第59話 「涙の数だけ」

 リッツが追手の相手をしていた頃、ハリーはこどもたちの頭目と対峙していた。彼らが通っていた最短ルートの少し横に、あまり道とは呼べないような迂回路があり、そこをやってきた男に襲撃されたのだ。

 こどもたちはハリーが指示を出すまでもなく、街道目掛けて全力疾走した。ネリーは彼の少し後ろにある木にもたれかかるように寝かされている。最初はティムが代わりに担いで逃げようとしたものの、成人女性の重さを支えるほどの体力がなかったため、やむなく二人を残して去っていった。


 ハリーは徒手、対する男は少し長めのナイフを手にしている。ナイフには毒を塗り込めてあり、致命的ではないものの、傷が増すごとに徐々に力を奪われていくというものだった。

男にとっては獲物をいたぶり殺すのにもってこいの愛用品だったが、この状況では間違った武器の選択だった。

 守るべきものを背にし、丸腰で相対するハリーに対し、男は圧倒的な優位に立っているはずだった。腕を中心にいくつか裂傷もつけている。ハリーも毒には感づいているはずだったが、しかし戦いぶりは冷静そのものだった。体格ゆえに毒の回りが遅いのか、それとも強い精神力に支えられているのか。

 いずれにせよ、男にとっては安易な相手ではなかった。ましてや、楽しくなぶり殺せるなどとは。


 男はこれ見よがしに、ナイフで月光を反射させ、威をちらつかせる。腰を落として機をうかがい、体のバネを活かして踏み込むと、ハリーは落ち着いてナイフをかわし、タイミングを見計らったように右のフックを合わせてきた。

 踏み込んだ足を止めて力を込め、腰から上の筋肉を総動員して身を捩って右の拳を避けようとすると、拳は顎下をかすめて通り、一瞬だけ意識が霧散しかける。

 ナイフを引く手で右腕を切ろうにも、カウンターのやり取りでできた隙をついて、ハリーはすでに後退していた。

 そして、ギリギリの距離でナイフが通るのを待ってから、ハリーが体の前面に両腕を構えて前に一歩踏み込むと、男はその何倍もの距離を飛ぶように後ずさった。


 リーチの優位はあるものの、懐に入ると危険だと男は直観していた。ネリーから距離を取らせるように、微妙にハリーが前進すると、思わず男は後退する。

 ネリーを囮にした罠にまんまとかかるような、甘い相手と侮っていたのが間違いだった。戦い始めたときよりも、ハリーの顔色は少しずつ悪くなり、足取りも重いものになりつつある。男もそれには気づいているが、間のとり方やタイミングのはかり方は、次第にハリーが掌握しつつあった。

 足裏で地面をこする以外に何の音もない、静かな対峙が続く。そんなやり取りの中、男はハリーの影に隠れるネリーを一瞥した。上物ではあるが、このあと手勢がどれだけ残るかわからない今、むしろ身軽になった方が上策であるように思われた。諦めるには惜しいが、仕方ない。俺が逃げれば奴らは追うまい、男はそう考えた。


 ハリーの動きに注視しつつ、男が後事の算段に思いを巡らせていると、遠くから足音が聞こえた。足音は一人のようだ。

 ハリーの表情に特に変化はなく、依然として目の前の相手に集中している。ただ、近づく足音は、おそらくは敵だろうと男は考えた。子供三人は捨て石であり、うまく行けば……ぐらいにしか考えていなかった。

 足音が近づいてくる。男が一瞬だけ視線をそらして確認すると、二十歳ぐらいの青年が息も絶え絶えにやってくるのが見えた。あいつが……。


 すると、男の中で、色々な物を台無しにされた怒りが湧き上がり、同時に嗜虐的な発想が浮かび上がった。

 男はすぐに視線をハリーに向け、ナイフをちらつかせて威嚇する。どうせ逃げるしか道はない。だったら――売りそこねた商品を、むざむざ無傷でくれてやる必要はない。

 男は素早く身を落として下手でナイフを投げた。ハリーは、ネリーがターゲットだと瞬時に気づき、身をかがめてナイフを阻もうとする。しかし、毒のせいで動きが少し遅れた。


 ネリーにナイフが迫る。そのナイフの行方を阻むように、青緑に光る円と幾何学模様が現れた。ナイフが円の中心を通過し、鍔まで通りかかったところで、瞬時にして円に文字が刻まれた。

