第13話 風邪
風邪を引いた。
昨日の夜から、何となく体が重い、だるい、熱いとは思っていた。
けど、ぐっすり寝れば、翌日、つまり、今日の朝には治っているだろうと思っていたのに、駄目だった。治っていなかった。
原因はわかっている。一つしかない。
昨日、土砂降りの雨に打たれたからだ。
陽菜子と相合い傘をして、それを素直に喜んでいればよかったのに。
余計なことを考えてしまったばっかりに、俺は傘を陽菜子に押しつけ、一人、土砂降りの雨の中を走ることになって――。
なんて馬鹿なんだろう。
好きな人がいる
なんて身の程知らずなんだろう。
あんなにもかわいい
「本当に俺ってやつは……」
声は掠れていて聞き取りづらい。
喉の痛みも激しく、これは相当ヤバい状況だっていうのがよくわかる。
それでも。
それでも俺は、熱すぎて、だるすぎる体を何とか起こして、渾身の力を振り絞り、ベッドから抜け出す。
学校なんて行きたくない。
一日、ベッドで寝ていたい。
こんなにひどい風邪を引いたんだ、そう思うのは当たり前だろ?
けど、それだけはできない。
絶対に。
だって。
「陽菜子が、気にするからな」
俺が風邪を引いたのは、自分が傘を受け取ってしまったからだって。
あの時、俺に押しつけられた傘を、毅然とした態度で受け取らなければ。
そうすれば俺がこんなふうになることは絶対になかったと、そんなふうに思うはずだから。
だから何があっても、どんな状態であっても、俺は学校にいかなくちゃいけない。
体を引きずりながら廊下を歩き、鏡の前へ。
「ひどい顔だ……」
いつにも増して。
だけど、それが何だ。
どうしたって言うんだ。
鏡の中、自分自身に向かって、笑ってみせる。
笑顔というには相当アレな感じだったけど。
それでも幾分、増しになった――と思いたい。
家族に引き留められるものの、黒板を消す係だからとか何とか、適当な言い訳をして家を出る。
いつものところに、彼女はいた。
たぶん。なんて曖昧な感じになってしまったのは、熱のせいか、視界が滲んで、ぼやけて、はっきり見えなかったからだ。
幾分マシだと思える笑顔を無理矢理浮かべて、俺は言う。
「おはよう、陽菜子。今日はいつものあれ、言わないのか? ほら、俺が遅すぎるってやつ。今日もすっごく待っててくれたんだろ?」
上手く言えたと思ったが、本当のところはどうかわからない。
なぜか。
言っている途中で、俺は意識を失ってしまったからだ。
意識が完全に暗闇に呑み込まれる瞬間、陽菜子が今にも泣き出しそうな顔をして、俺に駆け寄ってくる姿が見えたような気がしたんだけど。
それが本当かどうかは、わからない。
目を覚ましたら、俺は自分の部屋にいた。
窓の外を見れば、日が傾いている。
どうやらずいぶん長いこと、眠っていたらしい。
体が楽になっているのは、そのおかげか。
……いや、待て。そうじゃない。そこも大事だけど。
「何でだ? 俺、学校に行ったはずだよな……?」
「寝言は寝ながら言ってください」
甘ったるくもしつこくない、絶妙にかわいい声がすぐ近くから聞こえてきた。
誰の声かなんて、一々考え直す必要もない。
陽菜子だ。陽菜子の声だ。
「陽菜子が俺の部屋にいる!? ……夢?」
「これが夢だったら、翔太先輩はわたしにあ~んなこととか、こ~んなこととか、もうやりたい放題できますねっ!」
「しないから! ……というかその反応、どう考えても夢じゃないな?」
「そこに気づくとは……!」
「棒読み」
「ふふふ。夢じゃなくて残念でしたか? もしこれが本当は夢で、もしそうだったら、翔太先輩はわたしに何をしていましたか?」
「そうだな……」
俺は考えた。
いや、そんなのは考えるまでもないことだった。
「今にも泣き出しそうな顔してる陽菜子の頭を思いきり撫でてていたかな」
「……翔太先輩」
「ん?」
「これ、夢じゃなくて現実ですよ?」
「知ってる」
「なら、どうして」
もう一度、陽菜子は「どうして」と呟いた。
「わたしの頭を撫でてるんですか……?」
「目の前で今にも泣き出しそうな顔してる陽菜子がいるから、かな」
「……何ですか、それ。そこに山があるから登るんだとか言い出す登山家みたいじゃないですか。全然かっこよくないですからね」
「知ってる」
「……翔太先輩は自分が思っているよりずっと普通で、すっごく普通で、本当にびっくりするぐらい普通で」
「やめろ。それ以上言葉を重ねるんじゃない……!」
「……こういうさりげないやさしさが似合うのはイケメンだけなんですよ?」
「世の中って不公平だよなぁ」
泣かないで欲しくて。
俺は大丈夫だから。
つらくないから。
そんな思いを込めて頭を撫でているのに。
陽菜子の二つの瞳からは、ぽろぽろ、涙がこぼれ落ちてきて。
全然、止まる気配がない。
「ほら、翔太先輩のせいで涙が出まくってるじゃないですか」
陽菜子はいつまでも泣き続けた。
結局、陽菜子が泣き止んだのは、それから30分くらい経ってからだった。
で、それからいろいろ話を聞いた。
というか、問答無用で聞かされた。
「家から出てきた翔太先輩、ゾンビ……を通り越してスケルトンみたいな感じになってて」
それ死んでるやつ。
「もう完全に無理してるのがわかって。なのに普段どおりに振る舞おうとして失敗して。正直、見てて『あ、こいつ痛いな……』としか思わなかったんですけど」
その感想ひどくない?
