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 おれはそれから再びベッドに倒れ込み、このまま眠ることなく、まんじりともせずに朝を待ってやろうと思っていたが、おれの意志の強さとは関係無く身体は眠る時には眠るものであり、白々しくも朝はやってきた。

 昨日のマクドナルドの店員が発した「そうじゃない」答えと、内藤が電話で話していた一連の顛末がおれの脳髄の底流をズルズルと這いずり回り、どうにも気分が優れないままいつものように小田急線に飛び乗り、職場へと向かった。

 朝の小田急に乗り込んではプレス機にかけられるかの如く圧縮される乗客は、今日もマイナス十度の仏頂面で綺麗に統一されており、おれもまたその一員と化すことで、恐らく今日も何事も無く職場に着く予定だった。

 例えばおれがこの環境の中で、大声で

「炊飯器の蓋を作りに行こう」

 と叫ぼうものなら、おれの周囲の乗客は一斉に「ぎょっ」とした顔でおれを注視するだろうが、瞬時に元の顔に戻り、おれを「無かったこと」にするだろう。だがおれもまた、隣に立っている男が急に

「おれのパイナップルが戻ってこない」

 と絶叫したならば、恐らく同じような行動を取るだろうし、それを分かっている以上、おれは誰をも責めることはできなかった。

 しかし、この車内の何百人が、この電車の何千人が、小田急でそれぞれの居場所へ向かう何十万人が、どれほど東京者としての秩序と安寧を代償として、互いを縛り合ってきたことだろうか!

 たった数秒の『ぎょっ』こそが、己を解放していかんとする者に多大なるダメージを与えるのだ。だが、その一瞬さえ乗り越えられる強靭な精神を付けることができれば、おれは更なる高みを目指せるだろう。

 おれは静かに、しかしながら力強くそう確信した。電車は誰にも気付かれぬよう独り充足感に浸るおれをよそに、祖師ヶ谷大蔵をノロノロと弱々しく出発し始めた。


 職場に着くと、内藤がおれを待ち構えていた。

「昨日のあれは失敗だった」

「え?」

 内藤は、続けざまに静かに呟いた。

「もう少しうまい解放の仕方があった、多分」

 知ったことではなかった。おれは内藤を押しのけ、デスクに鞄を置いた。

「おまえなあ、『解放』って言ったって、所詮お父さんお母さん妹さんだかの前での話だろ。親兄弟にじゃれるくらい珍しくないんだよ、当たり前よ」

 おれは何故だか分からないが、急速に苛立っていた。

「それともなんだ、東京者は親兄弟の前ですら仏頂面で過ごすのが当たり前なのか」

 内藤は黙っていた。

「おまえらはなんだ、親兄弟とも社交辞令でしか言葉を交わさないのか。朝起きれば『御機嫌よう、今日もいい天気ですね』か。夜寝る時は『本日もお疲れ様でした、お休みなさいませ』か?」

 内藤の垂れ下がった頬が徐々に丸く膨張し始め、眉のあたりが微細動を起こしているのが見えた。オーブントースターの中で膨れ上がる餅を見ているようだな、とおれは思った。

「おまえ、そろそろ無いぞ本当に」

「そんなんじゃ分かんないよ、分かんない分かんない」

 おれはそう捲し立てながらも、その裏では焦っていた。仮に家族間であれ、確かにこの男は「ぎょっ」を乗り越え、おれとはまた違う景色を見ている。そう思えば思うほど、おれは闇雲に「分かんない分かんない」と言い続けるほかは無かったのである。

「分かったよ、やってやるよ」

 内藤は、おれの「分かんない分かんない」を遮るように呟いた。

「おまえ、見てろよ、ほら、やってやるからよ」

 内藤はそう言うと、おれの目の前でシャツのボタンに手をかけ、おもむろに次々と服を脱ぎ出した。

 突如の出来事に呆気に取られたおれをよそに、やがて下着一枚の格好になった彼は、醜く弛んだ裸体を震わせてはオフィス内をゆっくりと練り歩き、高良部長のデスクによじ登った。

