第42話
深みのある響きのよい声音が告げる。
アーシファは震える口許を押さえ、痙攣するように首を振った。ダリオンの蒼い瞳は氷結した湖のようで、アーシファが愛し、信頼した温もりはかけらもない。
黙って見返していたキリアスは、ぼそりと不興げに呟いた。
「……前に会った時と同じだな。少しは変わってるかと思ったのに」
「そう……、確かに一時期、不用な荷物を抱え込んでしまったが。どうにか振り捨てることができた」
その氷の瞳はひたりとキリアスに据えられ、アーシファに向けられることはない。
アーシファは絶望に目を瞠ったまま冷たい床に力なく座り込んだ。ダリオンは薄氷がひび割れるような笑みを浮かべた。
「間に合ってよかったよ。余計なものを抱えていては、今のおまえには勝てそうにない。──竜の瞳か。神に気に入られたらしいな。眷属になったか」
「俺は人間だよ。今までも、これからも。この世で生きる人間だ。だから世界を壊させはしない」
「やはり我らが相容れることはないようだ。では、心ゆくまで殺し合おうではないか」
言葉も終わらぬうちに魔剣が一閃する。薙ぎ払ったキリアスが反撃に転じた。剣と剣が激しくぶつかり、もつれ合う蛇のように刃が巻いて突き刺しあう。
愉しげにダリオンが笑った。無邪気なほどにきらめく瞳にあるのは、生死の狭間の毫に遊ぶ興奮だけだ。
「ずいぶん強くなったではないか。それなのに、何を迷っている? 荷を負ったままでは俺には勝てぬぞ」
キリアスは眉を怒らせ斬撃を打ち込んだが、余裕で防がれてしまった。
打ちのめされて悄然とへたり込むアーシファの姿が意識されてならない。以前戦った時は殺すことしか考えていなかったのに、今はそれを躊躇ってしまう。アーシファが愛した男だと思えば、殺意がどうしても揺らいでしまうのだ。
ダリオンが憫笑を浮かべる。
「どこまでも甘い奴だ。目的のためにすべてを捨て去る決意もできないのか?」
「後悔するのがわかってて捨てられるか。安易な二者択一なんざ糞食らえだ。俺は大事なものを背負ったままで戦う。どんなに重かろうと、それがあるからこうして人として生きていられるんだ!」
気負うことなくキリアスは言い放った。ダリオンの顔に初めて苛立ちが浮かぶ。彼は苦々しげに吐き捨てた。
「煩わしいことだ。そういう煩雑さが俺には我慢できぬ。なぜそんな感情に振り回される」
「感情に振り回されてるのはあんただって同じだろ。影が自分と光を隔てる世界を憎悪するなら、それはきっと愛の裏返しなんだ」
「純粋なる憎しみは潔いものだ。愛など雑念の塊にすぎない──、……!?」
不意に後ろから伸びた腕がダリオンの身体に巻きつく。キリアスは驚愕に目を見開いた。
「アーシファ!? 馬鹿、何やってんだ、下がってろ!」
「──ダリオンじゃない!」
アーシファは渾身の力を振り絞って男の身体にしがみつき、絶叫した。
「ダリオンはそんなこと言わない。だからもう、ダリオンじゃない。キリアス、この人はもうダリオンじゃないのっ……!」
剣を構え直し、突進する。心臓を貫いて背後から飛び出した切っ先が、アーシファの紅蓮の髪を一房薙いだ。
同時にキリアスの口から黒ずんだ血が噴き出す。漆黒の剣が彼の腹部に深々と突き刺さっていた。
「……キリアス……!!」
背に抜けた黒い剣が黒い竜に変わってキリアスとダリオンの双方を包み隠す。撥ね飛ばされたようにもんどりうって尻餅をついたアーシファの腕を誰かが掴んだ。
「困るなぁ、姫様。邪魔しないでくださいよ」
剣を逆手に持ち替えて、カドルーが眉を下げる。彼はアーシファに剣を見せつけるように高々と肘を上げた。
「死んでください、悪いけど」
斜め上から切っ先が喉を狙う。麻痺したように茫然と、その不吉な輝きを見つめた。
「カドルー!!」
憤怒の絶叫が上がり、横から激しい勢いで誰かがぶつかってきた。ナイトハルトが、両手で掴んだ短剣を彼の腋の下に突き刺していた。
床に倒れ込んだカドルーが、自分の剣を自らの左肩に突き刺していることに気付き、アーシファは目を瞠った。
荒々しく肩を上下させ、ナイトハルトが怒鳴った。
「この、馬鹿……っ。わざとだな!?」
「へへ……。やっぱりね。おまえのことだから、身体検査されても絶対どっかに武器隠し持ってると思ってた」
「カドルー……、どうして……!?」
傍らに膝を落としたアーシファを見上げ、カドルーは済まなそうに微笑んだ。
「せめて自分の始末くらい自分でつけたいですからねぇ。ホント、こんなことになっちゃって若君には申し訳ないと思ってるんです。戻ってきた若君に、これ以上みっともない姿を見られちゃたまらないし……」
