2013年【西野ナツキ】03 彼女は、紗雪と名乗った。

「はい」

 紗雪は諦めたように頷いた。

「ナツキさんは記憶を失い、私が電話をした時には放心状態だったように思います」


 槻本病院の前にぼくが捨てられていたのは十四日前の二〇一三年九月七日土曜日の早朝だった。

 気を失って倒れたぼくの体中には擦り傷や打撲があった。

 病院側は誰かと喧嘩でもしたのだろうと判断して、警察に連絡をし、病院で簡単な治療がおこなわれた。


 持ち物は携帯電話と千円に満たない小銭がポケットに入っているだけだった。

 記憶を失っていると分かったのは、目覚めた後だった。


 当然と言えば当然だが、ぼくも周囲も戸惑った。

 事情を聞きにきた警察の受け答えに対し、まともな返答ができなかったぼくは紗雪の言うとおり放心状態だったのだろう。

 今から振り返れば、目覚めた最初の頃の記憶は曖昧だ。


 ただ、痛みの感覚だけは目覚めた時から強く脳に残っていた。

 最初の頃のぼくはベッドの上から立ち上がることさえできなかった。

 記憶を失う、というのは見渡す限り真っ平らな海のまん中にぽつんと一人浮かぶようなものだった。


 果しなく続く海の中心で何処へ行けば良いの分からず、自分の居場所は此処ではないということは分かっている、そういう経験だった。

 体から力を抜き、海の底へ沈んでいく方が良いのかも知れない、そう思った頃に携帯が震えた。


 知らない番号からの電話だった。

 出ると女の声がした。彼女は、紗雪と名乗った。


 会話はほとんど成立しなかった。

 海に沈みはじめたぼくの意識はぼんやりしていたし、目覚めてからのぼくは誰ともまともに会話を交わしていなかった。


 脈略のない返答しかできないぼくに対し、紗雪は辛抱強く状況を尋ね続けてくれた。

 どうしようもないほどに長く不毛な時間が流れても、紗雪は電話を切ろうとしなかった。


 沈んでいたぼくを紗雪は電話によって引っ張り上げようとしてくれた。

 ぼくは水面に顔をだし、溺れた後の人のように咳き込み、途切れ途切れに自分の現状を口にしていった。


 ぼくはぼくが知りうる現状を紗雪に話すことで、パズルのピースが繋がっていくように現実を把握した。


「紗雪さんがぼくの恩人なんだと思う。電話をくれなかったら、今も放心状態だったと思います」


「それは良かったです。ナツキさんが、携帯だけはしっかりと握り締めていたおかげですね」


 ぼくが発見された時に持っていた携帯にはパスワードが設定されていた。

 ロックのかけられた携帯にできることは受信したメールの件名と本文の冒頭の表示。

 そして、携帯の着信に出ることだけだった。


 受信した幾つかのメールによって、ぼくは自分の名前が西野ナツキだと知った。

 紗雪がぼくをナツキさんと呼んでくれることで、ぼくは辛うじて自分の存在に納得ができた。


 更に、紗雪はぼくに彼女の兄を探す、という目的を与えてくれた。

 過去の記憶を失う前の、ぼくが知っている紗雪の兄の行方。


 ぼくはポケットから携帯を取り出す。

 紗雪から電話があってから、メールも着信もないロックされた携帯。


「記憶が戻ったら一番に紗雪さんへ伝えますね」


 正しい四ケタの数字が分かることで携帯のロックは解除されるように、いつかぼくの中にある記憶が浮かびあがってくるはずだった。

 その日に、ぼくは川田元幸の行方を紗雪に伝えられる。


 紗雪が立ち止まって、ぼくを見ていた。

 ぼくも足を止め、紗雪を振り返った。


「どうしたんですか?」


 しばらく、紗雪は何も言わなかった。

 錆びたガードレールの向こう側で車が走っていた。


「いえ」

 と小さな声で紗雪は言い、「ナツキさんの記憶が戻るのを待っています」と続けた。

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