終章

第43話

 林檎が実る季節になった。


 アーシファはたわわに実る赤い果実の下、ごつごつした幹に背中を預けて目を閉じていた。


 ここはフォリーシュ国王の離宮跡。美しく瀟洒だった城館は十五年前に焼け落ちたまま再建されることはなく、廃墟となって秋風に吹かれている。


 手入れされることもなく放置された果樹園は、それでも毎年花を咲かせ、実をつけた。こうして目を閉じていると甘酸っぱい芳香がかぐわしく全身を包んでくれる。


 顎を持ち上げ、林檎の香りをいっぱいに吸い込んだ、その時。


 ざざっと頭上で梢が鳴って、いきなり何かが落ちてきた。ころころと、足元に林檎が転がってくる。


 驚いて振り向くと、子どもが痛そうに身体をさすっていた。ポケットいっぱいに林檎を詰め込んだ、十歳くらいの少年だ。


 アーシファは身を屈め、拾った林檎を差し出した。


「大丈夫?」


 初めてアーシファに気付いたらしく、少年はびっくりと目を見開いた。


 蒼い瞳だった。やや癖のある金髪が、秋の陽射しにやわらかく輝いている。近くの農家の子どもだろう。公用語はわからないらしい。


 アーシファが微笑んで頷くと、安堵したような顔でおずおずと林檎を受け取った。林檎とアーシファを交互に眺め、にこっとしたかと思うと反対に林檎を差し出した。


「もらっていいの?」


 戸惑いながら受け取ると、少年はにこにこと笑った。名を呼ぶ声が後ろから聞こえて、アーシファは背を伸ばした。キリアスがのんびりと歩いてくる。


「お、林檎」

「この子がくれ……」


 振り向いてアーシファは言葉を切った。少年の姿はどこにもなかった。だが、受け取った林檎は確かに手のなかにある。


「俺も食いたい。これ、もらってもいいよな?」


 キリアスは伸び上がると枝から大きな林檎をもいだ。ほんの三か月くらいの間にずいぶんと背が伸びた気がして、何だか眩しい。


 小気味よい音をたててキリアスが林檎をかじる。アーシファは林檎に鼻をそっと押し当てた。


 優しい声が、記憶の中で囁いた。


『キスしてくれ、リコリス。おまえの唇は林檎よりも甘い』


 睫毛を潤ませ、赤く実った林檎に唇を寄せた。


「食わないのか?」

「香りを堪能してからね。──もう行こうか」

「ゆっくりしてていいんだぞ?」


 気づかわしげに窺うキリアスに、アーシファは笑って首を振った。


「いいのよ。ここにはふたりの遺髪を埋めに寄っただけだから……」


 ダリオンとギーゼラ。アーシファとキリアスが持っていたそれぞれの遺髪を、廃墟の一角に埋めた。


 ラァルとイシュカ、それぞれに墓は別れてしまったけれど、ここではずっと一緒だ。幼かった兄妹が幸せな日々を過ごしたように。


 馬を繋いだ場所へぶらぶら戻りながらアーシファは尋ねた。


「本当に自分で全部探すつもり?」


「面倒だけどしゃーないさ。どっちにしろ俺が王を任命して渡さなきゃならないんだし」


 集められた八つの〈竜の宝珠〉は忽然と消えていた。新たな皇帝となったキリアスの最初の仕事は消えた宝珠を探し出し、新たなる八人の諸王に渡すこと。


 それが誰なのか、どこにいるのか、まだ見当もつかないが。


「ハルが痺れを切らす前に見つけなきゃね」

「月に一度は手紙出せって言われたんだった。面倒くせー」


 ナイトハルトは帝都に残り、新たな政務組織の構築に辣腕を振るっている。いい機会だから硬直した組織を全面的に改めると張り切っていた。


 馬に跨がったキリアスは横目でアーシファを見た。


「それよりおまえ、本当に付いてくる気かよ」

「ハルはいいって言ったよ?」

「俺に選択権はないのか……」


「いやなの?」

「別にいいけどさ」


「じゃあ、いいじゃない。旅は道連れ、世は情け。さっ、行こう!」


 溌剌とアーシファは先にたって歩きだす。キリアスは笑み混じりに嘆息して馬の腹にかかとを当てて呟いた。


「長い旅になりそうだぜ」


 午後の陽射しに長く伸びる影が、笑ったような気がした。



[了]


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竜の帝冠 138 @lunaticmaze

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