いつかの魔法

紀之貫

第1章 黒い月の夜

第1話 「雲の糸」

 気がつくと目の前が真っ白になっていた。


 いや、目の前に黒く長い何かが見える。

 その何かを確かめようと目を凝らすと同時に、心臓が跳ね上がるような恐怖が襲いかかった。目を閉じてもまぶたを超えて、陰惨なイメージが容赦なく侵食してくる。ひどく寒い。

 恐る恐る目を開ける。目の前の物体が次第に輪郭を取り戻す。黒と白だけの世界に少しずつ色が差し、その物体と周囲の境界線が、少しずつ赤黒く染まっていく。

 その、どうも見覚えのある物体が自分だと気づいた瞬間、霞がかった視界が急に晴れ渡った。


 血を流し交差点に倒れている自分を見て、やっと意識が体の外にあるのだとわかった。両手を顔の前に動かそうとすると、目の前の自分ではなく、考えている自分の目の前に手がやってきた。ある程度予想できたことだけど、手の向こうが透けて見えた。

 今考えている側の俺は、倒れている体の方から1メートルほど上にいて、腰のあたりから何かにつられるような体勢になっている。腰のあたりに手をやると、細い糸のようなものに触れた。

 こちら側には無いはずの心臓から、何もかもが抜け出すような寒気を覚え、反射的に肉体の方の自分に手を伸ばす。でも、届かない。力の限り伸ばそうとしても、手はただ空を切るばかりだった。

 俺は今、どこまで上へ続いているかもわからない糸で繋がれている。体の方には決して戻れない隔たりがある。

 これから死ぬのか、もう死んだのか。いずれにしても今日が最期だと確信した。


 俺の血が流れていく先に革靴が見えた。顔を上げると、ビジネスマンらしき男性が必死に通話していた。袖口は少し血で汚れている。よく見れば靴も。ガードレールに立て掛けたカバンは彼のものだろうか。

 顔の方は……凛々しい顔立ちのイケメンな感じだ。しかし、顔は整っていても、髪型が少し乱れていた。俺のために動いてくれているから、だと思う。

 かっこいい人だな。そう思うと同時に、申し訳なさを感じた。きっと救急車を呼んでいるんだろう。何かしら仕事があっただろうに、こうして助けようとしてくれている。

 それなのに……きっと俺が助からないであろうということと、そのように諦めてしまってること。そして、それを伝えることすらできないのが、少し辛かった。


 視線を別に移すと、血溜まりとアスファルトの境目あたりで、制服姿の女の子がうずくまっていた。

 色んな音が混ざり合っては薄まり、遠くの潮騒のようにしか聞こえない中、彼女が泣く声だけは、はっきりと心に届いた。

 膝、肘、他にも何箇所か擦り傷が見えた。でも、傷の痛みで泣いているんじゃないだろう。

 顔は両手で覆われていて見えない。うつむいていて、角度的にも見えるわけがない。それに、そもそも見えないほうがいいと感じた。


 アスファルトに残った赤黒い轍の先を追うと、電柱にぶつかって煙を上げる乗用車が見えた。ドライバーの安否を案ずる義理はなかったけど、不思議と悪感情は湧いてこない。

 あたりを囲む野次馬は、何割かがスマホをこちらへ構えている。何をしているのは理解できたけど、その心情は理解できなかった。その行為に嫌悪感よりも、困惑を強く覚えた。こんな陰惨な光景を記録に収めて、肌身放さず持ち歩くっていうのが。

 周囲の状況を見渡して状況は把握できたけど、事が起こるまでの短い間の記憶は思い出せなかった。ものすごく衝動的に動いたんだと、そう思うしかなかった。


 俺を取り巻く人の渦から、大きな声が上がった。そちらに目をやると、例のドライバーが車から引きずり出され、寝かされるところだった。

 白いシャツは、ところどころかろうじて下地が覗ける程度に朱に染まっていたけど、どうも生きているらしい。なぜかホッとした。

 彼に轢き殺されたのは事実だ。でも、殺されたことを憎むのは、助けた女の子に何か悪い気がした。それに、俺を轢いた彼には、家族のために生きて償ってもらわないといけないと思う。


 家族……みんなはどう思うだろうか。両親は割と留守がちで少し淡白なところもあった。たが、流石に泣くだろう。

 妹とはチャンネル権争いで喧嘩したばかりだ。最悪だ。絶対に泣くだろう。

 家族のこれからを思うと、心が奥底から締め付けられるような痛みを感じた。でも、それでもわかってくれるんじゃないか、そう信じるしかなかった。死にたくて死んだんじゃなくて、人を助けたかっただけなんだって。


