第41話

 彼は不審げに眉をひそめ、ようやく身を起こしたパジーズを見つめた。彼は撥ね飛ばされた衝撃でも〈さかしま〉を手放すことなく握りしめている。


「──なんでおまえがそれを持ってる」


「剣が俺を選んだのだ! 今は俺が〈さかしま〉の持ち主だ。影の主は俺だ……!」

「へぇ、そうかよ。おまえなんかじゃ役者不足だと思うがね」


 露骨に嘲られ、パジーズのこめかみに青筋が浮いた。


「やってみるがいい……!」


「若君ーっ」


 渡り廊下の向こうから叫び声が聞こえる。松明を持ってカドルーが走ってきた。


「ちょうどよかった、アーシファを頼む」


 キリアスは油断なく剣を構えながらアーシファを助け起こし、カドルーへ押しやった。


「俺が連れてきた三人はどうした」

「すいません、邪魔なんで殺しちゃいました」


「何……?」


 聞き違えたかと思ったが、カドルーはいつものように飄然と笑いながらアーシファの喉元に短剣を突きつけていた。アーシファは驚愕のあまり声も出ない様子だ。


「剣を収めてください、キリアス様。さもないと姫様の喉をかっさばかなきゃならない」


「カドルー、おまえ……!?」

「こんなことになって、俺もホント残念です」


 言葉どおり無念そうに、カドルーは眉を垂れる。だが、アーシファに短剣を突きつける手は何の躊躇いも示してはいなかった。




 打ち寄せる波の音が響いていた。


 渡り廊下の起点、湖に面した宮城の広々とした階段状テラスで、キリアスとアーシファは手足を縛られ座り込んでいた。盛大に焚かれた篝火が、周囲を黒みがかったオレンジ色に照らしている。


 テラスの中央には低い卓が据えられ、〈竜の宝珠〉が五つ、八角形の特別な盆の上に置かれていた。中央に竜の彫像があり、それを囲むように八角のそれぞれに窪みがある。


 以前は皇帝が代替わりするたび、諸王が各自の宝珠を持参して一旦珠を返上し、改めて新皇帝から下賜されるという儀式が執り行われていた。


 皇家の威信が失墜すると廃れてしまい、目まぐるしく交替した最後の五人の皇帝の治世には一度も行われなかった。


 卓の前に置かれた床几にはパジーズ王子が腰を下ろし、異様な光を湛えた目で憑かれたように珠を見つめている。その手にはしっかりと〈さかしま〉が握られていた。


 傍らにはダリオンの副官のひとりが立ち、キリアスから取り上げた〈始祖の剣〉を御佩刀持ちのように捧げている。


 四人の副官は、ダリオンが殺されてもまるで平然としていた。うちひとりはカドルーである。彼らは皆当たり前のようにパジーズに従っている。フォリーシュ軍の一般兵士たちが怯えた顔をしているのとは対照的だ。


 キリアス軍が堤道から撤退し、戦闘は終わったようだ。何の騒ぎも聞こえて来ない。ただ篝火の燃える音と打ち寄せ波音だけが、夜のしじまをひっそりと揺らしていた。


 アーシファは黙って渡り廊下の先を見つめた。ダリオンの遺体はそのまま亭に捨て置かれている。すでにカンテラは燃え尽きて亭は真っ暗だった。涸れ果てるほど流した涙が、また一筋頬を伝った。


「あいつ……、おまえに優しかったか?」


 躊躇いがちに尋ねてみると、アーシファは唇を引き結んでこくんと頷いた。押し殺した啜り泣きに肩が震える。キリアスは後ろ手に縛られている身体を寄せ、こつんと頭をくっつけた。


