2013年【西野ナツキ】02 町の名前は岩田屋町と言います。

 一文無しとは本来お金がないことを言うが、ぼくは保険証や帰る家さえ持ち合わせていなかった。


 結果、ぼくの治療費と入院費は電卓を出鱈目に叩いたような値段に膨れ上がっていた。

 途方に暮れてた頃、ぼくに連絡をくれたのが紗雪だった。


 彼女はぼくに協力してほしいと言った。

 ぼくが出来ることなら、何だってするつもりだった。


 しかし、それ以前の問題があった。

 一つに、ぼくがまだ入院している必要があること。

 二つに、治療費を払う伝手がないことだった。


 紗雪はぼくの現状を知り、その場で治療費を全て肩代わりしてくれた。

 退院に掛かる費用と、外へ出かけられる服と靴。下着に靴下。

 鞄に財布までも、ネット通販で購入し、病院に届くよう手配してくれた。


 その時点で、紗雪が外見通りの社会人ではないとぼくは理解していた。


「ナツキさんが協力してくれるなら、全然安いものですよ」


 と、初めて会った日に言われた。

 ぼくにそんな価値があるとは思えなかったが、感謝の言葉を絞り出す他に何も言えなかった。

 紗雪は「また来ます」と笑みを浮かべて、現金の入った封筒を置いて行った。


 少し怖いと思った。

 もちろん、彼女はぼくに価値を見出しているからこそ、お金を払ったのだ。

 理由あっての行動だ。


 そして、その価値とは紗雪が知らないことを、ぼくが知っている。

 ――かも知れない、という一点だった。


「これから町を歩くんですよね?」


 と、ぼくは言わなくても良いような確認をした。


「そうです。町の名前は岩田屋町と言います」


「同室の人から聞きました」


 紗雪は静かな笑みをぼくに向けた。

 リハビリに励む病人へ向けるような眼差しだった。

 実際、それは正しい。


「少し、話を整理しても良いですか?」


「もちろんです」


 紗雪の了承を得てから、ぼくは何も考えていなかったことに気がついた。

 公園を抜けて道路に出た。


 錆びついたガードレールに沿ってぼくらは歩いた。

 真っ直ぐ進めば駅に到着するはずだった。

 赤い自動販売機を通り過ぎたところで、ぼくは口を開いた。


「紗雪さんは行方不明の兄を探しているんですよね?」


「そうです。川田元幸、それが兄の名前です」


 川田元幸。


 紗雪と初めて会った日も聞いた名前だったが、聞き覚えはなかった。


「彼の行方をぼくが知っていると聞いた訳ですね?」


「はい。父から兄の行方は西野ナツキが知っていると聞き、電話番号を教えてもらいました」


「でも、電話したぼくは記憶を失っていた」


 紗雪はすぐには頷かなかった。

 何かを探るように、彼女はぼくの横顔を見た。


 疑いたくなる気持ちは分かる。

 けれど、どれだけ探ったところでぼくの中が空っぽであることは変わらない。


 あの空の缶コーヒーのように。

 記憶という中身はすべて流れていってしまった。

 残ったのは重みを失った外側だけだ。

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