2013年【西野ナツキ】48 日によって自分に似る、写真の自分に似る。

 山本の言葉の真意が掴めず、ぼくは彼を見つめる。


「ナツキくん。君はもう欲しいものが分かっているんだろ?」


「欲しいもの?」


 その時に浮かんだのは紗雪だった。


「そう。変な話をしようか、社会的な物言いは脇に寄せて、だ。人間がある出来事の当事者で居られるのは、その時だけなんだよ。例えば、ある女性がレイプされたとする。その女性がレイプ被害者でいるのは、被害を受けた瞬間だけなんだよ。だからこそ、人は過去のトラウマを乗り越えることができるんだ」


「当事者でいられるのは今だけ、だと?」


「これはもちろん言葉の上、考え方の話であって、レイプを受けた女性は法的には当然、被害者であり続ける。当事者としての権利は守らなければならない。ただ、記憶は劣化していく。事実としてそれはある。人は常に過去の自分の記憶や記録を現在の地点から解釈する他ないんだよ」


 しかし、と山本は言って、半分ほどになったお冷を飲む。

「ナツキくんには記憶や記録が存在しない。まったくの空白を現在の自分の状況から解釈していく他ない。それがすでにできている以上、劣化し続ける過去よりも、実際にある今や君でしか作れない未来について考えるべきなんじゃないか?」


「ぼくにしか作れない未来?」


「外から見ていても分かるよ。君は紗雪ちゃんの力になりたいと思っている。最初は、入院費を払ってもらったからと言った義理や恩だったのかも知れないが、今となってはそれ以上の気持ちだって芽生えているんじゃないか? 少なくとも紗雪ちゃんは君のことを心配して、こうして私のような老人を付き添い人に指名している」


 ぼく個人の話をすれば、紗雪と出会った頃に比べて彼女の力になりたい気持ちは強くなっている。

 それが単なる利害関係を超えている、と言われると否定できない。


 山本はふっと笑った。

 今まで見たことない笑みだった。

「そういえば、有くんは実に面白い小説の話をしていたよね。『悲しみよ こんにちは』。フランソワーズ・サガン。ちなみに、本名は確か、フランソワーズ・コワレでサガンはペンネームなんだ。その由来をナツキくんは知っているかい?」


「いえ」


「サガンという名はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』のキャラクターから取られている。彼女は作家をキャラクターとして生きようとしたんだと思うんだよ。まぁあくまで、私自身の予想だけどね。そのサガンのインタビュー集を以前読んだ時に面白い一節があったんだ」


 うろ覚えだけどね、と断って山本は続けた。

「日によって自分に似る、写真の自分に似るんだ、と」


 自分に似る、というのは変な言い方だな、と思った。


「サガンは昨日と今日の自分は違うと知っていたんだよ。さっきの話の通り、当事者でいられるのは今だけだと。もちろん、それは人間の中でということで、社会の中でとは違う。なら、二つは切り離して考えるべきじゃないかな」


「人間的自分と社会的自分に、ですか?」


「そうだ。記憶がないナツキくんは、どちらもない状態だった訳だが、全部を回復する必要はない。まず、社会的な自分は取り戻さないといけない。けれど、人間的な自分は、コワレがキャラクターとしての『サガン』を名乗るように『西野ナツキ』を生きれば、別段必要なものではなくなるんだよ」


 というよりも、と山本は言う。

「紗雪ちゃんに惹かれ、彼女の為に何かをしたいと考えているのは今の君だ。当事者は記憶を失う前の君ではなく、今の『西野ナツキ』なんだよ」


「つまり?」


 と、ぼくが尋ねると、山本はいつもの笑みを浮かべて言った。


「過去の自分に似ようとなんてせず、これが終わったら紗雪ちゃんを口説きなさい。なんなら、一緒に住んでしまえばいい。あの子、お金はあるんだから」


 なるほど、そういう勧め方をするのか、とぼくは呆れるやら関心するやらな気持ちで山本を見たが、何故か口もとは緩んでいた。


「分かりました。山本さん。これが終わったら、紗雪さんにちゃんと告白します」


「うん。でも、付き合うことになっても、ナース姿の写真は撮らせてもらうよ。そこは頼むよ!」

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