼に開けてランチやってる的な店で、安い割にうまかった。本当に、こういう店に詳しいんだなと感心してしまう。


 昼食で英気を養ったところで、また練習に取り掛かった。

 黄色の方のは、意識が遠のくまでの時間が長くなったのが何となく分かる。問題は、客観視を強くすると体側の感覚がちょっといい加減というか把握しづらいことで、魔法側のマナの要求に答えにくい。それでも、意識を吸われるよりはマシに感じる。


 無心になって何度も何度も自分の魔法と格闘する。一息入れるタイミングで、あまり前進してないんじゃないかと、ふと脳裏によぎるのが辛かった。

 そういうとき、思わず心配な顔になってエリーさんの方を見ると、彼女は何も言わなかった。ただ続きを促すように、静かに首を縦に振るぐらいだ。彼女の落ち着いた様子を見ると、悪い方に進んではいないようだったから、それだけは安心できた。でも、停滞はしているのかもしれない。


 日が沈み始めると、周囲から人が減っていった。なんだか、追い立てられているような気分になってきた。あるいは、一人で居残り授業をやっているような。いつまでも解けない問題とにらみ合い、時間だけが過ぎていく。


 雑念が浮き上がってはそれを振り払い、練習を続けているとエリーさんが「そこまでにしましょう」と言った。

 焦り、だろうか。練習が終わったというのに、あまり気が休まる感じがしない。俺は、今の今まで聞けずにいた質問を彼女にぶつけた。


「あの、あまりうまくなっている気がしないんですけど、これで大丈夫ですか?」

「ええ……そうですね、少しお話しましょうか」


 気づけば、辺りは俺たち以外誰もいなくなっていて、夕焼けの空を薄い雲が覆っていた。静かな闘技場に、彼女の落ち着いた声が妙に大きく聞こえる。


「今日の訓練は、気絶せずにこらえるのがメインです。私から見ていて、あなたがコツを掴めたかどうかはわかりにくいのですが、一度も倒れなかったので成功と言っていいでしょう」

「染める方は、あまりうまく行きませんでしたけど……」

「そちらは、すぐにどうこうなるものではありません」


 彼女はキッパリ言い放った。それから、穏やかに微笑んで言葉を続けた。


「ノートを拝見しましたが、今までが順調すぎたぐらいですね。ですから、今になって急に心配になったのでしょう。普通はここまでたどり着くのにも、もう少しかかります」

「そうだったんですか」

「図形の把握力があるのは、私も確認できました。後は、そうですね……」


 他にも何か、俺の強みがあるらしい。最初は気休めの励ましかと思ったけど、ノート片手にかなり真剣な面持ちで考え始めたので、おそらく本当のことなんだろう。


「記録を見る限りでは、教え方が良いのか飲み込みが良いのかはわかりませんが、コツを掴んだり、意識の持ちようを整えるのが得意のようです」


 そっちはあまり意識したことがなかった。いきなりそう言われても、少しふんわりしていてよくわからないけど。

 俺があまりわかっていなさそうなのを察したようで、エリーさんは少し表情を崩して言葉を補足した。


「では、体力づくりのために長距離を走る練習を始めたとしましょう。最初は、いきなりは長い距離を走れませんよね?」

「そうですね。距離に見合った体力がないと」

「他にも、ペース配分や走り方といったテクニック、気の持ちようなどの精神面も関わってくるでしょう」

「なるほど。それを魔法に置き換えると……」

「自分の内側での、マナの流れを操るテクニック。流れを意識しつつ距離を置く、精神面のコントロール。このあたりは、”同期”の中でも優れていると思います」

「それで、”体力”がまだなんですね」


 ようやく合点がいった。ここまであまり前進を感じなかった理由に。エリーさんはしっかりうなずいてから俺の言葉を継いだ。


「体内で一度に取り出せるマナの量は、短期的な体力とでも言うべきものですが、反復練習で地道に上げていくしかありません」

「あまり、上達とか気にしても良くないってことですね」

「ええ、気長にやりましょう。体力以外が優秀なおかげで、逆に頭打ち感が強いかもしれませんし」

「……お世辞とか言ってたりします?」

「それはありません」


 真顔でスパッと断言された。そんな彼女にどことなく威圧感を覚えて、少し気圧された。

 そんな態度は、どうやら思わず出てしまったもののようで、彼女は我に返ったのか少し恥ずかしそうに笑いながら言った。


「いえ、昔は魔法庁の教官職についていまして。おだてるにも本当のことじゃないと、そう肝に銘じていました」

「嘘はダメですか?」

「勘違いは良くありませんからね。それで遠回りしたり、痛い目を見ることもあります」


 どうも、個人的にそういった失敗をした経験は無いようで、口調は淡々としていた。後悔とか、そういう感情は感じられない。

 進捗は思わしくないものの、気絶せずに練習できるようになっているのは確かな成果なんだろう。おかげで反復練習が途切れたりはしない。

 それと、気休めを言わないであろうエリーさんから長所を指摘されたのは、素直に嬉しかった。

 この先が遅々とした歩みでも、根気強くやっていこう。

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