2013年【西野ナツキ】67 進む為に残酷な現実ともう一度向き合う

「よぉ、お二人さん。辛気臭い話は終わったかぁ?」


 着くずしたスーツにオールバックの男、片岡潤之助が靴のままで体育館に入ってきた。

 西野ナツキが眉を寄せて不快感を露わにするのが分かったが、口を開こうとはしなかった。


 片岡潤之助に続く形でスーツの女性と紗雪が体育館に足を踏み入れた。

 二人とも靴をちゃんと脱いでいるようだった。


 カツ、カツという潤之助の足音が体育館の中に響いた。

 ぼくは真っ直ぐ潤之助を見つめていたが、彼は西野ナツキに視線を向けていた。ニヤっと潤之助が口もとを歪めた。


「西野ナツキ。覚悟はできたか?」


 彼の言葉でぼくは何故か紗雪の方を見た。

 目が合った彼女は怯えたように目を伏せた。


 藤田京子は西野ナツキに憑いている。彼女と会えるのは西野ナツキだ。

 死者が憑いていない片岡潤之助は彼女と会うことはできない。


 しかし、紗雪が死者を『見る』『会う』時、その周囲にいる人間にも微弱ながら、影響を受けることがある。丁度、紗雪が川島疾風を『見る』時に


 ――夢は呪い。


 という言葉をぼくが聞いたように。


 片岡潤之助の言った藤田京子の一部を渡せ、は西野ナツキが紗雪を通して藤田京子と会う時、そこで彼女とコンタクトを取ることなのだろう。

 西野ナツキがほっとしたような、あるいは泣きそうな笑みを浮かべた。


「覚悟は解りませんが、未練はありません」


「そうか。じゃあ、この後は、藤田京子に支配された日々を塀の中で過ごせ」


 言うと、片岡潤之助は西野ナツキの前で立ち止まった。西野ナツキが首をゆっくりと振った。


「もう支配されませんよ。ただ償うだけです」


「償いが終われば、また仕事ができるだろーよ」


 潤之助の言葉にナツキが小さく頷いた。

「紗雪」

 と彼が呼んだ。


 紗雪が目を瞑った――。

 その瞬間にぼくが感じたのは言葉でもなく、景色でもなく、ただの光だった。

 思わず目を閉じてしまうような熱を持った、圧倒的な光。

 熱い訳でも、冷たい訳でもない、ただ懐かしいその光をぼくはどこかで見たような気がした。けれど、それがどこか思い出せなかった。


 声があった。

 ぼくには聞き取れない女性の声で、その響きはどこか楽しげな色が含まれていた。

 声の正体は西野ナツキが話をしてくれた藤田京子だろう。


 その楽しげな響きを彼女は誰に向けているのだろうか。

 ストーカーするほどに固執した片岡潤之助か。

 殺されてしまったが、全てを捧げると言った西野ナツキか。


 光の向こう側のことは、ぼくには確認する術はなかった。

 ただ、藤田京子がどちらに傾いたとしても、誰かにとっての残酷な現実であることは間違いなかった。


 いや、そうじゃないのかもしれない。

 ここまで来てしまった時点で、もう誰にとっても残酷な現実で、それはどうしようもなくて、だからこそ進む為に残酷な現実ともう一度向き合う必要があった。

 そして、それはこのぼくにしても、そうなのだ。


 川田元幸と西野ナツキ。

 ぼくはぼくを現す二つの名前と対面しないといけない。

 光が去り、先ほどまでの体育館の光景が戻ってきた時、ぼくは動くことができなかった。

 どれほどの時間、ぼくは光の中にいたのか、それが分からずただ茫然とする他なかった。耳をすませると、体育館の時計の針がカチカチと時間を刻んでいるのが分かった。


 秒針の音を十まで数えてから、周囲を見渡すと西野ナツキが頭を落として項垂れているのが目に入った。

 そして、その横には片岡潤之助が顔を上に向けていた。


 その場の誰もが喋ろうとしなかった。

 静寂を破ったのは片岡潤之助の靴の音だった。西野ナツキに背を向け、ぼくの方に視線をずらした。

「偽物の『西野ナツキ』くん。俺が頼んだものは?」


 ぼくはポケットからボイスレコーダーを取り出して、潤之助に近付いて手渡した。

「ふむ。じゃあ、まだ後日、こちらから連絡するよ」


「潤之助さん」

 とぼくは言った。


「なんだ?」


「どうして、そこまで好きな女の為に動くんですか?」


 片岡潤之助がぼくに軽蔑する視線を向けた。

 煙草を咥え、ライターで火を点けてから、言った。


「好きな女じゃなく、抱いた女だ」


 煙草の煙の香りを残して、潤之助は体育館を出て行った。

 彼はぼくの質問に答えなかったが、彼自身もその答えを持ち得ないのではないか、なんとなくそう思った。

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