第4話 「俺の名は」

「自己紹介がまだでしたね」


 男性の姿を見送ってから、女の子が切り出した。


「私はアイリス・フォークリッジです。あなたのお名前は?」

「あー、えーっと」


 名前の選択肢は2つあった。本名の"下村 律"か、ネットで使っていたHNハンドルネームの"リッツ・アンダーソン"だ。

 おそらく、本名だと色々と不都合があるのではないか。

 俺を釣った彼女が、最初でHNで呼んできたのは、こちらの世界との親和性もあってのことなんじゃないか。

 そういって理性はHNの使用を後押ししていたが、感情は本名を好ましく思った。というよりも、肉声でHNを、それもネタが理解されなかった奴を名乗るその気恥ずかしさが、合理的な判断を邪魔していた。

 緊張から目をしばたたかせる。俺の名乗りを待つ彼女は、心配そうに首を傾げて、じっと視線を送ってくる。余計に息が詰まる。

 しかし、覚悟を決めて名乗らなければならないようだ。

 横たわったまま名乗るのは流石に失礼と思って、手に力を込めて上半身を起こす。

 深呼吸してから、なるべく落ち着くように心に言い聞かせて、


「……リッツ・アンダーソン、です」


 なんとか言い切れた。何か、大切なものを切り捨てた、そんな気がした。


「アンダーソンさん、ですね」


 どちらかというと、そっちのアンダーソンは忘れてもらいたいくらいだったが、出会ったばかりの女の子にファーストネームで呼ばせる勇気はなかった。

 なるようになれと、彼女の確認に首肯した。すると、先程まで少し心配げだった顔がにこやかになった。


「喉は渇いていませんか? お水で良ければ持ってきていますが」

「お願いします」


 彼女は、背負った少し大きめなボディバッグらしきものを胸側に滑らせ、中から500mlぐらいの大きさの瓶を取り出した。

 瓶の中の液体は無色透明で、中には柳のような葉っぱが入っている。


「中の葉は、私の趣味で入れているハーブです。お口に合えば良いのですが」


 そう言いながら、彼女は瓶の口に詰めたコルクのような栓を抜き、これまたバッグから取り出した、くすんだ銀色のコップに液体を注いだ。

 差し出されたコップを両手で受け取り、口元に持っていく。清涼感のある香りが、すっと鼻に入っていった。

 一口飲むと、さほど冷たいわけではなかったが、清々しい涼感が口中に広がった。飲み込むと体の奥まで心地よい涼しさが駆けていった。

 ほんの少し酸味と苦味がある程度で、あまり味覚は刺激されなかったが、とにかく爽やかな水だった。


「もっと飲まれますか」

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」


 一杯で十分癒やされた。感謝の意を込めて、軽く頭を下げながらコップを彼女に返す。

 左手でコップを受け取った彼女は、栓を詰めた瓶を小脇に抱えると、コップを逆さにして残った水滴を振った。

 ひとしきり飲み残しを落としきったところでコップを上向きに持ち直し、右手でコップの中を指差した。右の人差し指の、先端より少し先の空間に赤い円が見えたかと思うと、細筆の毛先のような炎が生じた。右手の指で円を描くと、その動きに合わせ炎の筆がコップの底を舐める。続けて、小さな蒸発音が聞こえた。

 こうして水分を飛ばし終えると、彼女はコップと瓶をバッグに戻し、バッグを背負い直した。

 初めて見るコップの乾かし方の、その手慣れた所作に、呆けつつ感動していると、彼女に話しかけられた。


「これからについてですが、あなたを当家でお預かりする手はずになっています。何かと聞きたいことがあるかとは思いますが、まずは森を出ましょう。立てそうですか?」


 そう言われて、尻のあたりに目を落とす。落ち葉や樹皮が敷かれた下に、ゆるい坂状の石が土台になっているのがわかった。

 足を揃えて横にやると、地面には問題なくついた。足に力を入れて、ゆっくりと腰を上げると、特に立ちくらみすることもなく立ち上がることができた。


「では行きましょうか」

「はい」


 彼女の後について森の中を歩き始めた。

 今まであたりを照らしていた小さな光球は、彼女の指の動きに合わせるように、前方を先導するように動いた。

 木々の向こうは、ある程度いったところで視界が闇で途切れる。真っ暗ではないが、唯一の明かりは小さく儚げで、少し不安になる。

 歩き始めてからは特に会話はなかった。地に重なり合う枝と葉を踏む音の他には、擦れ合う梢の音と、遠くで何かが羽ばたく音が聞こえる。

 季節がいつなのかはわからなかったが、日はもう暮れているだろう。肌寒さもあって、余計に心細さを覚えた。


 前を行く彼女は、時折こちらに首を向けてくる。きちんとついていけているのか確認しているのだろう。

 あまり遅れないようにと、足元に気をつけつつ歩を早める。道というよりは、人の往来の痕跡があるだけで、ところどころ横から這い出している根に、油断すると足を取られそうになる。


 少し急ぎ、なんとか距離を縮めると、彼女が年格好の割には背が高めなのがわかった。160cmよりは確実に背があるだろう。

 腰には3本剣を携えている。腰の右には、膝下まで伸びた剣を。左の腰には、腿の中ほどまでの長さの剣を。そして横向きに、ちょうど腰の横幅ほどの短剣を身に着けている。さすがに、一本口に咥えて三刀流なんてしないとは思うが。