もうちょっとやさしくしてくれても罰は当たらないと思うんだけど。
「意識を失って。わたしが翔太先輩を背負って部屋まで担ぎ込んで」
え、マジで!?
「いこうと一瞬だけ思いましたけど、すぐに『無理!』ってなったので。ご家族にお願いして運んでもらいました」
だよなぁ。
「で、それから翔太先輩が目覚めるさっきまで、ずっとつきっきりで看病させていただきました」
「……そっか」
「それだけですか?」
「ありがとう。すごく感謝してる」
目が覚めた時、額に冷えたタオルが載っていた。
陽菜子がやってくれたんだ。
「本当に大変だったんですからね? 特に翔太先輩を着替えさせるのとか」
「……今、聞き捨てならないことを言われた気がしたんだが」
「え? 翔太先輩のあそこが思いのほかかわいかったってことですか?」
「見たの!?」
「ばっちり」
嘘だ!
「嘘だ!」
心の声と、口に出す声が一致した。
「嘘です。着替えもご家族にお願いしました」
「……ほ、本当だろうな?」
「本当です。もしかして見て欲しかったんですか? 翔太先輩のかわいいあそこ」
「そ、そんなこと思ってないからァ! ていうか俺のあそこは別にかわいくないし! むしろちょっと、ワ、ワイルドというか……」
「盛りましたよねー?」
はい盛りました。
かわいいとは思わないけど、普通です。
「というかですね、翔太先輩。何言ってるんですか? わたしが言ってるのは、翔太先輩の首の後ろにあるホクロのことですよー?」
「は?」
え、ホクロ?
「翔太先輩ってば、いったいどこのことを言ってるんですかねー?」
この顔、完全にわかって言ってるよな!?
くそっ。
そんな顔も最高にかわいいじゃないか……!
「翔太先輩? どうかしましたか? もしかして熱がまた上がって来たんじゃ……」
そう言って陽菜子が顔を近づけてくる。
「ちょ、何してるんだよ……!?」
俺が仰け反るように逃げると、陽菜子がきょとんとした顔になる。
「何って、熱を測ろうと思って」
「それなら、ほら、そこに体温計が……!」
見覚えがあるのは、うちで使っているものだからだろう。
「ああ、これなら壊れました」
「え、そうなの?」
「はい。ついさっき」
絶対に嘘だ。
「なのでおでことおでこをくっつけて測るしかないかなって」
「やめろ! そんなことしたら陽菜子に風邪がうつるだろ!」
「それなら安心してください。もう大丈夫です」
陽菜子がびしっと敬礼する。
「わたし、言いましたよね? 翔太先輩が風邪を引いたら看病してあげますって。誰かにうつせば風邪は早く治るって。真っ先にわたしに風邪をうつしてくださいねって」
陽菜子に言われて、俺は昨日、陽菜子にそんなようなことを陽菜子に言われたことを思い出した。
いや思い出している場合じゃない。
「ま、まさか、陽菜子……!?」
「ごちそうさまでした」
顔の横でピースする陽菜子。
「なぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
大声を上げて顔を熱くすら俺。
「な~んて。冗談です」
「……………………はぁ~~~~~、よかったぁぁぁぁぁぁ」
俺が心の底からほっとしていると、陽菜子がムッとした顔をする。
「ちょっと喜びすぎじゃないですかねー? さすがにその反応は傷つくんですけど」
「いやだって陽菜子に風邪ひいて欲しくないし」
「……まあ、翔太先輩はそういう人ですよねー」
「それに……」
「? それに、なんですか?」
「……何でもない」
もし万が一、いや、億が一、陽菜子とキスができるのなら。
意識のない状態じゃなくて。
最高のシチュエーションでしたいじゃないか。
まあ、本当にそんな日は、永遠に来ないんだけど。
「というわけで、風邪がうつる前に陽菜子は帰るように」
「今さらだと思いますけどねー。今までずっと同じ部屋にいて、同じ空気を吸い続けたわけですし」
「ま、まだ間に合うかもしれないだろ!?」
「はいはい、わかりましたー」
「『はい』は一回までだ」
「そこは千回までって言ってもらわないと」
「多すぎる……!」
「じゃあ、わたしは帰ります、翔太先輩」
陽菜子が部屋を出ていく。
いや、出ていかなかった。
戸口のところで振り返った。
「早くよくなってくださいね。わたしのために」
陽菜子のため?
