2013年【西野ナツキ】64 彼女は口もとだけで笑った。

 自分の部屋に戻った時、僕はどの道を通って帰ってきたのかも思い出せなかった。


 ベッドに倒れ込むと、僕はそのまま泥に潜るようにして眠った。

 目が覚めると、体が石のように重く感じられた。

 のそのそと立ち上がって冷蔵庫に入った冷え過ぎたミネラルウォーターを飲み、鞄と一緒に放り出した携帯を拾った。


 画面には藤田京子からの着信があった。

 更に、留守電も入っていて、そこには謝罪の言葉と、家に来て、という内容が吹き込まれていた。

 その時の僕が何を考えていたのか分からない。

 呼吸をしていたはずだし、靴を履き地面を歩いたはずだった。しかし、僕はその全てを覚えていない。


 気づけば、藤田京子の部屋のチャイムを鳴らしていた。

 彼女の部屋に響き渡るチャイムの間の抜けた音だけは、何故か今も鮮明に思い出せる。

 顔を合わせた彼女は泣きながら僕に抱きついてきた。何か黒い塊を抱えたような感覚しかなかった。

 けれど、それは間違いなく藤田京子だった。


 彼女の説明は以下のようなことだった。

 数日前から、藤田京子が想っている男が彼女にストーカーまがいなことをするようになった。

 気味悪く思った藤田京子は僕に旅行を提案し、男と距離を取ろうと思った。しかし、男は旅行先にまで姿を見せた。

 藤田京子は男に文句を言おうと近づくと、そのまま車に乗せられ携帯を奪われて、旅館へ戻ることは叶わなかった。


「でも、何もされていないし、あたしはもう貴方という好きな人がいる、と彼には伝えたわ。あたしは貴方を裏切らない。あたしの全てを貴方に捧げるわ。約束する、絶対に貴方を裏切らない」


 彼女は口もとだけで笑った。

 ような気がした。


 多分最初は拳だった。


 その後のことは覚えていない。ただ悲鳴はなかった。そして、目の裏に焼き付いたのは、彼女の体にある痣だった。

 綺麗だな、と思ったよ。


 グシャ、という手の感触があった。

 なんだろう。分からない。

 僕はただ彼女に馬乗りになって、鮮やかな痣に目を奪われ続けていた。


 気づけば彼女の胸の上下運動は停止していた。路上で死に絶えた猫のようだった。僕の手には旅行鞄の底に入れていたサバイバルナイフがあった。

 清潔なタオルで手についた赤黒い液体を拭い、服を着替えた。


 息をついた時、喉の奥のつかえが取れたような気がした。

 今なら彼女の好みじゃない笑みを浮かべることができるかも知れない。 

 そう思って、笑ってみた。口の端から漏れる息は途中から泣き声に変わった。


 どうして僕は泣いているんだろう?


 分からなかった。

 ただ、泣き止むまで長い時間を必要とした。


 帰り際、キッチンの換気扇の下に煙草とライターが置かれていることに気づいた。

 煙草とライターをポケットにいれて、僕が触った場所を掃除して、クーラーを冷房にし部屋を可能な限り冷やした状態で彼女の部屋を後にした。

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