第2話 「人を釣る天女」

 釣り上げられたときの勢いがなくなるまで、何回転しただろう。

 回転が止まっても、頭の中はぐるぐる回っていた。こんなに転げ回らなくても、困惑するばかりの事態が続いて混乱しっぱなしだった。


 目を閉じて軽く頭を振り、深呼吸する。

 少し落ち着いてからゆっくり目を開けると、白く見えた地面は、実際には半透明だとわかった。

 地面の奥からは、何やら湯気のようなものが立ちのぼって来る。それは地面を超えると、宙に霧散した。


 周囲を見ても疲れるだけだ。そう思って俺を釣った人を探すと、軽く10mは離れていた。こちらに向けた背を撫でさすっている。

 話しかけに行くため、立ち上がろうと手に力を入れると、地面に手が少し沈んだ。ゲルというよりは柔らかな土に近い質感だった。その半透明の大地が地平線の向こうと、地の底の果てまでどこまでも続いている。

 白い大地の他には、その地に覆いかぶさる灰色の空と、その空の中で七色の光の粒がささやかに瞬いているだけで、ほとんど白と灰ばかりの物寂しい世界だった。


 そんな常識をあざ笑う意味不明な世界を無視して、一歩一歩近づくと、先方が俺に気づいたようだ。座ったままこちらに向き直り、少し居住まいを正している。

 ぶつかったときの声からして女性だろう。膝まで伸びた白いローブにフードを被っている。フードの隙間から出ている髪はクリーム色で、眩しいくらいつややかに見えた。

 少し見とれつつ近づき、出方を伺っていると、目が合った。微笑み、手のジェスチャーで向かいに座るように促される。


 勧められるままに腰を落とすと、彼女は遠慮がちに口を開いて

「えーっと……私の言葉、わかりますか?」と言った。日本語だった。というか、頭ではそう聞こえた。

「はい」と答えると、彼女は胸に手を当て、「よかった」とつぶやいた。


 何から話すべきか、何を聞くべきか、頭で決めきれないまま「あの」と声を出すと、手のひらを前に出して「ストップ」と制された。

 仕方なく口を閉じると、彼女は四つん這いになってこちらに近づき、背に回り込んだ。


「じっとしてて」


 言われるがままにしていると、腰のあたりに何か感触を覚えた。

 その後、用が済んだらしく、のそのそと俺の目の前に戻って座り直す。右手には何か掴んでいた。

 右手の何かは、紙を丸めて作った魚のように見えた。尾の部分が時折ちらちら光る。釣り糸の先にあの魚がついていて、俺に食いついていたのだろうか。


 紙の魚をほぐして平たい紙に戻し、何か読むように視線を走らせた後、彼女は咳払いして姿勢を整え、口を開いた。


「……リッツ・アンダーソン君?」


 置いてきたはずの心臓が止まるかと思った。


「合ってる?」


 衝撃に硬直してうろたえる俺を心配するように、少し姿勢を崩して上目遣いに問いかけてきた。


「……違います」

「んー、そんなはずは……」

「本名じゃなくて……なんというか、偽名ではあるんですが」

「なるほど、そういうこと」


 偽名というか、ネットのHNハンドルネームだった。それをなぜ彼女が知っているのか。この現実離れをした状況では、本名を知られているよりも、ずっと奇妙で、恐ろしかった。


