第6話 「フォークリッジ封領伯」

 森を出て足を踏み入れた草原には、くるぶしぐらいの高さまで伸びた草が生い茂っていた。空と地平の間に、最後の陽の光が横たわっている。

 少し気になることがあって、俺は空を見上げた。頭上には星星の光がきらめいている。その星の色に奇抜なものはなく、見慣れた色のものばかりで……やっぱり、それとわかる見知った星座や、天の川などはなかった。


「お腹は空いていますか?」


 空に目を奪われていると、不意に話しかけられた。最後に食べたのが何時で、何を食べたのかが思い出せない。

 腹具合は、用意があれば喜んで食べるといったところ。でも、色んな意味で、食事が喉を通るかどうかは別問題だった。


「空いてる、と思います」

「家につく頃に、ちょうど出来上がるぐらいですね。今日はお母様が当番の日で……きっとお口に合うはずですよ」


 彼女は首を傾げ気味にして、笑顔でそう言った。

 彼女の身分について、高貴な生まれか、その従者かと考えていた。でも、なんとなく前者で間違いない気がする。食事係が当番制、それがお母様まで回ってくるというのが気になるけども。

 彼女の素性について考え始めると、これまでの道中、失礼なことを言ったかどうかが急に気になってきた。目の前にある家の灯りが大きくなるにつれ、いよいよ緊張も高まってくる。



 前方に見えた橙の光は、塀の上の明かりだった。塀は白く太い針金を交差させて組んだようになっていて、巻き付く蔦が、競い合うように塀の隙間を埋めている。その塀はかなり長く続いている。

 塀の入り口までたどり着くと、花壇でいっぱいの庭と、赤茶色の屋根に白い壁のお屋敷が見えた。屋敷は平屋のようだけど、かなり広い。田舎の地主、名家などの住まいを思わせた。

 日没後の闇の中、辺りを囲む柔らかい橙の灯りに囲まれ、奥行きのある庭を進む。歩を進めるだけで勝手に恐縮してしまう、静かな緊張感があった――あるいは、俺が勝手にそう感じているだけかもしれない。


 お屋敷の開けたドアの前には、女性が一人立っていた。ここまで案内してくれた彼女よりも、少し背は高めで、落ち着いた雰囲気の女性だ。

 気になったのはその服装だ。上は長袖で装飾がほとんどない白のブラウス、下は少しゆったりした黒のスラックスという格好で、右の腰には美容師が使っている、シザーポケットを少し大きくしたものを吊るしている。

 そんな装いの彼女は、本人が醸し出す雰囲気もあって全体的にスマートに見えた。でも、お屋敷の従者というよりは、普通に美容師に見える。

 俺が彼女の素性について、あれこれ考えを巡らせていると、当人は俺たち2人にそれぞれ軽く視線を送った後、静かに言った。


「私はフォークリッジ封領伯家に行儀見習いとしてお仕えしております、マリーベル・クローサと申します。あなた様が当家ご滞在の間、身の回りのお世話をするようにと、主人より仰せつかっております。知らぬ地での生活故に、何かとご不便を感じられるかと存じますが、ご自身の手足と思ってご用命くださいませ」


 スラスラと流れ出るような、心地よさすら感じる彼女の声が、自分に向けられたものだと理解するのには若干の時間を要した。

 幸い、口を開けて固まるようなことはなかった。それでも内心呆けていると、マリーベルさんは俺から視線を外して言った。


「お嬢様、広間に皆様お揃いです。お着替えは、お部屋に準備してございます」

「ありがとう」


 “お嬢様”は軽く会釈して、うやうやしく頭を下げるマリーベルさんとすれ違い、屋敷の中へ入っていった。やはり、結構な身分のお方のようだ。


「ところで」


 お嬢様を見送った後、俺に向き直ったマリーベルさんが問いかけてきた。


「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」

「リッツ・アンダーソンです」


 半ばヤケになっているのもあると思うけど、繰り返し名前を口にするたびに抵抗感が薄れていくのがわかった。呼ばれるのには、やはり少し拒絶感のようなものがあるけども。


「アンダーソン様、お怪我はございませんか?」

「えっ?」


 森の中で打ち付けた尻のことを言っているのだろうか。そんなはずはない。だとしたら、何のことだろう。とりあえず体に気になるところはない。

 彼女からの問いを、逆にいぶかしがっていると、彼女は続けた。


「お召し物が……」


 少し言い淀む彼女の視線の先を追い、自分の服を見てみる。

 ダメージファッションの趣味はまったくなかったけど、今の自分の服は、そういう服以上に傷んでいた。上のワイシャツ、下のジーパンともに無残な傷跡や穴があって、ところどころ素肌が普通に見える。

