2013年【西野ナツキ】55 キャラクターになること。

 待て、待て、待て、待て――。


 ぼくが川田元幸だとすれば。

 紗雪を否定し、川島疾風の彼女で、中谷勇次の姉の優子を地獄の庭に誘い込んだのは、ぼくだと言うことになる。


 どうして、そんなことをした?


 知らねぇよ。


 あぁ、くそ。なんで、よりによって川田元幸なんだよ?

 くそ、くっそ!


 じゃあ、なにか?

 ぼくは紗雪に想われていながら、それに応えられなかったクソ野郎か?

 更に、そんなクソ野郎だってことも忘れて、愚かにも彼女の為に何をすればいい、と思いっきり真剣に考えちまってたのかよ?


 なんだよ、それ? 

 ぼくはピエロか?

 どんだけ間抜けなんだよ? 


 そんなぼくを見て、みんな腹の中では笑ってたのかよ?

 クズがまともになろうとしている様を指差して?


 ……、そりゃあ、さぞ笑えただろーな。

 だいたい、どーしてこんなことになったんだ?


 あぁ、電話だ。

 記憶を失った、ぼくに紗雪が電話をかけてきたんだ。

 そして、その時にぼくは、携帯の画面に表示されたメールの件名や本文の冒頭から知った「西野ナツキ」という名前を名乗った。


 ぼくは西野ナツキの携帯を握らされて、病院の前に捨てられていた。

 どうして、ぼくは西野ナツキの携帯なんてものを持っていたんだろう?


 いや、待て。

 それ以前に本当に紗雪がぼくを腹の中で笑っていたとする。

 だとしたら、どうして彼女はぼくの記憶が戻る為の協力をしてくれたんだ?


 優しさ?

 けれど、本当に優しいのなら、記憶が戻る為の協力なんて遠回しなことをせず、ぼくが本当は川田元幸だと言ってくれれば良かったはずだ。


 どうして紗雪はぼくを西野ナツキと呼び続けたんだ?


 ぼくに記憶を取り戻して欲しくなかったのなら、片岡潤之助と会わせたのもおかしい。

 紗雪にとって、ぼくが記憶を失ったままでいた方が都合が良かったのなら、病院の一室に隔離して極力外へ出さない方が都合良いはずだ。


 しかし、そうはしなかった。

 なら、そこには片岡潤之助の意思が絡んでいると考えるべきかも知れない。

 その意思とはなんだろう?


 鶴子の土下座動画が大事なのだとしても、手が込み過ぎている。

 だいたい、紗雪の行動をそこまで支配する片岡潤之助のルールはなんだ?


 ん?

 ルール? そういえば、紗雪もルールを持っていた。


 彼女のルールは死者の力に寄るものだった。

 他者を通して、死者を見て、会って……。一対一、名前、憑く、声……、名前?


 紗雪の力のキーワードには名前が必要だった。

 それこそが死者と生者を繋ぐ、形あるものだった。


 なら、紗雪の中で名前は絶対的なもののはずだ。

 はじめて紗雪と話をした時、混乱し冷静でなかった、あの時、ぼくは彼女に西野ナツキと名乗った。 


 記憶を失い痛みだけが体を支配していた、あの時、ぼくがすがったものは携帯の画面にあった西野ナツキという名前だった。


 今なら、そう断言できる。

 記憶を失い、広大な海のど真ん中に一人浮かんだような気持ちの中で、それでも動き出そうと思ったきっかけは、紗雪という他人に向かって自分の名前を名乗ることだった。


 山本義男が言った、フランソワーズ・コワレが『サガン』というキャラクターになったように、ぼくは記憶を失い、自分の名前を携帯画面の情報から判断した時から『西野ナツキ』というキャラクターになっていた。

 そして、そのキャラクターになることこそが、記憶を失っていても冷静に物ごとを考え続けられた理由だった。


 紗雪がぼくを川田元幸だと呼べなかったのは、死者のルールによるものかも知れない。

 そう考えると、ぼくの記憶を取り戻す為の協力をしてくれたこと、片岡潤之助と会わせたことに納得ができる。


 もちろん、これはぼくの勝手な想像だし、勝手な解釈だ。

 けれど、その勝手な解釈のおかげで思考がクリアになった。

 未だに分からないことは多々ある。ぼく自身が川田元幸だという事実を飲み込めたとも言い難い。


 それでも――。

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