2013年【西野ナツキ】59 さて、じゃあ、長い話に付き合ってもらおうかな。

 山本に連れられて辿り着いたのは岩田屋中学校だった。

 僅かに開いた校門から敷地へと入っていく山本にぼくは続いた。

 土曜日だからか、昼過ぎの校内には人の気配が感じられなかった。山本は校舎を迂回して、奥にある体育館へと迷いなく進んでいく。


 扉の前で立ち止まると、

「ナツキくん。靴は脱いで上がってくれよ」と言った。


 ぼくは頷いて、靴を脱いで体育館へ入った。

 電気の点いた体育館の真ん中には大量の新聞紙が広げられていて、ペンキや脚立、学校の机などが置かれていた。

 その学校の机の上に作業着の服の男が座っていて、ぼんやり天井を眺めていた。


「悪いね、待たせたかな?」

 と山本が言った。


 男はゆっくりとした動作で山本の方を見て、笑った。


「そんなことないですよ。先生」


「それは良かった。ん? 作業はもう終わったのか?」


「はい。今日の午前中で。すみません、一週間も体育館を占拠しちゃって」


「いやいや、良いさ。その分、体育館の壁なんかを張り替えてもらったりしたからね。これから入学する生徒は綺麗な環境で過ごすことができるよ」


「そう言ってもらえると、嬉しいですね」

 と頷いてから、男がぼくの方を見た。

 薄い笑みのまま

「本当に忘れてるんだね。話を聞いた時は半信半疑だったんだけど。改めて、こん

にちは。西野ナツキくん」

 と言った。


「こんにちは」


 言って、ぼくは体育館の真ん中に広げられた新聞紙のスペースに進んだ。

「記憶を失っているので貴方が誰か、ぼくは分からないのですが、予想することはできます」


「うん。誰だと思う?」


「貴方が、本物の『西野ナツキ』ですね?」


 本物の。


 そして、ぼくが、

「そうだよ。偽物の西野ナツキくん」

 男は変わらぬ声色で言った。


「貴方が、ぼくを西野ナツキにすると決めたんですか?」


「半分はね。でも、今回の計画は片岡潤之助だよ。君のお父さんのね」


 そう言われても、ピンと来なかった。

 けれども、そうか。

 井原紗雪が川田元幸を兄と呼ぶ以上、父親は片岡潤之助なのだ。


「どうして、片岡潤之助はぼくを西野ナツキにしたんですか?」


「誰でも良かったんだよ。川田元幸でなければ、誰でもね」


 西野ナツキだった理由が重要なのではなく、川田元幸でなくなることが重要だった。


 それはつまり――


「川田元幸は犯罪者だから、ですか?」


 西野ナツキは少し困ったように笑った。

「そうだね。過去の川田元幸はやり過ぎた。度を越していたし、虎の尾を踏んでもいた」


 虎の尾を踏む?

 そう考えて、浮かんだのは川島疾風の一連の事件による、やくざの組同士の抗争だった。

 川島疾風が田宮由紀夫から恋人の中谷優子を助ける為に起こした事件の発端は確かに川田元幸にあった。


「つまり、ぼくが川田元幸であり続けていたら、どうなっていたんでしょうか?」

「死んでいただろうね」


 あっさりと彼は言った。

「だから、偽物の西野ナツキで居てもらったんだよ」


「説明を、」

 声がうわずった。

 一度、唾液を飲んでから言い直す。

「説明をしてもらえるんですよね?」


「もちろん。その為に、君をここに呼んだんだよ」


 言って、西野ナツキは学校の机の横に置いてあったビニール袋から、缶のビールを取り出して一本をぼくに差し出した。


「先生も飲みますか?」

 と西野ナツキが言った。

「んー、いや良いよ。それより、私は少し外に出ているから。何かあったら電話してくれ」


「分かりました」


「あぁそれと」と山本がわざとらしく言った。

「『ナツキ』くん。頑張りなさい」


 その『ナツキ』はぼくのことを指しているのだろう。

 後ろを振り返ったが、すでに山本の姿はなかった。


 本物の西野ナツキは学校机に座ったまま缶ビールを開けると、一気にあおってから

「さて、じゃあ、長い話に付き合ってもらおうかな。『ナツキ』くん」と言った。


 ぼくも缶ビールを開けて一口飲んで、頷いた。

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