 おれは彼の奇行を見て、最早どのような言葉を返すこともできなくなった。

「刮目しなさい!」

 内藤は高良部長のデスクの上で叫んだが、彼がそう言わずとも、既に彼の有様にオフィスの人間の視線は集まっていた。彼が穿くトランクスは不自然にめくり上がっており、彼の立派に膨れた身体には不相応な、頼りない「ナニ」がそこから露出し、所在無げに左右に揺れていたのである。

「刮目しろ!」

 彼は自分の胸板を両方で強く叩き、やがてスクラムを組むように低く構え、その体勢を整えた。何かが始まるのだな、とおれは思った。

「あああああ」

 内藤が低く唸る。

「ひとつとせえ、ひとりでみても、よかちんちん」

 すると、おれの後ろから聞き覚えのある声が飛んできた。

「はあーよかちん、よかちん!」

 おれは後ろを振り向き、驚愕してしまった。あの日おれが興味本位で殴りつけた、あの守屋係長の合いの手だった。内藤の「よかちん音頭」は、上司に咎められるどころかそれを受け入れられ、徐々に勢いを増し始めた。

「ふたつとせえ、ふたりでみても、よかちんちん」

「はあーよかちん、よかちん!」

 今度は高良部長だ。ヒラ社員にデスクによじ登られた挙句、自慢するほどでもない陰茎を見せつけられ、本来なら怒りのあまり内藤の首を絞めたとしても不思議では無い立場にいる高良部長が、守屋に続いて合いの手を入れている。

「みっつとせえ、みんなでみても、よかちんちん」

 そのうちにオフィスは歓喜の声に包まれ、はあーよかちんよかちんと、誰もが合いの手に加わり、とうとうおれだけが独り、その喧騒の中に取り残された。

 だが、待ってほしい。よかちん音頭というものは、空のビール瓶をナニに見立て、いかに面白く踊るかがポイントなのであって、ところがおまえはただ、その粗末なナニを露出して仁王立ちになっているだけで、根本的に間違っているじゃないか――

 おれの懸念はよそに、内藤に煽られた彼らは彼らで、とうとう我を忘れ始めた。

「素晴らしい!」

 高良が言う。

「例え職場の中だろうが、彼はこのようにしてですね、自分の存在感を考えては自分なりに創造し、発信した! 皆もこれに続くのが望ましいですね」

 おれは、彼が何を言っているのかが一片も理解できなかった。

「こうやってこう、壁の向こう側に行きましょうね」

 高良はそう言った後、突然両手を頭に当て、腰を左右にぎこちなく振り始めた。

「おれは、セックスマシーンだ」

 彼は腰を振りながら、ジリジリとおれに近付き、こう言った。

「おれはセックスマシーンだ、房野君はどう?」

「いや、ぼくはセックスマシーンじゃないので」

 その時、おれの足元に何かが衝突したようで、ふと下を見ると、守屋が前転の練習に励んでいた。彼はどうも運動神経が悪いらしく、何度試みようと前へと進めず、横脇に崩れ落ちてばかりいた。

「だるまさんだよ、だるまさんだよ」

「だるまさんですか?」

「ぼく、だるまさんになる。だるまさんになって、お婆ちゃんを安心させるから」

「ああ、頑張ってください」

 おれは顔を上げ、改めて周囲を見渡した。

 内藤は意味を成していなかったトランクスすらも脱ぎ捨て、既に全裸になっていたが、彼の頼りない「ナニ」は相変わらず萎えて腐り落ちそうな果実のように弱々しく、その股間にぶら下がっていた。

 おれの三期上の先輩で、天真爛漫でお調子者が売りの斉藤は、自分のデスクに繰り返し頭を打ち付けており、既に額からおびただしい血が溢れている。

 ベテラン社員の澁澤は愛飲している「わかば」を一箱丸ごと開けては丸ごと口に咥え、それでも足りないのか両鼻の穴と両耳の穴に各三本ずつ突っ込んでは、その全てに火を点けて至上の喫煙を嗜んでいるし、このオフィスで紅一点の渡辺は、両手足を規則正しく曲げたり伸ばしたりしては