「カドルー! だめだよ、死んじゃ……。キリアスを支えてあげなきゃ……っ」
「大丈夫ですよ、姫様。若君はちゃんと戻ってきますから。俺はね、信じてるんです。こんなになっちまっても、キリアス様ならきっとどうにかしてくれるって、心の底で信じてた。大丈夫、そのとおりになりますから。誰かを心から信じられるって、すげー気分いいですね。最高っすよ。嬉しいな、俺……」
「カドルーっ」
涙声で叫ぶアーシファの頭をなだめるように優しく叩き、カドルーは腕から引き抜いた自分の剣をナイトハルトに差し出した。
「頼むよ、ハル。あと一人、始末をつけてやってくれ。若君が戻ってくるまで、姫様を守ってくれよな……」
「わざわざ頼まれるまでもない。この馬鹿がっ」
へへ、と笑い、カドルーは眠るように目を閉ざした。胸に泣き伏すアーシファを陰に回してナイトハルトは立ち上がった。
最後に残った副官のひとりが、青ざめ、追い詰められた顔で剣を向けていた。
「……まったく。俺はもう剣はやめたってのに」
昔取った杵柄だろ? と心の中でカドルーが笑う。ナイトハルトは友の遺した剣を握り直し、鋼の光を湛えた瞳でまっすぐに切っ先を相手に向けた。
お互いに刺さった剣を、同時に抜いた。貧血を起こしたように頭は痺れていたが、何とか踏みとどまる。握り直した剣を腰に引きつけながら、キリアスはダリオンに問いかけた。
「……俺たち、なんで殺し合ってるんだっけ」
「共存できないから、だろう?」
「本当にそうかな」
急に疑問が湧いた。ダリオンは険しい顔で言う。
「おまえは光、俺は影だ。始めから終わりまで対立するものだ」
「俺にも影はあると思う。むしろ影の方が大きいような気がする」
「〈さかしま〉のせいだ。おまえに影を植えつけた」
「うん、おまえもな。〈目覚め〉が光を注ぎ込んだ。さっきと顔つきが違うぞ」
ダリオンは黙り込んだ。
「……俺は煩わしいものが嫌いだ」
「俺も面倒臭いことは嫌いだよ。だけどしょうがないよな。それが生きてくってことなら」
ダリオンはふたたび黙り込む。迷っているふうでもあった。やがて彼は達観したように告げた。
「では、おまえは生きるがいい。俺は消えよう。もう死んでることだしな」
「そりゃ困る。俺にはどうしたっておまえが必要だ。影がなかったら、眩しすぎて目が眩んでひっくり返る」
キリアスは笑って空いた手を差し出した。
「なぁ。俺と一緒に帰ろうぜ」
長いこと逡巡していたダリオンは、軽く嘆息して肩をすくめた。
「……ま、寝ぼけたおまえを蹴飛ばすのも、たまにはいいかもな」
伸ばされた指先が、触れ合う。光が弾け、影が踊った。対立するものから調和が生まれるのだと、女神が笑った。
影が遠のく。最後の副官を二度とは目覚めぬ眠りに就かせたナイトハルトは、祈るように俯いていた。
ふと、陽光が注ぐような温かさを背に感じて振り向く。大きく目を瞠った彼の唇に、震えるように笑みが広がった。彼の傍らでアーシファは茫然と囁いた。
「キリアス……!」
先ほど消えたその場所に、キリアスが立っていた。右手に白き〈目覚め〉、左手に黒き〈さかしま〉を握って。
閉じていた瞳を、ゆっくりと開く。人の黒い右目と、竜の金色の左目が静かな光を湛えていた。
彼は両手の剣を天に向け、ぴたりと重ね合わせた。黒い剣は螺旋の渦を巻き、白い剣を抱く鞘になった。一振りになった剣を見つめ、キリアスは呟いた。
「……これが本来の姿の〈始祖の剣〉だ。剣と鞘が離れ離れになった時から、世界の綻びは生じていた」
「我が
ナイトハルトは跪いて恭しく頭を垂れた。アーシファはふらふらと彼の前に歩いてきて、ぺたりと座り込んだ。そこにはダリオンが安らいだ表情で横たわっていた。キリアスは眉を曇らせて囁いた。
「すまん、アーシファ。助けられなかった」
ふるっ、と首を振る。
「いいの。彼はもうずうっと前に死んだのに、今まで安らげないでいたの……」
でも今は、こんなにも穏やかな顔で眠っている。それはリコリスが心から愛したダリオンの顔だった。
アーシファは彼の手を取ってそっと頬に当てた。ほんのりと残った温もりが、とても愛しかった。
キリアスを見上げ、アーシファは睫毛を濡らして微笑んだ。
「お帰りなさい……」
「ただいま」
伸ばした手を、キリアスが握る。その笑顔に、ダリオンの笑顔が重なって見えた。
朝日が山の端から現れ、テラスに射し込む。眩しそうに目を眇めたキリアスは、己の後ろに伸びる長い影に向かって囁いた。
「……一緒に歩いて行けるさ。なぁ?」
答えはなかったけれど、身体の内を温かな漣が静かに揺らすのを感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます