T.K.M.

中洲エスア

1/3

 東京で朝から晩までの一日を過ごして、その間、一体どのくらいの人間とすれ違うなり、同じ空間を共有したりするものだろうか、時々考えることがある。

「十万人くらいじゃん」

 内藤が、おれの顔を見ずに答えた。その数字にさして根拠は無さそうだった。

「そんなにいるかね」

「新宿って一日に何百万も使うんでしょ、乗り換えで数分歩いたって、絶対数千人レベルですれ違うから」

 おれと内藤は、中央線を新宿駅で降り、小田急線に乗り換えたばかりだった。

「そんないった?」

「いったよ、帰宅ラッシュだし」

 帰宅客を詰め込むだけ詰め込んだ小田急線各駅停車は、新宿駅のホームをおもむろに抜け出し、低速で神奈川方面へと南下し始める。

 乗り込んだ車両の中で、声を立てているのはおれ達だけだった。内藤の返事を曖昧な相槌で受け流しつつ、ふと隣のスーツ姿の女に目をやると、手に持っている分厚い手帳に、何とも言えない表情で何かを書き込んでいる。

 例えば、人間の感情にツマミのようなものがあるとして、その中心が「ニュートラル」であるならば、「ネガティブ」の方向にツマミを十程度傾けたら、恐らくこのような表情になるのだろうか。

 途中、千歳船橋を過ぎた辺りで、俄かに急ブレーキがかかる。件の女はよろめき、おれの肩に顎を打ったが、それでもマイナス十度の仏頂面は崩れることがなかった。

 やがて、彼女は成城学園前で降りた。

「あいつ、会釈すらしなかったな」

 内藤が、低く唸るような声で耳打ちした。おれは口の端の方で少し笑い、電車はそのうちに、狛江のホームに滑り込んだ。軽い会釈で内藤に別れを告げ、駅の改札を抜けると、おれは独りになった。


 独りで狛江の街の裏路地を歩いている時、思い出すのはあの女の顔だった。何かしらが不満気なようで、そうでもないような、僅かな負の感情の含みが混じるあの顔こそが、あの絶妙な表情こそが東京を生きる人間の証だ、おれは思っていた。

 灯りの眩しさに蠅が集る自動販売機でコーラを買い、おれは考える。何も、あの女に限った話ではなかった。東京の人間が街に繰り出す時は、決まってあの顔にならなければならないのだ。

 おれが大学を出て、就職を機に地元から上京した際、ぎょっとしたのは、皆が皆、件の「マイナス十度」の仏頂面で街を歩いていたことだった。誰も彼もが誠に行儀良く、決まってあの面構えである。果たしてその十度の傾きの中で、一体皆、何かしら思いどころを抱えているのか、もしくは何も考えずに漫然と手足だけ動かしては、大東京をふらふらと揺らいでいるのか。

 入社したての春、何の気無くおれが持ち出したこの話に、内藤は答えた。内藤はおれが入社して以来、初めて親しくなった東京の人間で、丸々と肥えた身体に高そうなスーツを着て軽快な東京言葉を話す、「温室育ち」という言葉が似合いそうな男だった。

「あれは、無意識のうちにそうなってんだよ」

「無意識に」

「うん」

 会社の喫煙室でメビウスに火を点けながら、内藤が頷いた。

「東京に住むようになってからしばらく経つと、皆あの顔になってくる」

「そんな顔してないじゃん」

「人と話してる時にそんな顔しねえよ、そりゃ」

 彼は、東京の人間は皆、街中を独りで黙々と歩く時に限って、自ずとあの顔になるのだと言った。それは何故か、とおれが聞くに

「自分の感情をそこら辺の知らない奴に晒したくないからだよ」

 と返す。

「ただでさえ人が多いんだから、変な顔したり動きしたりして、浮きたくないでしょ」

「何でしかめっ面なんだよ」

「そっちのが真面目っぽく見えるし、誰からも突っ込まれないし」

 内藤があまりにも平然と言うものだから、おれは面食らってしまった。この男が言った話を真とするならば、東京の人間は独りで表を出歩くにあたり、個々の感情を件の仏頂面で厚塗りし、なおも平然と澄ましているということになる。

 勿論、外面と内面の区別というものは文明に生きる以上、例えどの環境に身を置こうがいずれは必要に迫られるもの、とは分かっていながらも、おれは思わず目がくらんでしまうのだった。

「いや、おれには無理」

「って思うでしょ」

 ものの数ヶ月と経たぬうちに、おまえも同じような顔を持つことになるだろう、と内藤は言う。これは東京を生きる者としての終生の宿命だ、房野もまた、東京の無表情に飲み込まれていくのだ、こればかりはおまえも抗えないのだ――

 内藤は首を振りながら目をきりと見開き、低く掠れ声で呟いた。おれは彼のしたり顔を見ると何故だか無性に苛立ってしまい、吸っていたハイライトを灰皿に強く擦り付け、首を捻りながら喫煙室を出たのだった。