「本名を教えてもらっても?」

「下村 律です」


 あっさり答えてしまったけど、HNで呼ばれ続けるよりはマシだろう。

 特にためらわずに本名を答えたものの、彼女の方は返答を受けて何事か考え始めた。


「きっと律がリッツ、ってことね? 下村がアンダーソンになるのはよくわからないけど……」


 どうも説明を求められているようだ。目線を少し外して返答を渋っていると、真顔で「できれば教えてもらえないかしら?」と踏み込まれた。


「……下村の下がアンダーで、村はソンなんですけど……」


 正直に答えるけど、どうも良くわからなかったようだ。指を手に当てて考え込んでいる。

 HNの由来を問われるだけでもかなりキツいけど、求められた解説が相手の理解に及ばないことで、ここまで空虚な気分になるとは思わなかった。


「たぶん、文化の違いでわからない系統のジョークなのね」

「そういうことにしてください」


 相手がわからないままで納得したなら、それでもういいだろう。


「本名とは違うけれど、私からはリッツ君って呼ばせてもらっていい?」


 右手の紙をヒラヒラさせながら聞かれた。


「まぁ、いいですよ」


 ここまでのやり取りで、彼女は細かく姿勢を崩したり整えたりで忙しい感じだったけど、今度は背筋を真っすぐ伸ばしてこちらに相対した。


「もう自覚はあると思うけど、あなたは今日亡くなりました。今のあなたは、漂白される前の霊魂です」

「……そうでしょうね」

「あまり驚かないのね」

「死んでからずっと現実離れした状況だったので、驚くのに疲れたというか……」

「わかるわ」


 目が合った。色味に欠けたこの世界で、彼女の深い青色の目が、唯一の彩りのように強く輝いて見える。


「それで、ご用件はなんですか?」


 こちらから問いかけると、彼女は目を閉じて少し考え込み、静かに答えた。


「手短に言います。あなたの世界で生き返るのは不可能ですが、別の世界であれば、今のあなたの人生の続きをつなげる用意があります」


 一度そこで区切られたけど、こちらは何も返答できずにいた。たぶん、虚を突かれたような呆けた顔になっていると思う。

 少し間をおいて、彼女は続けた。


「今回のお話は、あくまで提案です。受け入れるかどうかは、あなたに委ねます」


 彼女が話す言葉の意味はわかる。でも、頭には疑問符が溢れて思考がまとまらない。

 ろくに返事もできないままでいると、彼女はそれまでの真面目な表情を崩して少し困ったように微笑み、話しかけてきた。


「いきなりこんな話されても、正直困るわよね。ごめんなさい。答えられることであればきちんと答えるから、気になったことは聞いてちょうだい」

「……なぜ、もとの世界に生き返れないのですか?」

「それは……私の力量が足りないから。それに、同じ世で命を繰り返すと、流れが淀んで悪い魂が憑きやすくなるわ。別の世であれば因果が無い分、きれいに滑り込ませられるけど」

「別の世界というのは、どういうところなのですか?」


 そう聞くと、彼女は何回かまばたいたあと、答えた。


「そうね、簡潔に言えば……あなたの世界で言うところの魔法が、現実のものとして利用されている世界よ。今こうして私があなたとお話できているのも、魔法を使っているからなの」

「魔法……」

「あなたはそういうの、興味があるかと思っているけど、違う?」


 彼女は手元の紙に視線を落としながら、そう尋ねた。


 そこそこハマった趣味のカードゲームは、魔法使い同士の決闘をモチーフにしたものだった。それに、つまみ食い程度に楽しんだ漫画もゲームも、ファンタジー物は割と好きだった。そういう意味では、興味はある。

 でも、本当に使えるようになりたかったわけじゃないし、興味だけで決められる話でもない。もっと聞かなければならないことは、いくらでもあった。


「魔法以外には、何か話すことがありますか」

「……あなたの世界よりは物騒ね。戦いが日常の中に組み込まれている。だからといって、そう簡単に人命が損なわれるわけじゃないけど。死なないように、死なせないように、みんなで懸命に頑張ってる世界よ」


 俺に話を持ちかける意図は全くわからない。でも、返答から彼女の誠意は伝わってきた。

 安穏と生きられる世界じゃなさそうだけど、絶望するほどでもない。頑張ればやっていける、そう言われているように感じた。少なくとも、彼女は俺の何かを知っていて、こうして話を持ちかけてきているんだから。


「どうして俺なんですか?」

「ん?」

「今、こうして話している間にも、他の方が亡くなっているはずです」


 地面からは、たまに白い筋状の湯気が上ってきては、宙に消えている。その正体はわからないけど、なんとなく、今亡くなった方が還っていく、その様子を目の当たりにしている気がした。


「私があなたを選んだというより、私の魔法があなたを選んだわけなんだけど……」


 そう言いながら、手にした紙を軽くねじり、丸めて魚の形に変える。


「探させたのは……そうね、一言で表現するなら、"人の話はよく聞くけど、言われたとおりにはやらない"みたいな子なんだけど……」

「それは、一言余計なのでは?」


 "言われたとおりにはやらない"の部分にツッコミを入れると、彼女は口に手を当てて静かに笑った。


「少しでも心当たりがあったなら、大成功なんだけど、どうかしら」

「……まぁ、だいぶ心当たりはありますね。それで、どうして俺みたいなのを探してたんですか?」

「そうね……詳しくは言えないけど……魔法がない世界で育った、好奇心と自律心の強い人に魔法を使ってみてもらいたくて。そういう人が、私達の魔法をどう解釈するのか、どうやって活用するのか……」