 家族への思いを皮切りに、付き合いのあった連中の顔が次々思い浮かぶ。

 サークルの友達、ゼミの論敵、バイト仲間、金貸しっぱなしの奴、ネット上の友人……。

 今から消えてしまう俺の、現世への未練は他人で占められていた。

 積ん読した本、楽しみにしていた映画、友人と計画した旅行……他に心残りはいくらでもある。でも、どれも些細なことにように感じられた。人生をかけられるような夢や願望、打ち込み積み上げてきた譲れないものは、とくに思い浮かばなかった。


 だからかもしれない。過去と未来を同時に奪われたことへの、激しい絶望や怒りを、あまり強くは感じないのは。

 親不孝だったけど、それでも善いことをして死んだとは思う。だから、あまり暗い感情を抱いたまま消えたくない……そんな願望が、未練をあまり残せないような淡い人生の思い出を包み込んで、今の嘘みたいに穏やかな感情を作り出している。

 でも、何もかも失うその段に至って初めて、穏やかに消えてしまえるような人生の薄さを悔やんだ。

 最後の最後、本当の最期になって初めて発揮した、もう思い出せないあの衝動があれば、きっとなんだってできただろう。

 でも、遅すぎた。傍らで泣いているこの子の前途を祈るぐらいしかできなかった。


 俺を囲む喧騒の輪の向こうから、聞き慣れたサイレンが聞こえる。

 いつだって他人事のように聞こえていた音だったけど、今もそう聞こえた。例のドップラー効果で近づいてくるのはわかっていても、こちらの心は遠ざかっているようだった。


 その時、ふと俺を吊るしている糸を思い出した。

 救急車に体が乗ったら、そちらに寄せられるんだろうか。それとも、ずっとこのままなんだろうか。

 今の俺は幽霊みたいなくせに、糸で吊るされてなぜか重力に引かれている。五感のバランスもずっとおかしい。ノイズの海の中で女の子の泣き声とサイレンだけがはっきり聞こえる。

 この日常と非日常が混ざりあった、奇妙なパッチワークのような状態から、早く抜け出したかった。この先に何もないとしても。


 身をよじり、糸を掴んで空を見る。光を反射してとぎれとぎれに自己主張する糸は、灰色で塗りつぶした曇り空に吸い込まれるように、果てしなく長く伸びているようだ。

 お迎えを呼びつけるため、手に食い込まんばかりの勢いで、強く引く。すると、糸は予想外に伸びてたわんで揺れた。

 今までの感覚ではありえない挙動を示すこの糸に、ますます現実感が侵食される嫌悪を覚えながら、俺は何度も何度も糸を強く引いた。田舎にある親戚の家の、反応が悪い電灯を思い出した。


 引いて、反応を見て、また引いて。何度か繰り返したあとにじっと待っていると、一瞬上に引かれて、またすぐ落ちた。放っておくと、同じ動きが何回か繰り返された。

 雲の向こうの方も、こちらに気づいたようだ。事情がよくわからないながらも、反応だけは返さないと、そう思って糸をこちらからも引いてやると、あちらからの動きが次第に小刻みになった。

 その動きがどんどん小幅になり、最終的に完全に静まると、まったく根拠はないけど、「ああ、いよいよか」と感じた。


 動きが完全に落ち着いてからどれだけ経っただろう。たぶん、10秒も経ってないと思う。

 瞬間、予告なしに猛烈な力で引き上げられた。糸がつながっていると思われる、服の背が破れるんじゃないかと思うほどの、凄まじい力だ。

 あっという間に、俺を取り巻いていた人の群れがゴマ粒みたいになり、ビル街は幾何学的な模様のようになり、そのまま雲に突っ込んで―


 バリッ。


 薄い何かをぶち破る音と触感を背に覚えた。上へ引き上げられる動きは、弧を描いて水平方向の動きになった。

 果てしなく続く白い地平線が見えた。濃い灰色の空には、淡い七色の光が粒状にきらめいている。

 不思議な光景だったけど、それに戸惑うほどの時間もなく、背中に激しい衝撃を感じた。


「きゃっ」


 女性の小さな叫び声を聞きながら、後ろに引かれたときの勢いそのままに、俺は柔らかさのある地面の上を転がっていった。

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