 今の今までろくな明かりがなく、自分の姿を顧みなかったけど、やっとここでズタボロの装いだったと判明した。人の姿を見てどうこう考えている場合ではなかった。


「……怪我は、ありません」


 思わず引きつった笑顔になりながら答えると、彼女は穏やかな笑みを浮かべた。


「後ほど、お着替えの準備をいたしますが、まずは主人の元へとご案内いたします」


 この格好のままで、ということらしい。ちょっとした反論を挟む隙間もなく、彼女は屋敷の中へと歩き始めた。



 外は白い壁に見えたけど、それは塗装のようだ。中は温かみのある、明るい赤茶色の木材でできていた。

 天井には所々、瓶に入った光球が吊るしてある。日が沈んだ後だけど、屋敷の中は読み書きに不便のない程度の、暖かな色合いの光で満ちている。

 ご立派なお屋敷だけど、通路に絨毯やツボのような"わかりやすい"ものはない。その一方で通路の窓は多い。その窓と窓の間には、斜めに花瓶が配してあり、花が挿してあった。庭には花が咲いている様子がほぼなかったので、こちらのは早咲きなんだろう。

 全体として、圧倒されるような仰々しさやきらびやかさはなく、むしろ居心地の良さを感じさせる作りの屋敷だった。

 先導して案内する彼女も、その言葉遣いや所作には洗練されたものがあるけど、装いはそれらしい感じじゃない。森で会ったお嬢様同様、実用本位という出で立ちだった。

 しかし……いっそ成金趣味で固められたほうが、かえってわかりやすいくらいだ。この家の立場や地位、自分の立ち位置が全くつかめない。ご当主のお部屋へ向かう歩を進めるにつれて、身が硬くなる思いだった。

 すると、彼女が足を止めた。


「こちらです」


 通路で見た他のドアよりも、若干重厚感があるように見える。いよいよと思うと、急に自分の服のみすぼらしさが気になった。


「こんな服で大丈夫ですか?」

「むしろ……興味は惹かれるかと存じます」


 そう言う彼女の顔は、笑みこそ静かで落ち着いたものだけど、目つきにイタズラっぽさを感じた。嘘はついていないけど、楽しんでもいる……そんな感じだ。

「なるようになれ」と、俺は彼女に目配せしてドアを開けてもらった。すると、部屋の入口近くに壮年の男性が立っていた。思わず背筋が伸びてたじろぐ。横の彼女はニコニコ微笑んだままだ。

 その男性の服装は、一言で言えばゴルフウェアっぽかった。マリーベルさんの服装と見比べると、はぁなるほどという感じの、似たようなスマートさがある。体格はマッチョというほどではないけど、半袖の服から覗く二の腕は引き締まっている。

 彼の少し堀の深い顔は、穏やかな笑みを浮かべていた。威圧感はまったく感じさせないし、服にはカジュアルさすら感じる。でも、風格というかオーラのようなもの確かにあった。


「ようこそ。フォークリッジ封領伯家、現当主のカーティスだ」


 落ち着いた、すごく安心する声で話しかけられ、握手を求められた。


「リッツ・アンダーソンです」


 視線を合わせつつ、握手に応じる。厚みがあって力強い手だ。


「まずは掛けてくれるかな」


 握手もそこそこに、部屋の中へ招かれる。正面の執務机の上には書類が散乱している。その机を挟んで対面できるように、イスが用意してあった。

 部屋の左の壁は棚と本で埋まり、右の壁は地図が何枚も重なり合うように無造作に貼り付けてあった。

 落ち着いた書斎という感じだ。しかし、入り口からすぐ左には、部屋の雰囲気にそぐわない小さなテーブルがあった。テーブルクロスは白と黒のチェック模様で、2つあるイスの片方には、白と薄い桃のストライプになっているクッションが乗っている。


「そちらのテーブルは、男二人では少し距離が狭すぎるのでね」


 テーブルから声の主に視線を移すと、少し苦笑いしている。手のジェスチャーで、改めて机の前の椅子を勧められた。その封領伯閣下(?)が座る――いや、座られる――のを待ってから、着席した。


「先に着替えたほうが良かったかな?」


 着席するなり、早々に切り出された。


「その……このような格好で、お恥ずかしい限りで」

「私も、服を傷めるのはしょっちゅうでね……家の皆に、よく叱られるんだ。新しい服はマリーが用意するから、心配しなくていい」


 そう仰ってから、伯は少し黙ってこちらを見られた。視線に思わず恐縮し、背筋がほんの少し小刻みに揺れる。


「きみは……私のような者に会うのは初めてかな?」

「それは、どういった意味でしょうか?」

「いわゆる貴族……まぁ、そうだな。生まれつき、人より偉いこととされている連中だよ。きみの態度に礼節を感じるが、同時に戸惑いや硬さも感じるのでね。単にこういう経験がないのかと」

