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 朝になり、雨は上がるも雲は去らず、カーテンから差し込む光は弱々しく頼りない。

 スマホから流れる「アラームその四・軽快な小鳥のさえずり」によって起こされたおれは頭の奥にぼやけた鈍痛を覚え、わざとらしい舌打ちを五、六回繰り返した後、ノロノロとカーテンを開けた。

 部屋の窓の向こうには、コンクリート打ちっぱなしの小さな一軒屋が建っており、おれがこうして朝方カーテンを開けると、二階のベランダに突っ立っている男を決まって目にする。貧相な身体つきをした垂れ目の中年男で、寝間着から覗かせる手足は棒のように細いが腹だけがしっかりと突き出ており、つまるところ典型的なニッポンのオジサンである。

 おれはこの部屋に越してからしばらく、朝毎にその男を観察していたのだが、彼はどうもベランダに出て体操なりストレッチなり、何かしらをするということはなく、ただただ十数分間程度、呆けているだけのようだった。

 それだけならば「朝の日光浴をイビツな形で嗜むオジサン」で終わるのだが、おれが訝しんでいるのはそこではなく、その十数分間、彼の口元が僅かばかりに絶えず動いていることだった。

 おれはあくる日、男の奇行を内藤に話したことがある。

「ずっとブツブツ何か呟いてるって?」

 内藤は言った。

「ずっと口が微妙に動いてる。しかも口の動き方が一定なんだよ」

「同じフレーズをずっと繰り返してんのか」

 彼は理解が早かった。

「そう、だからおれ滅茶苦茶研究した。毎朝毎朝おっさん見て、口の動きから予測して」

「何て言ってんの」

 よくぞ聞いてくれた、と思った。おれには自信があった。彼の口の動き、およびループのタイミングから、おれが割り出した答えはこれだった。

「これは間違いないと思うんだけど、多分『ちんこ』って言ってんだよ」

「ちんこ?」

「だからあのおっさん、十何分もずっと『ちんこ』って繰り返してんの」

「なんで?」

 内藤の疑問はもっともだったが、それはおれにも分からないことだった。

 おれが言えることは、あの男はおれの部屋の向かいの一軒屋の二階のベランダに毎朝突っ立っては、十数分もの間、ひたすら「ちんこ」を繰り返している、ただそれだけのことだった。

「おれにも分からん、でも、ずっと言ってんだよ。ちんこちんこちんこちんこって、ずっと」

「って言うか、なんでそんなに自信持ってちんこだって断言できるの?」

 おれの直感だと内藤に言うと、彼は鼻にかかったような乾いた笑いを二、三回繰り返し、それきり何も言わずその場を離れた。

 残されたおれは、誰にも聞かれないよう囁くような声で、できるだけ多く「ちんこ」と呟いてみようとしたが、一三五回口にした段階で急速に熱が冷めてしまい、その日はそれきり仕事が手につかなかった。


 ともかく、おれが今日もカーテンを開け、やはり向かいの家の二階のベランダにはあの男が立っており、そして何かを繰り返し呟いていた。そして彼が繰り返している「何か」とは即ち「ちんこ」に違いない、とおれは訳も無く確信している。


「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ、よし」


 男が最後に「よし」と言ったのは勿論おれの妄想なのだが、いや、彼が繰り返している言葉が「ちんこ」であることもおれの妄想かもしれないが、ベランダの彼はこうして今日のノルマを終え、部屋へと引っ込んだ。

 おれはその間に顔を洗い着替え、今日もまた一日、仏頂面の群れが禍々しくも渦を巻く大東京に身を乗り出そうとしていた。


 おれは駅への道中、改めてあの男の奇行の大元を深く掘り下げようとしたが、その為には彼の入念なプロファイリングを試みる必要があると考えた。

 見た目から考えるに男は四〇代も後半、外壁はいくらか煤けてはいるが、それほど古くも見えず、恐らく彼が建てたのだろう。結婚はしているだろうし、子供もいるに違いない。仮に息子と娘を、それぞれ一人ずつ作ったとする。

 幸の薄そうな顔つきに茹でもやしのような白く細い手足を見るに、それ相応には尻に敷かれているに違いない。息子からは陰で馬鹿にされ、娘からは最早「いないもの」とされているのだろう。

