2013年【西野ナツキ】38 記憶がないぼくが選べる選択肢。
片岡潤之助と会う日の朝、病院を訪れた紗雪は普段のスーツ姿で浮かない顔をしていた。
「ナツキさん」
「はい」
「私から場を用意しておいて、言うことではありませんが。父は歪んだ人間です。どんな条件を出すのか、私には想像もできません。あまり父を信用し過ぎないでください」
紗雪の話の中で登場した潤之助を思い返す。
正直、ぼくは片岡潤之助がどういう人物か掴みきれないでいる。
紗雪がそこまで言うのだから、そうなのだろうと思う程度のことだった。
「分かりました。でも、記憶がないぼくは選べる選択は少ないですから。ぼくが知りたいことを教えてくれるのなら、どんな条件であれ交渉するだけです」
とぼくは笑ったが、紗雪の表情は曇ったままだった。
二人で並んで歩き、たどり着いたのは岩田屋町にある中華料理屋だった。
外観からして老舗で、いわゆる一見さんお断りの入るのに気後れする雰囲気があった。
紗雪が先に扉を開け、ぼくはそれに続いた。妙に明るい店内の中、紗雪は迷いのない足取りで奥の席へと進んでいく。
テーブル席にはスーツを着くずしたオールバックの男性と、隙なくスーツを着込んだ女性が隣り合って座っていた。
オールバックの男が紗雪を見とめると、にっと笑った。
「よぉ、紗雪」
言って、男はぼくの方に視線を移した。
彼が片岡潤之助なのだろう。
紗雪が潤之助の真向かいに座り、ぼくはスーツの女性と向かい合う形で椅子に腰かけた。
潤之助は何がそんなに楽しいのか分からない笑みを浮かべて、テーブルに置いていた煙草を手にとって、一本を咥え、ライターで火を点けた。
「料理は勝手に頼ませてもらったが、良かったかな?」
潤之助はあからさまな視線でぼくを見た。
「構いません」
言って、頭を下げた。「今日は、時間を作ってくださり、ありがとうございます」
「それこそ、構わないさ。飯は誰でも食わなくちゃいけないからな」
「ぼくは西野ナツキと言います」
潤之助は変わらぬ笑みのまま頷いた。
「はじめましてぇ。ナツキくん」
口から煙草の煙を吐きだし、
「それで、本日はどーいったご用件かな?」と言った。
楽しげな笑みを浮かべた彼の態度には、しかしこの場を楽しむ気など欠片もない、そういった醒めたものが含まれていた。
ぼくは一度、唇を舐めて本題を口にした。
「ぼくは記憶を失っています。記憶を失う以前のぼくを知っている人間が二人いる、と知りました。一人は田宮由紀夫です。やくざの息子で、ぼくは彼と交流があったそうです。そして、もう一人が川田元幸です。潤之助さんは、ぼくが川田元幸の行方を知っていると、紗雪に連絡したと聞いています」
「ふむ、で?」
「ぼくが川田元幸の行方を知っていると、どこで知ったのか。そして、ぼくと田宮由紀夫の繋がり、現在の彼の居場所を知っているようでしたら、教えてもらいたい。それが、ぼくのお願いです」
潤之助は煙草の灰を灰皿の上に落として、
「俺がナツキくんにそれを教えたとして、君は俺に何を与えられんの?」
と言った。
問題はこの点にある。
片岡潤之助がどれほどの情報を持っていようと、ぼく自身に差し出せる見返りがない以上、言えることは一つしかなかった。
「なんでもします。記憶のない、ぼくにあるのは肉体だけです。やれることは行動だけです」
「悪くない答えだな」
言って、潤之助は何故か紗雪の方を見た。紗雪は眉を寄せるだけだった。
店員が現れて、ぼくと紗雪の前にお冷と取り皿を置くと何も言わずに立ち去っていった。
そのすぐ後に水餃子、回鍋肉、チャーハン、海老チリ、麻婆豆腐などがテーブルに所せましと運ばれてきた。
潤之助は
「まぁまずは食べようじゃないか」
と言い、料理を取り皿にとって食べ始めた。
彼の横にいるスーツの女性も、それにならうようにして、手を合わせて食事をはじめた。
ぼくと紗雪は、ほんの少しだけ視線を合わせてから、手を合わせて食事にとりかかった。
料理が半分ほどなくなった頃に、潤之助が二本目の煙草に火を点けた。
「ナツキくん。取って来てほしいものがある。それを取ってくれば、君が知りたいことを教えるよ」
「取ってきてほしいもの?」
潤之助は煙を吐きだしてから、笑った。
「紗雪もいることだし、少し話をしようか」
紗雪? とぼくは疑問に思ったが、潤之助は更に続ける。
「キンモク荘のことだ」
潤之助の言葉に紗雪の動きが止まった。
ぼくの前にいるスーツの女性だけが潤之助の話を無視して食事を続けていた。
レンゲでチャーハンを掬うカチカチという音が響く中、潤之助は語りはじめた。
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