2013年【西野ナツキ】06 単純にぼくは臆病なのだ。

「ナツキさん」

 と紗雪が手で女性を示した。「彼女は久我朱美さん。こちらの神社の方です」


「どもー。是非、初詣などにはウチの神社をご贔屓にお願いします。お姉さんのちょっと色っぽい巫女服も見れますので」


「それは期待が大ですね。来年の初詣には必ず、こちらの神社に来ます」


「へぇ、ナツキさんって巫女服好きなんだ」


 小さな声で紗雪が言ったが、それに答える前に朱美が口を開いた。


「あら、記憶喪失だって聞いていたから、もっと深刻に悩んでいるんだと思ったけど。そうでもないのね」


「そうですか?」


「そうよ。ほら、よくあるじゃない。ここはどこ? あたしは誰? ってやつ」

「その辺は、紗雪さんのおかげで、あまりしなかったですね」


 紗雪が電話をしてきた時、ぼくは放心状態であっても混乱状態とは違っていた。

 目覚めた当初から、ぼくはぼくという自覚を持っていた。

 過去のないぼく。


 混乱し、暴れれば過去のぼくが蘇ってくる訳ではないし、何より全身に広がる耐え難い痛みは過去のぼくがもたらしたものだった。

 まことに憎たらしいことではあるけれど。


 記憶がないだけで、ぼくが生きるこの身体は連続してここにある。

 そういう納得が呼吸によって、あるいは痛みから自然と成されていた。


「不思議な子だねぇ。不安になったりしないの?」


「しますよ。けど、考えても仕方がないこともあるかなって」


「淡泊ですなぁ」


 朱美の言葉にぼくは心の中で否定する。

 単純にぼくは臆病なのだ。

 もしかすると、と過去の自分について一ダース分の可能性を考えたとして、その殆どが悪い想像にしか繋がらない。


 不確定な悪い想像に取りつかれたままでいるとぼくは病院を一歩も出られないし、記憶を取り戻したいとも考えられなくなるかも知れない。

 そうなれば、ぼくは紗雪のお願いに応えられなくなってしまう。


 紗雪がぼくを見限ってしまったことは、大げさでなく世界そのものに見限られることと同義だった。

 今のぼくの生きる目的は紗雪のお願い、目的に応えることであり、それは過去のぼくに関する現状唯一の手がかりでもあるのだ。


 それを失えば、目覚めた時の一人ぼっちの海の中に逆戻りだった。

 ゆっくりとその身が海の底へと沈み行くのを待つだけの時間。


 そんな状態に戻るのは御免蒙る。


「それで、朱美ちゃん。私にお願いってことは『見て』ほしいってこと?」

 と紗雪が言った。


 お願い? 『見て』ほしい?

 と疑問に思ったが、ぼくが石段の階段を登っている間で何かやり取りがあったのだろう、と考えた。


「うん、そう。少し話もしたいし、どう? これから家に来ない?」


 やや神妙な表情で朱美が言った。

 外で立ち話で済ませられるような話ではないのだろう。

 紗雪がちらっとぼくを見たので、

「ぼくは構わないですよ」と柔らかい笑みを意識して浮かべた。

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