「おれがあの男であるとして、何故おれは、毎朝ベランダに突っ立ってはちんこの呪文を唱えるのだろう」

 こうやって仮定しよう。例えば、おれはしがない会社勤めの中年男である。

 成り行きで結婚した細君との間に愛があったのは最早前世紀の話で、今やおれの稼ぎを根こそぎ奪い取る化け物と化した。息子は直接口にはせずとも、態度で分かる、確実におれを蔑んでいる、下に見ている。娘はここ数年程怪しかったが、とうとう無事におれの姿が見えなくなったらしい。おれの呼びかけに、何一つとして反応を見せなくなった。

 何故だろうか、おれが渾身の思いで建てた家のはずが、おれが休まる空間、おれが存在し得る空間が、いつしか失われていった。

 行き場を失ったおれが最後に辿り着いたのは、寝室の先の小さなベランダだった。

 おれは毎朝、細君が眠る隙を見計らい、引き戸を開け陽の光を直に浴び、その瞬間、おれは外の空気に晒されながらも、ついに家の誰とも接することない、誰にも侵害されることがない、ただ独りの男になることに成功する。

 おれはこの時間だけこの場所だけで、おまえ達が知らない、ただ独りのおれとして生きられる。できるだけ、普段呟けない言葉を思い切り呟いてやろう。

 しかし、あの化け物が起きぬようにそっと、ひっそりと、静かに呟こう。

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」


 その瞬間、おれは男の「全て」を分かってしまった。

 全てが分かってしまったおれは、男を取り巻くあまりの世知辛さ、それでもなお些細な抵抗を続ける彼の信念に、独りを生きたいと願う進歩的文明人としての尊厳の荘厳さを覚えてしまい、思わずわっと声を上げたくなってしまったが、寸でのところで抑え、商店街の真ん中で大きな溜息を二、三回ほど繰り返した。

 おじさん! おれは、あんたを、誇りに思う。おれは、あんたのちんこを尊重したい。

 おれは急いで駅の改札をくぐり、各駅停車新宿行へと飛び乗った。そして一刻も早く、内藤にちんこ男の生き様を知らしめなければと、その一心で弾んでいた。


 ところが、あの男はあまりにも冷淡で非情だった。

「そうなんだ」

 と、彼は一言、特に表情を変えずに言った。

「おまえ、おまえまさか」

 おれは予想外の内藤の仕打ちに、思わず肩が震えた。

「おまえまさか、この話を『そうなんだ』で全部終わらせようと思ってんのか」

 おれがそう言うと、奴はしばらく黙り込み色々と考える仕草をおれに見せたが、汚い音を立てて鼻を啜ったかと思えば一言

「そうなんだ」

 と、再び口にした。彼には、ちんこ男の悲哀と自由への追求とその尊さについての、何一つをも感じ取ることができなかったらしい。

「ダメだ、おまえは分かってない。分かってないおまえは、ダメだ」

 おれはできるだけシリアスを装おうと、なるべく低くドスが効いた声を作ろうと努めたが、それが裏目に出たのか変な方向へ上ずってしまい、最後の「ダメだ」に至っては派手に裏返り、インコのような素っ頓狂な声になってしまった。

 内藤はおれの上ずった声に何ら反応を示すことは無く、頭を二度掻いて明後日の方向に目をやり、そのまま何も言わずゆっくりと自分のデスクへと戻っていった。

 これはダメだな、とおれは思った。何がどのようにダメなのかは自分でも詳しくは掴めないが、この「ダメ」は今日一日、おれが部屋に戻るまでの間はずっと持続するタイプの「ダメ」だろうな、とも思った。

「分かった分かった」

 おれは廊下に出て、自動販売機でコーラを買い、今日中に内藤にもう一度ちんこ男の素晴らしさを説法しよう、そして感服させよう、そう考えながら、ペットボトルを縦に五、六回程、おもむろに振った。

 デスクに着き、コーラを置き、キャップを回すと、気泡が増殖と四散を繰り返しながら溢れ始め、やがてデスクにカラメル色の海を作り、昨日作り上げたまま放っておいた、今朝の打ち合わせで使うはずの資料の束がたちまちに浸り、コーラはそのうち床に垂れ、おれの革靴を余すことなく濡らしていった。