 文字が刻まれた刹那、ナイフは空中で停止した。しかし、ナイフを止めた円はこらえきれずに、割れて砕け青緑の霞になった。

 ナイフが止まったのは一瞬だった。だが、その一瞬で十分だった。ハリーが空中で止まったナイフの柄を掴むもうと手を伸ばすと、ナイフは本来の動きを再開しかけた。それでも、毒の回った指先にあらん限りの力を込め、投げつけた持ち主に向けて投げ抜くと、ナイフは持ち主の耳をかすめて飛んだ。

 そして、ナイフが木に突き刺さる音に、先程まで走ってきた青年が倒れる音が重なった。


 数秒の間の出来事だった。ハリーは、瞬間的に力を使ったためか、姿勢を崩しかける。しかし、それでもなお下肢に力を込め、ネリーを守るように仁王立ちになった。

 男は、虚を突いたつもりで、逆に不意打ちを受けた。少ししてから理解が状況に追いつくと、その場を離脱しようと木立の中へ歩を進めていく。

 そして、念の為に愛用の武器を取りに行こうと、男がナイフが刺さった木に近づいた。その時、かすかな風切り音が鳴り、ナイフが刺さった辺りに矢が二本突き刺さった。

 直後、黄色い発光体が投げ込まれ、黄色い光球が夜の森を明るく照らした。それと同時に、静かな森に「動くな!」と男性の大声が響く。

 反射的に、男が逃げ出そうと体を動かそうとした。しかし、それを認めまいと、目の前を矢が通り過ぎていく。その後、目の前の木の一箇所に、何本かの矢が明確な殺意を以って殺到するのを目撃し、男は手を後頭部で組んで震えながらひざまずいた。


 おそらくは助けが来たのであろう。少し安堵の表情を見せるハリーのもとへ、一人の少年が駆けつけた。


「ハリーさん、ネリーさん!」


 サニーだった。後ろには衛兵と思われる男性が何人かついてきている。


「お前が、呼んできてくれたのか……」


 かすれた声でハリーが問うと、サニーは目に涙をためて頭を下げた。


「すみません、遅くなってしまって……僕一人で逃げ出したような格好で、もう情けなくて」

「いや……増援がいないと、どうしようも……」


 言いかけてハリーは腰から崩れ落ちた。ネリーの上に重ならなかったのは幸いだった。少し薄れゆく意識のなかで、力を振り絞ってハリーは口を開く。


「ネリーを、先に……たの、む……」

「ハリーさん!?」


 狼狽するサニーの肩に、隊長格の衛兵が手を置いてなだめる。次いで、彼が指示を出すと、森の中から衛兵が八人やってきた。二人が賊を拘束し、残りが倒れている三人を優しく持ち上げる。

 衛兵に担がれて目の前を過ぎ去る仕事仲間を見て、サニーは声を抑えつつも泣いた。ややあって、森の中からも女の子の泣き声が。衛兵に背を擦られ、泣きながらやってきたセレナにつられ、サニーはこらえられずに声を上げた。


「君らも、よくやったよ。後は任せなさい」


 抱き合いながら泣く二人の頭を優しく撫でながら隊長は語りかけ、その後、彼の指示で部下は森の中に散っていった。



 気がつくと、視界を夕日がオレンジに染めていた。目の前に知らない天井がある。寝かされているベッドは柔らかい。少し曖昧な意識の中、記憶をたどろうとすると、反射的に跳ね起きた。

 右手の窓の向こうには、木と生け垣に白い壁の町並みが見える。そして、逆方向には……少し驚いた顔のラナレナさんがいた。


「おはよう」

「……おはようございます」

「先に言っておくけど、一番最後に起きたのはあなただから。安心してね」


 それだけ聞いて少し安心し、肩から力が抜けた。しかし、疑問が尽きずに頭の中を駆け巡る。何から聞けばいいか、ぐるぐるする思考に戸惑っていると、ラナレナさんが先に口を開いてくれた。


「あなた達が担ぎ込まれたのが深夜で、今は夕方。二度寝してもいいわよ?」

「ここは?」

「西区にある静養所よ。ギルドや王都の衛兵隊、国軍で使ってる施設なの」

「……ネリーは?」

「昼頃起きたわ。薬医に見てもらって、大事はないってことで、軽めの夕食をとって今は寝てる」


 気がかりだったことが一つ解決して、胸をなでおろした。

 しかし、まだまだ聞かなければならないことが山ほどある。息を落ち着けて、真剣な視線をラナレナさんに向けると、彼女は穏やかな表情で俺を見つめた。安心して、とでも言わんばかりの表情で。