 左右の剣は特に目を引く装飾がなかったが、一番短い短剣は、白い金属製の鞘に金細工がなされている。彼女の装いの中で、短剣だけが浮いて見えるくらいにきらびやかだった。

 どういう身分の子、いやお方なんだろう。服装は探検家というか、ガールスカウトというか。濃いベージュの長袖長ズボンに、登山靴を思わせるゴツいブーツを履いている。あまり身分をひけらかすような感じはなく、実用本位な装いだ。

 ただ、先の会話で当家という言葉を使っていた。それ以外の言葉遣いや立ち振舞いにも、どこか上品さを感じる。歩く姿などは、頭がほとんど上下していない。

 何か高貴な家の生まれか、あるいはそういった家に仕える、いずれにせよ上流階級の人物という感じがした。

 彼女の装いに当て所なく視線を送りつつ、そんな事を考えていると、目が合った。

 考え事をしていて気づかなかったが、結構俺の方を見ながら歩いていたようだ。流石に視線が不躾すぎたと思い、首を別の方向に向けるが、彼女も同じようなものだったらしい。視界の端に、バツの悪そうな顔が見えた。


 二人で無言で森の中を歩き続ける。

 色々聞きたいことや、聞かなければならないことがあるはずだったが、何を聞きたいのかもよくわかってなかった。

 ふと、先に質疑応答した男性のことを思い出した。別れる際に、彼女はレーダーらしきものを作って、帰り道を教えていた。あれはどういうことだったんだろうか。

 確か彼女の手に乗っていた半球には、中心に三つ、青緑、藍色、紫の光点があった。手袋で光を絞り出されたときのことを考えると、青緑は俺を差しているんだろう。だとすれば、たぶん紫が彼女、藍が例の彼なんじゃないか。

 そして薄紫の半球には、赤紫の点のちょっとした集まりが、何箇所かに散在していた。


「すみません」

「どうしました?」


 極力落ち着いて、彼女に話しかける。


「さっきの紫の半球ですが、赤紫の点は……何か良くないものでしょうか? そもそも、声を出しても大丈夫ですか?」

「音では探されませんので、そちらは大丈夫です」


 そう言いながら、彼女は俺に見えるように右の手のひらを上に向けて、先程の半球を作ってみせた。こころなしか、赤紫の点の群れの一つが、先程よりも中心に近づいているように見える。


「この距離だと……感づかれる可能性はありますね」


 少し眉を寄せて難しい顔をして、ポツリと漏らした後、彼女は顔をこちらに向けた。


「申し訳ありませんが、少し駆け足できますか?」

「多少なら走れますが、赤紫のは何なんですか?」

「魔獣です。では付いてきてください」


 半球を煙みたいに消すと、右手で俺の左手を取って、彼女は駆け出した。つられて俺も走り出す。

 会ったばかり女の子に手を握られたせいもあるが、いきなり走り出したせいで、心臓が激しく脈打つのを感じた。

 魔獣という単語も不吉だった。光るレーダーと彼女の言葉は、敵の接近を示しているようだった。不安と緊張で手が汗ばむ。

 しかし、しっかりと俺を握ってくれている彼女の手は、汗一つなく少し冷たかった。静かに、安心しろと言ってくれているようだった。


 走り出して一分ぐらい経っただろうか。周囲よりも木が少なく、円形の空間がある場所に行き着いた。


「いきなり走らせて申し訳ありません。ここで迎え撃ちます。私の後ろで待っていていただけますか?」

「わっ……かりました」


 少し息が上がるのを抑え、答えた。少し休もうと太めの木に背を預ける。

 その木に彼女は視線を移して、こう言った。


「もうひと頑張りしていただけるのであれば、木に登っていただくのが一番安全です。一番低い枝のところでも、連中は登ってこれませんから」


 言われて後ろを向き、視線を上げる。3mぐらいの高さに、なんとか腰掛けられそうな太さの枝が見えた。

 木の幹は節くれだっていて、たぶん、靴の裏にもうまく食い込むだろう。木登りなんて中学生以来だったが、息が整えばできないこともなさそうだ。

 何回か深呼吸をしてから幹に腕を回し、幹の節やこぶに足をかけ、少しずつ、少しずつ、感触を確かめながら上に登り、なんとか例の枝に届いた。


「お疲れさまです」


 慎重に動いて、うまく枝に腰掛けると、足元から労いの声が聞こえた。

 そちらに視線を移すと、木に手が届きそうな距離に彼女がいた。手を後ろで組んで、にこやかに笑っている。


「後はお任せ下さい」


 俺からよく見える位置で、という計らいなのだろうか。その場で俺に背を向けると、右の腰の長剣を、右手で逆手に持ち鞘から引き抜く。

 滑らかに刀身を引き抜き、ラケットか何かを振るような気軽さでくるりと柄を回して順手に持ち直す。白い刀身が揺れた。

 刀身は、見る角度によっては見えなくなるんじゃないかと思うくらい薄く見え、頼りなさそうに、ひらひら揺れている。

 剣に強い不安を覚えたけど、彼女は剣に意識を向けている様子はない。顔は前方を向いている。

 同じ方を向くと、黒い闇の中で立つほとんど真っ黒な暗い木々の陰に、禍々しく光る赤紫の点がいくつもちらついていた。

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