 しばらくすると周りが俄かに騒がしくなったが、あくまでもおれは動じず、どこまでも冷静だった。使い物にならなくなった資料の、コーラに浸っていない部分をうまいこと駆使することで、このままだと砂糖でべとついてしまう革靴を綺麗に拭けないだろうか、と考えていた。

「分かった分かった、分かった分かった分かった分かった」

 ここで今日は一日、徹底的にダメな人間であることにしよう、とおれは決意し、ひとまずコーラで浸った床に革靴を擦り付けることで遊ぼう、なるべく良い音を立てることができたら勝ちの遊びをすることにしよう、と思った。


 おれを会議室に呼び出した守屋係長は、おれに寝不足かと尋ねてきた。

「あっ、すいません」

「いや、すいませんじゃなくてさ、上司として心配だから」

 守屋は、先程のおれの一連の行動を仕事のストレスから来る心身症か何かだと思っているようだった。

「すいません、ご心配を」

「だって、コーラ買ってきたと思ったらいきなりシャカシャカ振り始めて、そのまま開けちゃうわけでしょ」

 守屋は続ける。

「こぼれても全然反応しないし、ポカーンってなってるし、何かこう、仕事でトラブル抱えてるのかなあって、思うじゃん?」

 守屋は決しておれを咎めようとはせず、あくまでも親身だった。

 だが、おれは言いたかった。おれがコーラを振ってしまったのは、内藤にちんこ男の哀しみを理解されなかったことへの衝撃が所以であり、コーラをこぼしてからの反応が遅れたのは、革靴を資料で拭く方法を模索していたり、床に革靴を擦り付けて楽しんでみようと試みたりしていたからだった、と。恐らく想像を絶するくだらなさに、守屋の善意は、彼の中で無残にひしゃげることだろう。

「寝不足だったんで、すいません」

 おれはその思いとは裏腹に、至極真っ当な返答をした。

「本当か」

「昨日、ちょっと遅くまで起きてたもんで」

 嘘である。おれはチーズバーガーとポテトを食した後、何もすることが無くなり寝てしまったのだ。

「なんだ、そんなことか」

 彼は笑った。「部下がおれの管理ミスでメンタルをやられたわけではなかったので安堵しました」と、顔に書いてあった。

「入ってもう半年だろう、身体は資本だから。昨日無茶すれば今日に響くから」

「肝に命じます」

「若いから多少夜更かししてもそこまでじゃないんだろうけど、ぼくなんか、もう――」

 守屋の話はそれから何分間か続いたが、おれはそれを聞き流しながら、おれが何の前振りも無く咄嗟にこの男に殴り掛かったら、果たして彼はどんな顔をするのだろうかと、漠然と考えていた。

 彼とおれの間には特に深い溝も何かしらの因縁も無く、おれが彼を殴る理由は今のところ何も無い。だからこそ満面の笑みで部下を優しく諭しているこの男はよもや、おれから鉄槌を食らう羽目になるとは夢にも思うまい。

 おれはどうだろう、殴られたら、殴り返すのか。

「いや、無理だな、人なんて殴ったこと無いし」

 殴られた頬を押さえながら、しばらく身動きが取れなくなるだろう。そうやって固まること十秒足らず、そこでようやくおれは顔を上げ、目の前の人間にわけも無く殴られたのだと認識することだろう。そして、おれは何と言おうか。

「なんで?」

 素直に聞くだろう。殴られる理由が見当たらなければ、素直に聞くしかない。なにもおれに限った話ではない、恐らくこの男もそうやって尋ねるだろう。

「どうして?」

 どうしてなのだろう、おれにもよく分からなかった。

「いや、まあ、あの、ほら、こうやっていち個人といち個人が、他愛も無く倫理に沿って会話をね、してるわけじゃないですか」

 それは本当に良いことですし、ぼくも守屋さんと共にこの倫理的な空間を生きていて、満足はしているわけです。でも、ぼくが守屋さんをたった一発殴っただけで、あっと言う間にそれが崩れてしまうわけですよね。

