第5話 「敵と果物を切ってみて」
木々の影に潜む、赤紫の小さな光は、徐々にその数を増やしていった。
すると、彼女が右手に持った剣の両刃の少し内側を、先端に向けて二つの紫の光の線が走った。先程まではゆらゆらと揺れていた、頼りなさそうな白い刃が、芯が通ったように固まる。彼女自身も、ほんのうっすらと淡い紫の光に包まれているように見えた。
向こう側に群がる赤紫の光は、こちらに近づくにつれ、その正体を明らかにした。
赤紫に光る目を持つ犬だった。毛は暗闇の中でかろうじて見える程度の、焦げたような暗褐色で、光点がやたら多く見えたのは、目が六つだからだ。鼻から耳にかけてのラインに、少し不揃いに、気味悪い六つの大きな目が並んでいる。
犬は、どうやら三匹いるようだ。前方左手の数メートルは離れた場所にある、一本の木の陰に二匹、そこから右に少し離れた木の陰に一匹。それぞれの目の禍々しく光るハイライトが、別々に動き回っている。探されているのだと感じた。
相対する彼女は、右手の剣を腰の高さで構えたまま、左の手の平を犬達の方に向けた。
手を向けられた犬は、威嚇するような唸り声を上げた。中型犬ぐらいの大きさに見えたけど、三匹の声が共鳴して、こちらまで映画館のような大音響が襲ってきた。頭上の枝葉がざわめく。
それが掛け声だったのか、連中は臨戦態勢に入ったようで、後ろ足を上げて前を落とし、前傾姿勢になった。これ見よがしに向けられた十八の目が、俺を脅すようだった。
しかし、その威圧に俺が身をすくませる暇もなく、パァンと乾いた破裂音が響き、二匹が腹を見せるように横向きに倒れた。
倒れた二匹に
考える間もなく、見たものをそのまま受け入れるしか無い短い時間の中で、事態は更に動いた。
難を逃れた一匹は、仲間から離れるように軽く飛び退いた後、彼女目掛けて駆け出した。そして、五メートル程度は間があると見えたけど、彼女に向かって力強く跳躍する。
そいつは飛びかかりながら、空中で口を大きく開けた。鈍い銀色の歯に縁取られた口の中は、何も見えない、光を呑むような闇だった。
傍から見ていても肝をつぶす光景だったけど、彼女は静かに左手を犬の方に向けた。
すると、今度は紫の小さな閃光とともに、硬い物を叩きつける衝撃音が響いた。音と同時に、犬の大きく開けた上顎が、さらに不自然に開く。飛びかかる勢いは少し収まったようだ。限界を超えて上に折られかける顎の動きにつられ、全身がゆるやかに後方回転する。
そして彼女は左手を剣の柄に添え、敵を縦に断ち切った――実際には、剣の動きが速すぎて見えなかったけど、空中に残った紫の軌跡が、そう判断させた。
縦に切られた敵は、真っ二つに泣き別れたわけではなかった。でも、致命傷になる程度には深く切られたようだ。切り口から、赤紫色に鈍く光る砂埃らしき何かを吹き出しながら地に落ちる。
そして数秒後、そいつは煙のように消えて果て、後に金色に光る硬貨のようなものが残った。
今消えた敵に俺が意識を奪われていた間に、彼女は先に制した二匹の方に歩いていた。歩きながら、左手を敵の方に構え、何度か紫の光をきらめかせた。
その光とともに、先程よりは少し小さめの破壊音が響き、倒れた二匹の腹と頭が、見えない鈍器で叩きつけられたかのように動いた。衝撃は全身に伝わって、2、3回転したかと思うと、止まった先で赤紫の血煙と化して、やはり二匹とも硬貨を残した。
淡々と、"処理した"という言葉が似合う戦いだった。
立てた音は大きかったものの、彼女の背中や動きからは、俺たちがしつこい蚊を殺す時に見せるような、ちょっとした感情すら伝わってこない。ただただ静かで――少しおっかなかった。
彼女は、倒した二匹の元で
で……登るのは良かったけど、降り方がわからなくなった。ど忘れなのか、それとも目の前の戦いで見入っていたからかもしれない。
「登ったときの逆に」と考えながら、恐る恐る降り始める。しかし、どうも体の感覚が浮ついている。ヤバいと思いつつも、そんな警戒心がフワっと霧散して芯まで届かない、かなり茹だった状態だ。
そして――足を踏み外した瞬間の嫌な感じが、やっと俺を現実に引き戻した。
「ぐはあっ……ってぇ……」
尻を強く打ち付けた。尾底骨のあたりから頭に向けて、背筋に衝撃が走る。
「大丈夫ですか!?」
背後から焦った大声が聞こえた。枝や葉を踏みつける音が迫る。
しかし、恥ずかしすぎて、近寄ってくる彼女に顔を合わせられない。背を走る痛みの衝撃と羞恥心がない混ぜになって、俺はただ体を小刻みに振るわせた。
「大丈夫……ですか?」
もう一度、静かに、心底心配げな声が、丁寧に追い打ちをかけに来た。ツラい。
「……す、少し、待って……ください」
少し涙目になりながら応じた。背後から声がする。
「本当に……申し訳ありません。木の上でしたら、少しはお近くでお見せできるかと……起きてこられたばかりだというのに、軽率でした」
「いや……なんというか、まぁその。魅了されたのは事実ですし、そんな、気にしないで」