 真剣な面持ちで答えていた彼女は、そこで言葉を切り、目を閉じた。

 あたりから音が消えた。無いはずの心臓から鼓動が聞こえる気がする。

 そして、少し間をおいてから、彼女は目を開けて続けた。


「つまり、あなたみたいな人がどうやって魔法使いとしてやっていくのか、興味があったの。そして、もしかしたら生き様自体が、私達の世界の糧になり得るんじゃないかって、そう考えたの」

「魔法使いに、なれるんですか。俺が?」

「なるのは簡単よ。正直、誰でもなれるわ」


 彼女はこともなげに答え、微笑んだ。


「大成するのは難しいけど。あなたが自分らしくやっていくなら、どうなるかは正直わからない。枠に収まらない人であってほしいとは思うわ」

「まとめると、魔法のある世界で、好きに生きてもらいたいってところですか」

「ええ。好きに生きてちょうだい。あまり悪いことされると困るけど……そうは見えないし、あなたが悪人だったら、今こうして話はしていないでしょう。私の魔法が見つけ出したのだから、私はあなたを信じるわ」


 彼女は、きっと人知を超えた存在なんだろう。その割には威圧感も威厳もろくに感じなさせないくらい、穏やかで柔和な雰囲気を醸し出しているけど、自身の力への自信や信念には、絶対的なものがあるのが伝わってきた。

 でも、実際は何者なんだろうか。俺は彼女に問いかけた。


「ところで、あなたの名前は? それと、正体というか、自己紹介的なものは」

「……ごめんなさい、ちょっと立場上教えるとまずくて。本当にごめんなさい」


 先のやり取りで何か強い意志を感じたと思ったら、今度は申し訳無さそうな顔になって謝罪された。蛋白で無味乾燥な、この白と灰の世界の中で、彼女は表現こそ控えめだけど、それでもすごく表情豊かに感じる。


「なんかこう、イメージと違いますね」

「え?」

「いえ、死んだあとに会うのって、死神だか神様だか、なんであれ人間よりずっと偉くて、横暴というか威圧的な存在だと思っていたので……」


 そこで言葉を切った。彼女は真顔でこちらを見つめている。透き通った目が続きを促している。


「なんというか、下手したてに出られて逆に戸惑うというか。近所の服屋の方が、ずっと押しが強いな……って」

「……ぷっ、ふふふ……」


 彼女は左手を口に当てて、静かに笑った。


「ごめんなさい、少しおかしくって。服屋と比べられたのは初めてだわ」

「いえ。それで、さっきの話の続きなんですけど、表情豊かにお話しされるのも、イメージと違って、違和感があるというか」

「表情ね……人と話すのが本当に久しぶりで、嬉しいから」


 そう言ってすぐ、彼女はハっとした顔になって、視線を伏せた。目に後悔の色が見える。


「ごめんなさい。亡くなったばかりの方に、不謹慎だわ」

「いえ、いいんです。最後の話相手だとしても、嫌じゃないですよ」

「最後……そうよね」


 ポツリと漏れた、彼女の声のトーンは沈んでいた。


「やっぱり嫌だった?」

「生まれ変わりですか?」

「ええ。特に興味を持たれていないような気がしたから」

「興味は、無いわけじゃないんです。むしろ、結構あるような気すらするんですが」


 そこで止めて両手に視線を落とす。死んだ直後よりも手が薄くなっているように見えた。知っている自分よりも、今の自分はずっと淡い。色と一緒に、熱も失われているようだった。


「自分というのが、消えかかっているような感じで、どうしたいのか良くわからないんです」

「生まれ変わること自体に拒絶感は?」

「良くわかりません。ただ、多分、あまりないんじゃないかと思います」

「そう。じゃあ、あなたは自分のことは好き?」


 聞かれて、今までの人生を思いだす。色彩を失いつつある思い出だけど、それでも、鮮やかな感情は思い出せた。


「生まれ変わらないで、あなたの世界に還るなら、今のあなたは消えて霧散して、一つの命の流れに混ざっていくわ。もちろん、それが自然の流れではあるけど」


 その自然な流れが、ささやかな思い出を流し去ってしまうのか。

 薄い人生だったかもしれない。だとしても、このまま本当に消えて果てるのは……嫌だ。なんだかんだで、自分のことは好きなんだ。これまであまり意識しなかったけど、今際の際いまわのきわを超えた今になってやっと、そう信じられた。


「もし、あなたが自分のことが好きなら、自分にもう少し付き合ってみてもいいんじゃないかしら」

「……そうですね、わかりました」

「……えっ? わかりました、ということは?」

「別の世界で魔法使いになります」


 消えてなくなるよりは、別の世界に行くほうがずっといいように思った。

 現世よりも物騒だったとしても、そこまで陰惨な世界じゃないだろうと思う。そのあたりは話を持ちかけた彼女を信じるしかない。けど、彼女の言動からにじみ出る人間味は、信じてみてもいいんじゃないかと思わせるには十分だった。

 それに、死んだときに思ったことを試したかった。あの子を助けたときみたいな強い衝動があれば、なんだってできたんじゃないかって。

 意を決して、腿に置いた両手を強く握ると、彼女が手を重ねてきた。色白だけど、薄れゆく自分に比べれば、ものすごく血色がよく見える。


「……よかった、ありがとう」


 重なった手から彼女の熱が伝わってきて、それを意識すると頬が上気するような感じがした。

 視線を上げると、目が合った。目が少し潤っているように見える。余計に顔が熱くなった気がした。

 そんな俺を見て、彼女は袖で顔を軽く拭ってから微笑み、立ち上がった。


「すでにかなり消えかかってるから、さっそく作業に入らせてもらうわね」

「ちょっと待ってください、向こうで言葉は通じるんですか?」

「今から準備するわ、大丈夫」


 言いながら、彼女は両手を前に突き出した。それぞれの指の先端が藍色に輝くと、俺がいる地面からも同じ藍色の光が輝いた。

 視線を落として地面を確認すると、幾重にも重なった同心円に幾何学的な図形が組み合わさり、円と円の間を、記号のような何かの長蛇の列が疾走している。


「言語面は九分九厘問題ないと思うけど、不足があればそちらで対応して。やっつけ仕事で本当にごめんなさい」

「あの、失敗したりとかは」

「……転移と再構築は問題ないわ、言語面もほぼ完璧。足りないのは説明だけど……」

「説明は……」

「この場では少し語りきれないし……向こうの方達から聞いてもらったほうが確実だわ、ごめんなさい」


 輝く手の向こうに、真剣な眼差しを見た。顔に申し訳なさが滲んでいても、ためらいの色はない。


「できればもっとお話したかったし、すべきだったけど、ずっと引き止められるわけじゃなくって……」

「それは、わかります。消えかかってる自覚がありますし」

「……今回会ったことと、今から使う魔法でだいぶ力を使ってしまうから、当分あなたとは会えなくなるわ。投げっぱなしで、本当にごめんなさい」

「俺が怒るのも筋違いですし……別にいいですよ」


 下から溢れる光が強くなって、視界が少しずつ藍色に染まる。よくわからないながらも、何か強い力の奔流にさらされていることは理解できた。


「最後になるけど、がんばって。またいずれ会いましょう」


 その言葉を最後に、今まで見ていた世界に濃い藍の亀裂が入り、視界が割れて砕けた。



 真っ黒な闇の中で、七色のパステルカラーの玉に見える何かが、群れをなして輝いている。満天の星空のように。

 ゆらゆら動いていた玉が、同じ色どうしで集まって、列をなしてこちらに向かってくる。近寄ってくると、玉ではなく記号のように見えた。

 速度を落とさず、むしろ加速してこちらに迫ってくる。ぶつかるんじゃないか、そう思って自分の体を見ようとするけど、体が見えなかった。体は見えないだけなのか、それとも本当に無いのか。

 そんな事を考えている間に、記号の列がどんどん迫ってきて……自分の体がある、少なくともそう感じるあたりに、例の列がまとわりついてきた。いや、自分の体の中にいる。

 闇の向こうの光の動きは止まらない。次々と列をなす記号達が、我先にと、こちらに向かってくる。

 赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。七色の光の列が俺の中に取り込まれ、闇の中でおぼろげに白く光る、人型の輪郭を形作っていく。


 体の中で光を放ちながら螺旋を描いて絡み合う、七色の光の列から、心地よい囁きが聞こえてきた。柔らかい声のコーラスは、聞いたことのない言葉でできていたけど、妙に耳に馴染んだ。

 体の輪郭がはっきりするにつれ、声も次第に意味を成すようになってきた。知らない言葉だったけど、意味はわかる。言葉が、自分のものになっていく。


 時間の感覚がない闇の中、声の波に身を委ねていた。声も静まってきた頃、ふと気がつくと、闇は七つの光を使い果たし、少し白く光る俺だけが残された。

 この後どうなるんだろうか。そう思った時、返答するかのように目の前に藍色の輪が現れた。

 輪の内側に輪ができ、線が走って複雑で幾何学的な模様を形作り……やがて、闇を裂く藍色の線から、白い明かりがこぼれた。


 こぼれた、そう思ったのも束の間だった。とめどなく溢れる白い波が、闇も意識も洗い流して、全てが白に染まった。

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