「それって、凄くないですか」

「何が凄いんだよ」

 守屋は、おれに殴られた右頬を押さえながら言った。

「はい」

「何が凄いんだよ」

「すいません、大丈夫ですか」

 守屋がおもむろに立ち上がる。

「君、流石にちょっとこれはぼくも厳しくせざるを得ないよ」

「すみません」

「あのねえ、すみませんって話じゃないでしょ」

「すみません」

 守屋は埃が付いた背広を手で叩き、おれに背を向けながらこう言った。

 やはり、おれが言った通りではないか。人が人をたった一発殴っただけで、今までの安寧と秩序に満ちた空間は脆くも簡単に壊れるのだ。

「とりあえず処分はちょっと待ってもらうから、また後で話し合おう、時間空けといて」

「すみません」

 本当にすみません、守屋さんを殴ったら何かが広がりそうだなと思っただけでした。殴ったらこう、無限に世界が広がりそうだと思ったので――


 ここまで容易に想像ができたし、想像ができるからこそおれは守屋に手を出さず、最近の眠りがどれだけ浅いかを熱弁する彼のこめかみの辺りを、ただ黙って見つめていた。

「まあだからしっかりと寝てくれよ、またポカするぞ」

「すいません、気にかけていただいて」

 おれが会議室を出ると、廊下を歩く内藤と鉢合わせた。内藤は眼を右に左に意味も無く動かした後、再びおれに焦点を合わせ、こう言った。

「絞られたか」

「おまえ、おれにぶん殴られるぞ」

「なんで?」

 至極真っ当な反応だった。

「なんでって言われたら、理由なんて無いんだけど」

「通り魔かよ」

 通り魔。通り魔か。これは、言いえて妙だった。

「そうそうそう、通り魔なんだよ、通り魔、いいこと言ったなおまえ」

 要するにおれのこの心持ちは、閉塞感と形容するにはあまりにもステレオタイプではあるものの、日々の営みの中で人と人が交わるにあたり必要な共通意識を軸として、互いが互いを監視するこの在り方を、ただ興味本位でぶち壊してみたいだけで、それはつまるところ通り魔のロジックなのだ。

「おれの理屈が確かなら、おれやベランダちんこおじさんのキチガイポイントを極限まで濃縮還元して、負の方向にねじり切った人間達が通り魔になる」

「さっきから何言ってんだ、おまえ」

「黙れおまえは、おまえは黙れ、ちんこおじさんの苦悩も知らずに」

 おれは内藤を引きずって喫煙室に向かい、再びちんこ男の苦悩と尊さについて熱く語った。彼は終始苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、一方ではようやく少しずつおれの感覚を掴み始めたようだった。

「要はその朝の儀式だけが、おじさんにとっての唯一の我の解放だと」

「そうだよ、いじらしいだろ」

 おれは続けた。

「でも、自分の中のわけ分からない何かを無限に発散し続けたいって欲は、多分誰にでもあるんだよ。特に生まれてからずっと東京で生活してるような、おまえみたいな奴は」

 おれは次第に語意を荒げながら、何故だろうか、昨日小田急線で見た仏頂面の女の顔を思い出した。

「おれにも?」

「おまえにもあるし守屋さんにもある。高良部長にもあるだろうしマックの女子高生の店員にもあるしマッキンリー(三歳、オス)にもある、みんなみんなある!」

 おれの気迫に内藤はたじろいだのか、二、三歩後退りした。おれはそれを見て少し得意気になり、吸っていたハイライトの煙を天井に向かって勢い良く吹き出せば、汚い灰の靄がかりが内藤のむくれた身体を包むように、ゆっくりと降り注いだ。

「おまえもやれば分かるよ」

「やれば分かる」

「東京者の仏頂面を一瞬だけ外して、倫理を超えていけ、丁度いい範囲で」

 おれは途中まで口に出したところで急に嫌な予感を覚え、咄嗟に「丁度いい範囲で」とフォローを入れたつもりだったが、内藤にはどうも届いていないようだった。

「なんだ、誰も見てないところでちんこって言えばいいのか、それとも職場でコーラをブチこぼせばいいのか」

 内藤は言った。これはまずいな、おれは考えた。

 それはおまえのさじ加減に任せるよ、と言っておれは喫煙室を離れた。あの男が何をやらかそうとおれの責任にはしないでほしい、とだけ思った。自分のキチガイは自分で始末すべきなのだ。