「お嫁に行けなくなっちゃう! お嫁に行けなくなっちゃうの!」

 と、執拗に連呼していた。

 おれは最早何にも立ち向かうことができずに立ち尽くすのみだったが、果たして、この事象は何なのであろうか。これは、おれが蒔いた種なのだろうか。しかし、いくら解放だ何だと謳ったとしても、おれが求めていた風景は、断じてこれではなかった気がした。

「帰ります、具合が悪いんで」

 おれは下手な前転を繰り返している守屋に別れを告げ、職場を出た。


 昼前、陽は南へと高度を上げ、湿気こそ無いが日差しはじりじりと暑く、職場の最寄り駅に着く頃には既に汗が滲んでいた。おれは鞄の奥底から職場のスマホが振動しているのを感じ、誰かも確認せずに、その電話に出ることにした。

「はい」

「あっ、房野君か、良かった繋がって」

 電話の向こうは、かの守屋係長だった。

「お疲れ様です、すいません昨日は」

「昨日」

「いや、不意に殴ってしまいまして」

「殴ったって?」

 電話の向こうで、守屋が訝しんでいるのが分かった。そうだ、そう言えば、おれはこの男を殴るところにまでは達していなかったのだ。

「すいません、やっぱり殴ってないです、殴ってないです」

「いや、まあいいよそれは、良くないけど」

 おれは慌てて取り消しはしたものの、当たり前ではあるが、彼はどうにも釈然としないような口ぶりをおれに向けていた。

「それより、なんでさっき無断で帰っちゃったの?」

「えっ」

 予想外の質問に動揺した。理由など、伝えるまでもないだろう。第一おれは、おまえに具合が悪いから早退すると言ったではないか。

 おれの困惑を守屋は知るべくもあらず、続けざまにこう捲し立てた。

「内藤君に聞いたけどさ、さっき軽く挨拶したらそのまま何分も突っ立ってて、やっと動いたと思ったらそのまま帰ったって」

「ええっ」

 騙されているのかと思った。悪趣味なドッキリに引っ掛かったのかと考えたが、元よりそこまで軟派な職場ではないし、おれを引っ掛ける意味も見当たらない。

「だから、昨日の話じゃないけど何かこう、抱えてるとかさ、もしあったら」

 おれは電話の向こうの守屋の言葉を聞きながら、無意識にスマホを持つ右の手首を震わせているようだった。流石のおれも、この事態にはどうにも堪えるものがあるのだろうな――おれは気が動転しながらも、また違う一点では変に冷静だった。

 それ以上彼の言葉を聞かないことにし、電話を切り、同時にスマホの電源も落とした。先程目の当たりにした光景が果たして何だったのかは、今後一切考えないことにしようと思った。


 平日、午前、下り、各駅停車の小田急線に乗客はまばらだった。とは言え東京を生きる人間達の表情にはやはり一片の抜かりも無く、おれもまたその通りであった。

 おれは東京を生きていて、おまえ達も東京を生きている。

 東京者のおれには、東京者のおまえ達の心の在り方が分からない。

 東京者のおまえ達にも、東京者のおれの心の在り方は分からない。

 だから、東京者のおまえ達は、東京者のおれが、これから何をしでかすのかも分からないはずなのだ。

 おれもおまえ達も互いの心の内が見えないから、こうやって関わらずに生きていける。だからこそ我々東京一千万人の赤の他人同士は、安泰の中で日々の暮らしを繰り返すことができたのだ。

 おれはおまえ達の、涙ぐましい日々の努めを否定したくはなかった。ただ、そんなおれも、向かい側に座っているおまえも、時として、どこかで――


 秋の真昼の狛江駅は陽光の中で和らぎ、昼食を求めて手頃な店を探し回るサラリーマンと、中間テストが終わり帰路に就く学生とで適度に賑わいを見せており、南口もまた例外ではなかった。

 さて房野俊彦は極めてニュートラルな、いや、形容するならばニュートラルからほんの十度ほど感情を「負」に傾けたような面持ちで、改札を降り立った。華奢な体系に似合わずやけに肩幅が大きな背広を着ており、見方によっては貧相にすら感じられる風采だった。