こんなことで謝らせたのでは逆に悪い気がして、しどろもどろに、必死のフォローをした。
戦っていたときの彼女は、静かな気迫に満ちて大きく見えたけど、今は背中越しに縮こまっているように感じた。同一人物とは思えないくらいに。
尻を強く打ち付けたものの、特に大事はなかったようだ。ほどなくして立ち上がることができた。歩くのにも問題ない。
問題があるといえば、雰囲気だった。俺は恥ずかしさから、彼女の方はおそらく反省の意から沈み気味で、互いに声をかけづらい空気になっていた。いたたまれない。
無言で出口へと二人で進む。彼女の言では、もう犬どもと遭遇する心配はないということと、出口までは今まで歩いたのと同程度の距離とのことだった。
しかし、その同程度の距離というのが物理的なものだったら、今の心理的にはもっとずっと長く感じられる。
「すみません」
「はいっ!」
今の空気に耐えきれずに話しかけると、少しうつむき気味に歩いていた彼女は、背筋に氷を当てられたかのような反応をしてから、こちらに向き直った。
「先に出会った、あの男性は一体?」
「あの方は、天文院の職員の方です」
天文院。学術機関か公共機関か、どっちもありえそうだと考えていると、彼女は続けて言った。
「天文院というのは、具体的な職務こそ外部に知られていませんが、とにかく大変な賢人にしか入れないお役所と聞いています。今回の立ち会いも、知られざる業務の一環とのことです」
「知的な方なんだろうなというのは、なんとなく感じてました」
今日の出会いが、異界人の受け入れ立ち会いというのであれば、知られざる業務というのも納得できた。
彼女の口ぶりでは、彼に関してはこれ以上聞き出せそうにない。たぶん、エリア51の職員のようなものだろう。そういう認識で、この場では受け入れておくしかなさそうだ。
続いて俺は、別件を切り出した。
「敵を倒したときの、あの硬貨のようなものは?」
「初めてですよね。今出します」
彼女は歩をこちらに少し寄せながら、腰のポーチに手を入れ、取り出した例の品を手渡してきた。
金色の硬貨は、
「倒すとああなるんですか?」
硬貨の造形に感心しつつ、彼女の手に返した。
「はい。この硬貨は街で市場用の通貨に換金できます」
モンスターを倒すとカネになるっていうのを、こんな即物的な形で納得するとは思わなかった。レリーフが敵を示しているのなら、倒した敵に対してきちんとレートも定まるということなんだろう。この点はかなり合理的に感じた。
しかし、気になることもある。
「逆はできないんですか?」
「逆というと?」
「硬貨から魔獣に戻すのは」
すると、彼女は曲げた指を顎に当てて難しげな顔をし、少し考え込んでから答えた。
「再現に成功したという話は、聞いたことがありません。公には、誰も挑戦していないと思いますし。秘密裏に試みている方は、もしかしたらおられるのかも知れませんが……」
「うまくいったらどうなります?」
「国を挙げて称えられるか……投獄されるかですね」
ニコリともせず、淡々と答えられた。気になる部分が多い話題だったけど、ここで打ち切ったほうがいいな、これは。
次に何か別の話題はと考え、ペラペラの剣に思い至った。
「聞いてばかりで申し訳ないのですが」
「いえ、喜んで。何でしょうか」
「先の戦いで使っていた剣ですが、少しこう……剣のイメージと違っていたものだったので」
俺の言葉を受けて、彼女はニコリと笑って、右手で少し剣を引き抜いてみせた。
「これはリーフエッジと言います。元はとても長い植物の葉で、特殊な薬湯で煮て作るそうです」
ペラペラで柔らかそうに見えたけど、元が植物ならば納得だ。
「マナを通せば硬化して剣のように使えるのですが、流し方次第で歪んだり曲がったりしますし、剣の振り方が悪ければ無理な力がかかって、葉がすぐに破損します。それで、一般にはマナの扱いと剣の扱いの両方を磨くために使われています」
「すみません、マナ、というのは?」
「魔法を使うための力です。私は紫色のマナが、アンダーソンさんには、緑寄りの青色のマナが流れているみたいですね」
そう言う彼女の右手が、ぼんやりと薄紫に光った。
マナの色で、生前の趣味を思い出した。青というのであれば、自分に合っていると思わないでもない。緑も混じってるってのは、ちょっとイメージに合わない気がするけど……。
そんな事を考えていると、彼女は続けた。
「剣の話の続きですが、本来この剣は特訓用に用いられるものです。ただ、軽さの割に切れ味とリーチに優れるので、私は実戦用にも好んで使っています」
言い終えると剣を鞘に戻し、少し苦笑いした。
「この剣に慣れてしまうと、他の剣を使う時にかなり不利なので、あまり褒められたことではないのですが……使い込んだ愛着もあって、大切なときには、つい頼ってしまって」
彼女の実戦を目の当たりにした――というか剣を振るのが見えなかった身としては、かなりの説得力を感じた。素人の目では追えないスピードで振れるくらい軽くて、しかもきちんと切れるなら、愛用するのもうなずける。
