2013年【西野ナツキ】63 それはもう二度と僕の手元に戻ることはない。

 藤田京子に僕の手で痣をつけることは決定的だった。

 僕は藤田京子が望む西野ナツキとして振る舞うようになった。

 強要された訳でも、願ったわけでもない。あくまで自然と、足を一本一本もぎ取られた虫のように身動きが取れなくなっていった。


 僕の前には二つの選択肢があった。

 自然に身を任せて息絶えるか、自然に逆らって生きるか。

 その問いが僕の中に深く鎮座していた。

 自然に逆らわなければならない、と頭では分かっていながら、それを選べず、ただ静かに首が絞まっていくのを感じていた。


 今から当時の生活を振り返れば僕は自分を演じようと必死だった。

 何も新しいものを生み出せず、以前の自分がそうするだろう行動をなぞるだけの生活。

 そんな日々の中で藤田京子が旅行へ行こうと提案した。

 遠くへ行けば気分転換になるよ、と藤田京子は本当に僕を心配するように言った。

 隣に彼女がいるだけで、どこへ行っても僕は僕で居られない。


 藤田京子自身、それに気付いているのか判断がつかない誘いだった。

 けれど、静かに息絶えるのを待つ僕にとって、彼女の誘いを断ることは出来なかった。

 旅行先は新幹線と電車を乗り継いで三時間弱の、ちょっとした温泉街だった。

 彼女が予約してくれた旅館に昼の十二時くらいに到着して、部屋に荷物を置いて二人で昼食を取る為に近くの露店へと足を向けた。


 藤田京子は普段よりもはしゃいでいるのが、何となくわかった。

 僕も彼女にならって笑った。世界中どこへ行っても隣に彼女がいる限り、変わりようのない笑みだった。


 夕方近くになって、そろそろ旅館へ戻ろうという頃合いに彼女が姿を消した。

 電話しても繋がらず、僕は共に歩いた露店を巡ったが、彼女を見つけることはできなかった。

 旅館へ戻ってみても、荷物があるだけで彼女の姿はなかった。


 一人残された僕は日の暮れかけた海岸にぽつんと残されたような気がした。

 海水が引いた浜辺に晒された、醜いゴミの山。そういうものが藤田京子の消失によって、僕の中で晒されていた。


 そして、海水と共に引いていった中には僕の一部もあって、それはもう二度と僕の手元に戻ることはない。

 僕はそれでも藤田京子を探した。

 彼女に会いさえすれば、僕が失った一部は戻ってくると自分に言い聞かせた。


 温泉街を走りながら、僕はもう藤田京子によって晒された醜さが何か分からなくなっていた。

 日が沈み、一人旅館の一室で夜を過ごした後、僕は朝一番に彼女の荷物を持ってチェックアウトした。

 真っ直ぐ駅へ行き、まだ殆ど人のいない電車に乗った。

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