 やがて彼はロータリーの中央部に移り、かんかんの日照りにも関わらず、手に持っていた雨用のビニール傘を持ち上げると、流れ行く人混みの中で、彼は一体何を決意したのだろうか、静かに息を飲んでは、途端に大声でこう叫び始めた。

「あいむ!」

 人目も憚ることなく、叫んだ。

「あいむ! あいむ! しいんぎにんざれいん!」

 その瞬間、確かにロータリーを行く人の群れは面白いようにピタリと制止し、皆の視線は一様に彼の顔の方へと向いた。その眼差しを迎え入れた彼は、ほんの一瞬だけ口の端でニヤリと笑った、間違いなく笑ったのである。

「じゃっしいんぎにんざれいん! わなぐろお、歌詞忘れた」

 彼はビニール傘を大げさに振り回し、細い手足をピョコピョコとぎこちなく捻じ曲げては奇妙なタップダンスを始めた。

 ただ、人の群れが止まったのはほんの僅かな時間だった。足を止めていた人間は一人、また一人と動き始め、やがて彼が現れる前の光景と違わぬものとなり、最早誰も彼を気にかける者はいなくなった。

 彼は確かにそこにはいるのだが、そこにはいないのである。

「だあんしにんざれいん、たあらりあららりらあ」

 房野の挙動は次第に弱々しくなり、その声にも濁音交じりの息が目立ち始めたが、それでも彼は、この不可解なリサイタルを決して止めようとはしなかった。何者から課せられた使命か、それとも彼が自発的に行っているのか定かではないが、まるで負け戦だと分かっていながらも、なおも抗っているような、安っぽい悲壮感さえ漂わせているようだった。

 房野の不審な挙動が目新しいものでなくなってから既に数分は経ったが、その中でただ独り、ふと彼の目の前で足を止めた女性がいた。

 彼女こそ、駅に併設された商業施設「狛江マルシェ」のマクドナルドでアルバイトとして働く高校生、浪瀬凛だった。彼女は、バネ人形のような怪しいタップダンスを踊ってはビニール傘を振り回す房野の姿に、昨日ソフトツイストを一つだけ買って帰っていった、おかしな男の面影を見たのだった。

「あの」

 声をかけてみたはいいが、男の心は既にここに在らず、息を切らしながらも踊り歌うことに全てを注いでおり、彼女のことは気にも留めていないようだった。

「てーってれってれ、てってーってれってれ」

「あの」

「てーってれってれ、てってーってれってれ」

 それでも彼女は耐えたが、流石に限度というものはあった。

「すみません、何でもないです」

 遂に折れた浪瀬は踵を返し、足早に狛江駅へのコンコースへと去って行くが、例え女子高生に声をかけられようが愛想を尽かされようが、最早この男には何もかも関係が無いのであった。

 ああ、これが、仮にこれが彼の思っている高みだとするならば、東京者のペルソナを剥いだ者だけが辿り着く境地だとするのならば、それによって得られるはずのカタルシスは、どこにある?

 いや、もう小難しいことは抜きにしようや。

 おれを見ろ、おれを刮目しろ、このおれもまた東京が、おまえ達が日々を生きる東京が抱えている倫理の一つなのだから――

 かくして、房野俊彦はそれからも長いこと踊り続けた。その棒切れのような身体で、誰もが彼に見向きをせず通り過ぎようとも、何十分も踊り続けた。歌うだけ歌い、叫ぶだけ叫んだ。

 そしてこの時、ついに彼は独りだった。こうして彼は無事、「東京者」としての安寧と秩序から脱し、解き放たれたのである。

 おめでとう房野俊彦、心から祝福しよう。おめでとう房野俊彦、例え、これきりの解放だとしても。おめでとう、房野俊彦――


 やがて性根尽きた房野は、ロータリーの真中で、とうとう仰向けに倒れる。

「ダメだ、もう無理だ」

 ビニール傘を開いたまま放り投げ、両手を伸ばし、陽の光に煽られながら、彼は誰にも聞こえぬよう、か細い声で、こう呟いたのだった。

「おれ、やっぱりインコ飼うんだ、インコ飼うんだよ、インコ」


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T.K.M. 中洲エスア @nakasuesua

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