 コーラにまみれておじゃんになった書類をもう一度出力し直すなどしていたら、いつの間にか時計は二〇時を回っていた。内藤はとうに帰っており、おれは独り狛江への帰路に就いた。

 小田急線の各駅停車は相も変わらずマイナス十度の仏頂面で埋め尽くされているが、おれから見て向かい側のドアにいる男の周りにだけ、何故か不自然な空間が形成されていることに気付いた。その男の周囲、半径五〇センチ程がぽっかりと空いていたのだ。おれが耳を澄ますと、男は何やら独り言を延々と垂れ流しているようだった。

「今にも、今にも強力な電磁波が新宿を襲ってくるというのに小池は何も対策を打たず」

 とは言え、その音量は独り言の域を優に超えていた。

「これはヒロシマ以来の未曽有の危機、一体識者は何を考えておられるのか――」

 ああ、そういう人か、おれは理解した。しかし東京の人間は慣れたもので、この男の言動に眉一つすら動かす気配が無い。

 おれの田舎であれば――例えば、このような男が電車の中で、あるいは駅の改札で、商店街の中央で、同じようなことを叫んでいれば、たちまち怒号が飛んでくることだろう。例えば、駅の助役の長岡さんならば

「こらこらこらどうしたの、ダメだよそんな大声で、皆もいるからほらほらほら」

 と優しく窘めることだろうし、商店街の魚屋の椎名さんであれば

「あんたもう、さっきからうちの前で変なことばっかり言って、どっか行った行った!」

 とでも言って、男をどこか自分とは関係の無いところへ飛ばそうとするだろう。しかし東京は違う、この男はここにいながらにして、初めからいないものとして見なされているのだから。

 それでも、おれはこの男がどこかで羨ましかった。精神の病とは言え、男は無意識のうちに、いや、無意識だからこそ東京者として持つべき秩序をいとも簡単に、そう、いとも簡単におれの前で破ってみせたのである。

「気持ちいいか、おじさん」

「ああ、我々ヒノモトの民は過去遥かなる長きにわたる苦痛と」

「気持ちがいいのか、おじさん」

「日毎夜毎このようにして思考停止を続け、エコノミックアニマルとしての」

 ただ、男は正気では無いので、この男が「ぶち壊す」ことで「世界を広げた」とて、そのカタルシスを存分に味わえたかと考えると、それは違うのだろうな、と思った。おれの至上命題は、いかにして正気を保ちながら東京者としての物語を破りつつ、最大級のカタルシスを得るかなのだと、ここに来て、ようやく分かりつつあった。

 ただ、おれはその構図に挑むにしてはどうにも常識的で、かつ臆病でもあった。


 狛江で降り、男を乗せた各駅停車は夜の帳へと吸い込まれる。夕飯を作るには遅く、昨日と同様、高架下のマクドナルドへと向かうことにした。果たして店頭のレジで客を待ち構えていたのは、あの女子高生店員だった。

「うわっ」

 おれは思わず足を止めてしまったが、彼女はおれの存在に気付いてしまったらしく、うやうやしくお辞儀をし、確かに「いらっしゃいませ」と口を動かしていた。おれはどうも引き返せなくなったようで、レジの方向に足を動かすより仕方が無かった。

「お決まりですか?」

 レジに着くなり、彼女は注文を選ぶ時間を与えてはくれなかった。おれは怯み、仕方無くテーブルの上のメニューを適当に指差すことで、そこにあったものを頼むことにしよう、と考えた。