「エスターさんは、大丈夫ですか?」

「……体調は問題ないけど、やっぱりショックだったみたいね。あなた達には、すごく申し訳無さそうだったというか……落ち着いたら直接会うといいわ」

「ハリーは?」

「賊の頭目とやりあった際に、ナイフの毒を盛られたみたいで、数日は安静にする必要があるわ。会話は問題ないけど」

「サニーとセレナは?」

「ん~、話すと長いんだけど……」


 俺の予想通り、二人は煙幕からうまく離脱していたらしい。その後が俺の予想を超えていた。

 現場から離れた後、サニーは周囲に気配がないことを確認してから近くの馬宿まで走っていき、手持ちの金で馬を借りて全力で王都まで走らせたようだ。

 そうまでして王都へ行ったのは、援軍の要請のためだ。各要所の距離に戦力規模を考えると妥当な判断だった。そこから援軍の誘導のために取って返したわけだけど、彼は軍馬もきちんと乗りこなし、おかげで衛兵の方々は遠慮なく馬を早駆けできたらしい。

 セレナはセレナで、援軍との合流と見張りのため、サニーの静止も振り切って現場近くの森の中で、息を潜めて待機していたそうだ。ちなみに、賊に向けて矢を射ったのはセレナだったそうで、第一印象と違い野外行動に長けているようだ。


「まぁ、女の子一人森に置く感じになったから、サニー的にはすごく辛かったみたいだけど」

「でしょうね」

「それでも、あなたたちみんなが、持てる力を尽くしたのは確かよ」

「……依頼の方は、やはり失敗ですよね」


 すると、ラナレナさんは少し顔を曇らせた。それでも、俺に向けた声は優しかったけど。

 ギルド側では、あの森の中に連中がいたことを、確かに把握はしてなかった。しかし、街道沿いの安全情報については周辺の自警団が第一の発信源になっており、ギルドは末端の冒険者に対する中継役だった。

 そのため、この件に関しては宿場町と最寄りの都市であるサフェットの自警団・衛兵隊が、状況を把握しきれていなかったのが原因の第一とされた。


「でも、俺達の不注意で……」

「依頼主の意向があったのは確かでしょう。万全を期するなら思い留めさせるべきではあったけど、結果論でしかないわ。気持ちよく仕事していただくのも、依頼のうちではあるし……事後の対応ということなら、ホント、よくやったほうだわ」


 彼女は俺の頭を優しく撫でた。それでも気分は晴れない。ベッドのシーツに視線を落とすと、色々吐き出したことを思い出した。


「……あの子たちは、どういう子たちなんです?」


 我ながら、ものすごく漠然とした問いだ。それでも、言わんとすると所は察してもらえたみたいで、彼女は少し沈痛な面持ちで話しだした。

 フラウゼ王国の北東に、シュタッド自治領というものがある。かつては一つの国だったのが内乱で瓦解し、今ではどこの国にも属さない領土になっているそうだ。

 それで、その自治領の治安が悪く、周辺国に対する脅威になっている、とのことだ。あの子たちはそこの生まれらしい。


「関所もあるけどね……人買いが手引きして、こっち側に送り込んでるなんて話があるわ。こっちの人間の方が高い値がつくから、あっちの子を安く買って、こっちの人間を捕らえさせるみたいな……」

「大人が、あの子たちをこき使ってたって話でしたけど……」

「まだ詳しくは絞れてないけど、末端に過ぎないでしょうね。大本からいくつも仲介を通した先の、手下ってとこよ」

「……あの子たちは、どうなるんです?」


 すると、ラナレナさんは、テーブルからコップと水差しを取って俺に注いでくれた。カラカラの喉に、冷たい水が痛いくらいに沁みていく。彼女も自分の分を注いで、一気に飲み干してから言った。


「今は、王都の衛兵隊で預かってるわ。実際どうするかは協議中。引き受け手が現れたらそこに任せるでしょうし、そうでなければ……まぁ、たらい回しになるかしらね。最終的には、どこかに落ち着くはずだけど。最悪、衛兵隊で矯正しつつ見習いにってところ」


