2013年【西野ナツキ】04 世界で唯一、ぼくが知る町。

 小一時間ほど駅周辺を歩いた後、紗雪が寄りたい所があると言った。

 コンビニ前で信号待ちをしている最中だった。


「いいですか?」


「もちろんです」

 頷いてから

「紗雪さん、岩田屋町にはよく来るんですか?」と尋ねた。


 信号が変わり、紗雪が先に歩きだした。


「昔お世話になった家から近いので、何度か訪れたことがあります。もう終わってしまいましたど、花火大会も催すんですよ」


「そうなんですか」


 頷くも、ぼくに岩田屋町の花火大会の記憶なんてない。

 あるのは紗雪から電話があった時、電話の住所を伝える必要があって、同室の人から聞いた時の響きだけだった。


 いわたやちょう。


 病院の入院患者や看護婦の話を聞く限りは、決して都会にある町ではないようだった。

 知識として都会と田舎の風景はあるものの、その違いは漠然としていた。


 紗雪が寄りたい場所は神社だった。

 石階段を見上げても、到着地点が見えないほど高いところにある神社だった。

 

 階段の中腹辺りには高い木が茂って影を落としていた。

 風が吹くと木々がざわめき、何か大きな生き物が唸っているようにも感じた。

 石階段の一段目に足を乗せて、体重をかけるとバランスを崩しかけた。


 階段の表面の石が綺麗に整備されたものではなく、荒く削れた石が積み重なっている。

 足の裏に力を入れながら、靴の裏ごしに石の不規則な形を感じた。


「一応、車で行く為のコンクリートの道もあるんです。でも、少し遠回りになるので、このまま登ってしまおうと思うんですけど。大丈夫ですか?」


「大丈夫です」


 紗雪の平然とした表情を前にすると頷く他なかった。

 石段の階段を登るのは一苦労だろうという気持ちと同時に、高いところから岩田屋町を見下ろしてみたい、とも思っていた。

 今、ぼくが立っている町。


 世界で唯一、ぼくが知る町。


 それを一望することで、失った記憶の一部でも戻ってくるかも知れない。

 何の確証もない実感だったが、不思議とそう思うことで階段を登ることを楽しみに思えた。


「じゃあ、行きましょう」


 言うが早いか、紗雪は軽かいなステップで石段を登っていく。

 彼女はもしかすると整備されていない道を進むのが日常の生活を送っていたのかも知れない。


 ぼくも紗雪に習うように足と身体を動かしてみたが、途中からリズムが崩れてしまい、すぐに息も上がってしまった。


 周囲を高い木々が並ぶ中腹辺りで、ぼくは意識を集中して慎重に石段を進んだ。

 一歩一歩進みながら常に後ろに引っ張られる感覚があった。


 楽になれ、と誰かに言われているような気がした。体から力を抜けばすべてが楽になれる。

 甘い誘惑を押し殺すように、奥歯をしっかりと噛みしめた。


 顔を伝う汗さえ拭えぬまま、ぼくは影になっている中腹を抜け、日の光に背中を焼かれながら最後の一歩を登りきった。

 汗で濡れた髪をかきあげ、吐息を漏らした。


 その場に座り込みたい気持ちを押さえて後ろを振り返った。

 ずっと僕を引っ張っていた甘い誘惑の正体がそこには広がっていた。

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