「そっか。なら、いい」


「目……どうしたの?」

「後でゆっくり話してやるよ。ちゃんと見えてるから心配するな」


 俯いたアーシファは絞り出すような声で囁いた。


「……ごめんね、キリアス」

「俺に謝ることないだろ」


「でも……、ごめんなさい……!」

「謝るなって。おまえがあいつを好きだったんなら、いいんだよ」


 アーシファは膝頭に顔を埋め、声にならない嗚咽を上げた。


 テラスに新たな足音がして、キリアスは顔を上げた。こわばった顔のナイトハルトがフォリーシュ兵に囲まれて槍を突きつけられている。


 彼は両手に小さな箱を捧げ持ち、キリアスをじっと見つめた。頷いてみせると、彼は眉を曇らせかすかに嘆息したようだった。


「珠をそこに置け」


 引き攣った癇性な命令で進み出たカドルーが、箱の蓋を開ける。憤懣をたたえた瞳で睨み付けられ、彼は苦笑した。


「すまん。仕方ないことなんだ、そう責めないでくれ」


「自分を責めているだけだ。おまえがそうなってしまったことに気付かなかった、自分自身をな」

「おまえのせいじゃないさ」


 カドルーの口調は奇妙なほどに優しかった。彼は箱の中から三つの黒い宝珠を取り出し、盆の空いた部分に置いた。


 パジーズがよろめきながら立ち上がる。彼は前屈みに進み出ると、痙攣する指を差し伸べた。


「おお……、ようやく揃った。揃ったぞ。この世の影が……。黒い。真っ黒だ。何故珠が黒いかわかるか? 吸っているからだ。この世の影を! この世の歪みを! 宝珠がなければ、この世はもっと早く影に覆われていた。そうあるべきだった……!」


 パジーズ自身の言葉ではない。彼に取りついた『影』が喋っているのだ。


「今こそ影を解放しよう。この世を呑み込み、無に戻るのだ。無になれば分かたれることもない。光と影を合一し、すべてを無に帰するのだ!」


 奇怪な哄笑を放ち、パジーズが逆手に持った闇黒の剣を振り上げる。〈竜の宝珠〉が黒い輝きを発し、互いに黒い稲光のような線で結ばれる。


 居合わせた全員が呪縛されたように動けないでいるなか、アーシファがかろうじてかすれた声を上げた。


「キリアス……っ!」

「大丈夫だ」


 場違いなほど落ち着いた声に驚く。いつのまにかキリアスの眼帯が外れていた。アーシファは声を失い、魅入られたようにその目を見つめた。縦長の金の瞳孔は、闇夜に落ちる稲妻のように恐ろしくも神々しく輝いている。


「世界は影に呑まれたりしない。そんなことは、させない」


 パジーズは〈さかしま〉を盆の中央の竜に突き刺した。ゴウッと風が渦巻き、黒い宝珠が水滴のように歪んで溶けた。


 渦巻きは夜空高く伸び上がり、夕陽が大地に刻む影のように長くアンバランスな竜となった。向きを変えた竜は真っ逆様に落ちてくると、憑き物が落ちたようにぽかんとしていたパジーズの頭をばくりと呑み込んだ。


 ぶんっと黒竜が長い首を振ると、頭部のもげた無残な死体がテラスに叩きつけられた。続いて吐き出された生首がごろごろと転がる。


 警備に就いていたフォリーシュ兵たちの精神は限界に達し、狂ったようにわめき散らしながら一斉に逃げ出した。


 神のごとく崇拝していたナヴァド=ダリオンが突然死んで精神的支柱を失っていたところに、見るものを悉く絶望に突き落とす影の暗黒竜を目の当たりにして、ついに箍が外れたのだ。


 他国人のように彼らはあり得ざるもの──死餓鬼との苦闘を経験したことがなかった。ギリギリの選択を迫られる葛藤に直面せずに済んだ彼らの精神は、その分脆く純朴ナイーブなままだったのだ。


 動転した様を見たこともないナイトハルトでさえ、足が竦んだように茫然と竜を見上げて突っ立っている。


 カドルーを始めとする影の騎士たちは対照的に無表情だった。動じていないというよりも、高揚も何も感じていないようである。人間が足元の影を見ても取り立てて感情を動かさないのと同じことなのだろう。


 座り込んでほうけたように竜を眺めていたアーシファは、キリアスの呟きにようやく我に返った。


「……来る。本物の、影が」


 キリアスは立ち上がった。縛られていた縄はどこにもない。いつのまにか自分も自由になっていることにアーシファは気付いた。


 キリアスは恐れることなく踏み出していく。右手を横に伸ばし、低く囁いた。


「来い。〈目覚め〉」


 副官が掴んでいた鞘から飛び出した剣が、一直線にキリアスの手に収まる。


 影の騎士は残った鞘を投げ捨て、自らの剣を引き抜いて飛びかかった。〈目覚め〉が閃き、騎士の身体が血煙を上げて吹き飛ぶ。


 続いてもう一人が同じ運命を辿る。残る騎士たちは呑まれたように唖然とした顔で凍りついた。


 それは目にもとまらぬ早業で、キリアスはただ悠然と歩を進めているだけのように見えた。研ぎ澄まされた鋭い表情は抜き身の刃そのものだ。


 黒い炎のように絶え間なく形を変える影の竜と対峙し、キリアスは足を止めた。黒霧を抜け出るように、向こうから誰かが来る。アーシファは息を呑んだ。


 ダリオンが、そこにいた。


 白いシャツの胸元を血に染めて、ダリオンは悠揚迫らぬ笑みを浮かべた。その手には影が結晶化したような剣が握られている。


「待っていたぞ、竜の申し子よ。ふたたび相まみえるこの時を」

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