「私の方からも、質問よろしいでしょうか」
不意に彼女から尋ねられ、首を縦に振った。
「ずっと気になっていたのですが、三角形の内角の和は180度ではないのですか?」
「へっ?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまったけど、彼女は真剣な眼差しでこちらを見つめている。
「先の問答で、内角の和が一定かどうかという問いに、平面でなければその限りでないとお答えでした。それが頭の中で引っかかっていました。私は常に和が一定と教わってましたので」
「いえ、基本的に180度で合ってるんですが……」
まさか、説明を求められる羽目になるとは思わなかった。たぶん、普通の図形の知識は持っているだろうから、頑張れば納得してもらえるかも知れない。
それに、木から滑り落ちた挽回をしたい気持ちもあった。ここで説明から逃げると、本当にダサいままで一日が終わりそうだ。ちょっと、頑張ってみよう。
「極力、わかりやすいように説明しますけど……前提知識などで、少し食い違いがあるかも知れません。その時は指摘してください」
「わかりました、よろしくおねがいします」
頭を下げられた。もう退路はない。目を閉じて、森の冷えた空気を吸い込む。
一瞬、根に足を取られかけ、薄目を開けてもう一度深呼吸。気分と考えを落ち着かせ、説明をまとめる……よし。
「完全に歪みのない球形の果物があるとします。現実にはありえませんが、そういうものだとイメージしてください」
「はい」
「これを8等分します。つまり切るのは3回です。ここまでは大丈夫ですか?」
「切り口が各々に対して垂直になる、ということですか?」
「その理解で大丈夫です」
ここまではいい。たぶん、ここからが少しめんどくさいはずだ。
「以後の説明ですけど、かなり屁理屈に感じる部分もあると思います。まぁ、一理あるな~ぐらいに思われたら、気軽に”はいはい”と聞き流すぐらいの気分で聞いて下さい」
「はい」
「8等分した果物の表面ですが、切り口が交わる部分は、直角になりますよね?」
「はい」
「それで、切り分けた果物を一切れ取り出します。皮のついている側は、まぁ、三角形に見えなくもないですよね。曲線で囲われてますけど」
「……はい」
「その三角形の角ですが、どれも先の話で言うところの、切り口が交わってできている、直角になりますよね。ならなければ、各切り口に対して垂直に見れば、直角を確認できるはずです」
説明が徐々にゴリ押しじみてくるのに従い、考え込む彼女の顔もいよいよ渋くなる……年がそう変わらなさそうな、会ったばかりの女の子に、屁理屈混ぜて無理やりハイハイ言わせているこの状況は、なんとも言えない強力な背徳感があった。
「…………そうですね。直角に見えなくもない角が、三つあります」
「それで、切った果物の皮の側は、直角三つの三角形になります」
果物の現物がない状態で、思いつく説明はこれが限界だった。彼女は黙り込んだ。多分頭の中で果物を切ったり回したりしているんだろう。
また静かになった。森の出口まで、どれくらいかはわからない。でも、彼女が考え込んでいるうちは、気まずさは感じずにいられるんじゃないか……そう思っていたところに、つぶやくような声で話しかけられた。
「切った、切れ端一つの皮を剥いて、まな板に広げます」
「はい」
「これは……三角形ではありません」
静かな彼女の口調に、どことなく気圧されたけど、気を持ち直して答える。
「……そうですね、これは三角形ではないです」
「つまり……平面上では、この図形は三角形ではない。別の……球面の上なら三角形になる、ということですか?」
「……そうです」
説明しておいてなんだけど、天文員の男性といい彼女といい、どうして理解できるんだろうか。よほど図形に強い方が多いみたいだ。感心と驚きを強く感じていると、彼女は言った。
「あまり釈然としませんが、理屈はわかりました」
「気持ちはわかりますよ。なんかスッキリしませんよね」
「はい」
「自分も、初めて知ったときは屁理屈に感じましたし」
彼女はうなずき、視線でも賛同の意を示してきた。
「まだ、納得がいっていない部分はありますが……今度果物を切って試します」
「是非そうしてください」
答えると、彼女は笑った。こういう生徒がいれば、数学教師は泣いて喜ぶだろうなと思った。
「あっ、そろそろ出ますね」
言われて前方を見る。森の中は暗く感じたけど、完全には日が沈んでなかったようだ。前方の地平線を、残った陽の光が曖昧に照らしている。
そうして前方に目を凝らしていると、彼女は明かりの光球を一つ、前方に作って飛ばしてくれた。
木々の境界の外に草原が広がっているのが見えた。視界には、木の他には草しか見えない。
「まだ歩きますか?」
「ほんの少しですよ」
微笑みながら彼女は答えた。
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