 あの子たちの扱いについて、エスターさんやハリーさんと筆談したことがあった。二人が反故にするとは思えないけど、改めてギルドの方を通して色々確認しないといけない。

 俺がそんなことを考えていると、ラナレナさんは依頼の結果について話しだした。


「依頼自体は失敗。ただ、対応に関しては評価に値する部分もある。自警団等からの詫びもあるしね。ちなみに、先方は後日代理を立てて商談を行うそうよ。それで、今回の件でギルドは依頼主からは一切金を取らないけど、あなたたちには日割りの給金が出るわ。まぁ、報告書を書いたら、だけど」

「そうですね」


 力なく笑って、一夜の出来事を思い出すと、急に寒気に襲われた。体の芯から凍てつく感じに耐えきれず、思わずシーツを引き寄せてくるまる。すると、「大丈夫?」と、ラナレナさんがベッドに乗って身を寄せてきた。

 あのとき、ただ助けるため、助かるために無視してきた様々な負のイメージが、今になって脳裏を埋め尽くした。全て無視して突き進まなければやっていられなかった、色々な悪夢が。額から嫌な汗が吹き出しそうになる、そう感じたとき、ラナレナさんが優しく手を握って、もう片手で額に手をそっと当ててくれた。


「一人で抱えることじゃないわ。聞かせてちょうだい」


 深く息を吸い込もうとしても、胸に収まりきらない。浅い息を繰り返す。優しい目で見つめられながら、少しずつ胸の中を落ち着けて、心に巣食うもの一つ一つを静かに吐き出していく。


「あのとき、考えないようにしていたものが、今になって怖くなって……失敗したらどうしよう、ネリーが目覚めなかったらどうしよう、エスターさんがどうにかなったら、俺たちの誰か死んだら、あの子たちの誰か死んだら、殺してしまったら……この先、冒険者を続けられたとしても、同じような目にあったら、また立てるのかって……」


 話しながら、夜のことを思い出した。こどもに矢を射ったときの、あのマナの感じを思い出した。広げた両手に視線を落とすと、視界がぼやける。


「……こども相手に魔力の矢マナボルトを射って、あいつが敵だったとしても、それでも俺は……こんなことのために魔法を覚えたんじゃないって……もしかしたら、殺しかけてたかもしれないんです。それがこの先あったらって思うと、俺は……」


 右手に涙が落ちた。手も涙も、どちらも熱かった。そのあと、手に影が落ちて抱きしめられた。耳元で、優しい声がする。


「……こんなことしておいてなんだけど、あまり気休め言わないタイプだから、我慢して聞いてね」


 抱かれたまま無言でうなずくと、彼女は続けた。


「世の中ね、うまくいかないことばっかなのよ。世の中に気に入らないことがあっても、結局は手の届く範囲でしかどうにかできない。でも、だからってどうにかするのをやめたら、世の中も自分も腐っちゃうわ」


 少し距離を離して見つめ合う形になった。見慣れた彼女の顔が滲んでいるけど、視線の暖かさだけは感じる。


「冒険者たるもの、依頼主を一番に、仲間を二番に、自分を三番目に大事にしなさい。敵はどうだっていいわ」


 彼女は、少し強い口調できっぱりと言い放った。少し間を開けて、俺の手に両手を乗せて、彼女は続けた。次は優しい声で。


「でもね、敵のことまで想っちゃうなら、それはそれで仕方ないわ。優先度だけは見誤らないようにして、もののついでに敵のことも大事にしてやりなさい。ついでで助けられるくらい、優しく強くなりなさい」


 それから、体を少し強く引き寄せられて、抱きしめられた。華奢な人だけど、やわらかさと暖かさを感じた。涙が溢れて止まらない。手で何度も何度も頭を撫でられた後、耳元で囁かれた。


「こういうとき、思いっきり泣く子も、静かに泣く子も、それぞれ良さがあって好きなんだけど……一番好きなのは素直な子かな、私」


 口から嗚咽が漏れた。全身が小さく震えて止まらない。でも、さっきみたいな寒気のせいじゃない。暖かさに包まれたまま、めいっぱい抱き返して泣いた。


「夕飯、一緒にどう? もちろん酒なしで」


 彼女の問いに、なんとか落ち着けて言葉で返そうとすると、代わりに腹の虫が返事をしてくれた。二人で一緒に笑った。

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