「えー」

 おれの指先はソフトツイストに止まったので、自動的にそれがおれの晩飯となった。一度決めたことは覆すまい。

「ソフトツイストください」

「はい、お持ち帰りでよろしいですか?」

「はい、はい」

 しばらくしておれの右手にはソフトツイストが渡され、彼女は正しく明朗な笑みをおれに投げかけ、お気を付けてお持ち帰りくださいと言った後、こう続けた。

「今日は雨も降ってないですよ!」

「は?」

 思わず声が出た。図らずも動揺してしまったし、してやられた、と思った。しかしおれがおまえに求めていたのは、その手の「サービス」ではないのだ。

「あっ、そうですね、はい」

 完全に、彼女とおれとで昨日とは立場が逆転してしまった。「こんな夜遅くにソフトツイストだけを持ち帰りで注文するコミュニケーションが苦手なスーツ姿の男」と化したおれは、彼女から逃げるようにして狛江マルシェを離れ、できるだけ人通りが少ない裏路地へと急いだ。


 秋の夜長は、いよいよ「刺し込むような」という表現が似合うような冷気を湛え始めている。おれはなるべく街灯という街頭を避けながら、すれ違う人間にできるだけ気付かれぬようにソフトツイストを舐めては冷風に身を震わせ、恐らくは世界で最もくだらない晩餐を謳歌していた。

「誰もおれを見るなよ」

 おれは、すれ違う人間達に聞こえぬようにして呟いていた。

「誰もソフトツイストを舐めるおれを見るなよ」

 おれはソフトツイストを舐め回しながら、これもまた小規模ではあるものの、東京を静かに混乱無く秩序立てて生きる上でのレギュレーションを乱しているかもしれない、と考えたが、堂々とそれをやってのけることができずにコソコソと物陰に隠れてしまう以上、たかが知れてもいた。


 部屋に着き、ベッドに横になりつつ、おれがシャワーを浴びて歯を磨く、その気分になる頃合いをひたすら待っていたが、何十分経とうが一向にその気にならないので、おれはついに諦め、今日はそういう日なのだ、と思うことにした。

 日々の暮らし、日々の営み、日々の動作は気の持ちよう次第であり、その気にならなければそれはもう、無理なのだ。

「今日は寝るのが一番良かった」

 おれは消え入るような声で独り呟いた。

「納得している」

 その時、ベッドの端に乱雑に放り投げたスマホが、点滅しながら揺れているのを視界の隅で捉えた。手を伸ばし、画面を見ると、内藤からの着信だった。

「はい」

 電話の向こうで、内藤がやたらと籠った声でこう言った。

「あのさあ、おれさあ、おまえの言う通りに、やってみたんだよ」

「何を?」

「楽しかったんだよ――背徳感みたいなやつが凄いんだけど、それが良かったし」

「いや、だから何を?」

 内藤はしばし間を置いて応えた。

「おれ、昔サバゲーにちょっと凝ってたって言ったじゃない」

「はあ」

「その時のモデルガン引っ張り出してさ、金切り声で『死ね死ね団のテーマ』歌って、妹とか親父とかに『うちゅぞ! うちゅぞ!』って言ったら、メチャメチャ楽しいんだ」

「はあ」

 電話の向こうで、内藤が何を話しているかがいまひとつ分からず、おれはひとまず、部屋の壁をよじ登る小さな蜘蛛の動きを目で追うことにした。

「そしたら、本気で心配された」

「はあ」

「おれが仕事でとんでもなく何かを抱えてるんじゃないかって、『爆発する前にどうして相談しなかったんだ』って、『どうしようもなくなったら、まだ父さんや母さんに頼っていいから』って、本気で心配された」

 蜘蛛は壁に密着する力が弱いのか、何度も落ちては登り落ちては登りを繰り返し、いつまでも前進しないそのもどかしさに、おれは次第に苛立ち始めていた。

「おれはただ、倫理を乱したかっただけなのに」

「おまえ、もう寝ろよ」

 おれは内藤の電話を切り、いつまでも天井へよじ登れない小さな蜘蛛をティッシュで包み、クシャクシャに丸めた後、ゴミ袋の中に放り投げた。そのままベランダに出てハイライトに火を点け、夜風に身体を冷やされつつ、おれは改めて、先程聞いた内藤の話を整理することにした。

 よもやおれは、内藤に先を越されたのではなかろうか。

「やりやがった、やりやがったな内藤」

 おれはその時、確かに何かに急かされるような気分を覚えた。

「ふざけやがって、ふざけやがってよ」

 ハイライトの煙はおれの心持ちをよそに、ノロノロと暗がりの中を上っては溶けていく。

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