「もともと住んでいた世の中には、明確な身分制はありませんでしたので……」


 俺の返答に、伯は「ほう」と感心の声を上げられた。


「異世界は進んでいるのだなぁ」


 その、どこかしみじみとした口調とお言葉に、何か違和感を覚えた。貴族、つまりピラミッドの上の身分の方が、ピラミッドのない世界を指して「進んでいる」と評すのは、それこそ進歩的だと思う。


「ただ、血筋での身分はなくなっても、財産や職業などで相続や世襲はありますので……そういう意味では、平等ではありませんでした」

「それはそうだろうな。結局は誰もが、上に下にと、自分以外の誰かを配したがるものだ」


 腕を組んで何度かうなずかれている。森の中で天文院とやらの男性と問答した後、"閣下"と気が合いそうと言われたのを思い出した。


「あの、私が異世界から来たというのは、ご存知ということで?」

「ああ、それはもちろん。白いフードの彼女が、きみを導いたのだろう?」


 問いにうなずき、また一つ問いを投げかける。


「あの方は一体?」

「申し訳ないが、私も知らないんだ。彼女からは、きみが来るという程度の情報しか与えられなかった」

「それで、信じられたのですか?」

「一目で尋常ならざる存在だとわかったのでね。それに」


 そこで言葉を切られた伯は、にこやかな笑みを浮かべて続けられた。


「信じてなかったら、きみが困るだろうと思ってね」


 それには思わず苦笑いを浮かべて賛同した。


「自己紹介の続きになるが、封領伯というのは監視・管理対象となる特別な地所をあてがわれた貴族で、当家の場合はきみが来た森がそうだ。森の管理以外にも、上から厄介事は山程当てられるがね」


 伯は机の上の書類の山を指差しながら、ボヤキ気味に仰った。


「貴族相手の付き合い方は、最初はわからないだろう。とりあえず私のことは閣下と呼ぶといい。他の皆も、だいたいそのように呼ぶ。それと何かと来客の多い家だが、訪問者には背筋を伸ばしてゆったりと構え、にこやかに黙っていれば問題ない」


 そこで一度閣下は区切られた。そして苦笑いで言葉を続けられる。


「あまり落ち着かない様子でいると、いずれボロが出て来歴が明るみに出るということも、ありえなくはないだろうからね。そうなるとお互いに困るだろう?」

「……私が異世界から来たということは、他に誰がご存知なのですか?」


 俺の問いに、閣下は腕を組んで一度宙を見上げられた。その視線が天井をあてなくさまよう。


「まずは、私と妻と娘、それにマリー。つまり、この家の四人全員だ。他は、機密事項なので実名や役職は挙げられないが……まぁ、国の重臣の中でも頂点に近いごく一部が認識している、というぐらいだ。ほぼ極秘と考えていい」


 途端に、何やら自分が重要人物のような気になってしまった。そんな気持ちを察してか、閣下は仰った。


「存在としては、ある意味で王族よりもきみの方が貴重ではあるが、世間的な身分はそうではない。そういうわけで、きみの立ち位置に関しては難しいものがあってね。とりあえずは当家預かりの客人ということで、あまり不便を感じさせないよう我々で便宜を図ろう、といったところだ」


 そして、穏やかな笑みが、ほんの少し真剣な面持ちに変わる。


「きみが今まで見聞きした経験や知識には、何かしら学ぶものはあるだろうと私は考えている。恩着せがましいようだが、きみに世話させてもらう衣食住への恩返しに、私たちの知らない世間話でもしてもらえれば幸いだ」


 力のある眼差しに少し押されながらも、閣下のご要望にうなずいて返すと、閣下は急に力を抜いてくつろいだ表情になられた。


「まぁ、色々と聞きたいことは互いにあるだろうが、まずは着替え、それに夕食だね。外にマリーがいるはずだから、もう行くといい」


 その言葉を受けて、立ち上がろうと力を入れた時、それを制するように話しかけられた。


「国が変わるだけでマナーも変わるものでね。世界が違えばなおさらだろうが、私たちにきみを無理に合わせるつもりはない。ただ、きみがこれから生活していく中で、悪目立ちしたくないというのであれば、私達はそれなりに良い見本になれるとは思う」


 ここで言葉を切られた閣下は、何度か瞬きして視線を横に向けた後、少し苦笑いをなされた。


「とはいうものの、自宅で細かいマナーをとやかく言うのは私も苦手でね。席を辞す程度のことにもマナーはあるが、私は気にしないので、きみも気にしないでくれ」


 そう仰って、閣下は机の上の書類に目を落とされた。お作法を見て見ぬ振りをするように。

 これで緊張せずに退出できると、少し安心して立ち上がると、閣下に向けた背に「また夕食で」と声をかけられた。

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