「翔太先輩はわたしの恋愛が成就するための実験台なんですから」
「はいはい、そうですね。俺は陽菜子の実験台でした」
俺は陽菜子の言葉に苦笑した。
「そうですよ。翔太先輩はわたしの実験台で、だからわたしのものなんです」
「え?」
「じゃ、また明日です、翔太先輩!」
聞き返そうとするが、陽菜子はドアを閉めて、行ってしまった。
遠ざかっていく陽菜子の足音を聞きながら、俺は自分の鼓動が早まっていることに気づく。
俺が陽菜子のものだって……そう言ってたよな?
それって……どういう意味だ?
考えてもよくわからなかった。
だけどそれは何だか悪くない感じがして、
「……よしっ」
と俺は気合いを入れた。
早く風邪を治すんだ。
また明日って、そう言ってたからな。
陽菜子が。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
翔太の家族に挨拶をし、翔太の家を出て、しばらく経ったところまでは、何とか普通に歩いてくることができた陽菜子。
だが、ある程度経ったところで、我慢ができなくなって、顔を両手で隠してしまった。
自分はなんてことを口走ってしまったのだろう。
翔太が自分のものだなんて。
「これじゃあ、まるでわたしが翔太先輩のことを大大大大好きみたいじゃないですか……!」
それでは困る。何が困るのかはよくわからないが、とにかく困るのだ。
「翔太先輩にわたしのことを好き好き大大大大大好き状態になってもらって、それで告白してもらうって決めてるんですから!」
かなり意識してくれているとは思うのだ。
……たぶん。
とはいえ、翔太は手強く、なかなか告白してくれそうにない。
「……まあ、そういうところも」
好きなんですけど、と言いかけて、陽菜子は慌てて「危ないところでした……」と口をつぐむ。
「それにしても……翔太先輩、全然変わってないですよね」
誰かのために損をする。
自然とそんなことができる翔太を、陽菜子は素直にすごいと思う。
思えば翔太のことを意識するようになったきっかけもそうだった。
陽菜子が友人と一緒に遊びに行った帰り。
幼い男の子が泣いているところに出くわした。
道行く人が面倒事を避けるように男の子の存在を無視して通り過ぎていく中、駆け寄って声をかけた人が、翔太だった。
離れていたので、何を話していたのかはわからない。
ただ男の子は翔太に手を握られ、頭を撫でられ、泣き止んでいた。
その人が同じ学校の先輩だったと知った時も、別に意識はしなかった。
だけど、それから何度も見かけて、すれ違って。
気がつけば翔太の姿を探すようになっている自分に気がついて。
陽菜子は思った。
あの時、泣いていた幼い男の子に向けていた笑顔を自分にも向けて欲しい。
独り占めしたい、と。
ただ、これまで陽菜子はいろんな男子に、それこそ先輩後輩問わず告白された経験はあっても、告白した経験はなく。
だから翔太から告白してもらおう! と思い至ったわけなのだが。
「本当に翔太先輩って手強いですよね」
だが、諦めない。そんなつもりは毛頭ない。
翔太にがんばってもらい、翔太から告白してもらうのだ。
「お願いしますね、翔太先輩!」
翔太の家の方を振り返り、真っ赤な顔で、陽菜子はそう言った。
小悪魔な後輩は地味で冴えない俺をオトしたい 日富美信吾 @hifumishingo
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