 あれは桜が散り散りに散り始める頃の話で、呆けたように口を開けつつ東京の喧騒に埋もれていれば季節は秋口に差し掛かり、徐々に夜風は冷え始めている。

 東京を生きるようになってから半年が過ぎ、おれは確かに、東京者の仏頂面を会得し始めていた。まず、疲れない程度に眉間に皺を寄せる。瞼は上げ切らず、口角はぐったりと下げる。たまにポケットをまさぐったり、鼻の先を掻いたりする仕草を付け足せば、ほぼ完璧と言っても良い。この半年、通勤客を注意深く観察した末に得た、おれなりの東京者の擬態術でもあった。

 そして、今日もおれは東京を生ける者として、街行く人間の誰一人からも怪しまれずに一日を終えるだろう。これは、ある種の誇りでもあった。昼夜問わず途切れることの無い百鬼夜行の中で、おれは誰の和を乱すこともなく、乱されることもなく、誰より秀でることもなく、劣ることもなく、安寧と秩序の中で帰路に就く。ある種の奇跡だとも思う。奇跡がこの半年間、連続して起こっているだけの話だった。

 街灯が切れかかった狛江の住宅街を黙々と歩きながら、小さな交差点のカーブミラーに映る暗がりの中に、おれの顔を見た。東京者の顔は、最早おれの顔そのものでもあった。


 おれが東京に越すにあたり狛江を選んだ理由は幾つかあり、家賃の手頃さはどうだ、会社からの通勤にかかる時間はどうだ、よくある理由はさておくとして、とある誰かのとある曲の

「ワンデーケー狛江のアパートには二羽のインコを飼う」

 という、その曲の根幹にはまったく絡まないようないちフレーズが、おれの中で東京者の象徴として、妙に引っ掛かっていたからだった。

 狛江駅から歩いて十分、このまま歩き続ければ多摩川に突き当たり、県境も近いというところで右に曲がり、やや奥まったところに、おれが住むワンルームアパートはある。本当はあの曲の歌詞よろしくワンデーケーに住みたいところだったが、家賃はじめ諸々の条件がいまひとつ噛み合わずに断念してしまったのだ。

 おれは玄関のドアを開け、狭小な一部屋で全てが完結しているおれの居住空間を眺めながら、果たしておれがワンデーケーに越せる日はいつ来るのだろうかと思う。これが常だった。

 ドアを閉め、周りから物音が聞こえてこないことを確認しつつ、呟いた。

「わんでえけえにすみたいなあ」

 無論返事は無い。もう少し、声の音量を上げてみることにした。

「わんでえけえにすみたいんだよなあ」

 部屋には誰もいない。

「おれの名前はわんでえけえにすみたいマンなんだよなあ!」

 瞬間、おれは喧しい音を立てて履いていた革靴を脱ぎ散らかし、バスケットボールのスリーポイントシュートの成り損ないのような妙なステップを踏んでベッドに真正面から飛び込んだが、飛び込み方が悪かったのか縁に額をしたたかにぶつけてしまい、その痛みにカーペットの上をのた打ち回りつつ、激しく憤った。

「痛いんだよお!」

 ベッドは応えない。

「おまえ、ただのベッドのくせに、痛いんだよお!」

 あまりにも腹を立ててしまったので、おれは床に置かれていたクッションをベッドに向かって力の限り投げつけ、続け様におれも全体重をかけて飛び込んでは、マットレスを拳で殴っていた。

「痛いだろお!」

 ベッドは応えない。

「おまえ、おれの気持ち、分かったなあ!」

 ベッドは応えない。

「そうか、ベッドは生きてないもんね、これは失敬しまし太郎ですね」

 ベッドは応えない。

「失敬しまし太郎、お許しください次郎、何卒お許しくだ三郎」

 何卒お許しくだ三郎。

「何卒お許しくだ三郎!」

 何卒お許しくだ三郎。おれが衝動的に口にした言葉にしてはあまりにもキャッチーかつクリエイティビティに溢れ、つまるところ天才的なフレーズではなかろうか。おれは思わず自分の才能に驚愕し、俄かに荒い息を二、三度吐いた。

「何卒お許しくだ三郎、何卒お許しくだ三郎、何卒お許しくだ三郎」

 おれは反動を付けてベッドから起き上がり、腰を激しく振りながら両手を滅茶苦茶に振り回し、その自然発生的なリズムにただただ身を任せ「何卒お許しくだ三郎のテーマ」を数分間熱唱し続けたが、ある瞬間にふと我に返り、カーペットにへたり込んで、とうとう動けなくなった。

 糸が切れるその時は、いつだろうが唐突に訪れる。


 おれはそれから数分間、カーペットの上をノタノタと這いずる小さな蟻の動きを眺めていたりしたが、やがて結露にまみれたコーラのボトルを引っ掴み、息もつかずに半分程飲むと、今しがたの支離滅裂な高ぶりが、口の中で弾けていく気泡と共にあっけなく消え失せていくのが分かった。

「何卒お許しくだ三郎」

 もう一度呟いてはみたが、何一つとして面白くなかった。コーラを冷蔵庫に入れ、扉を閉めると、いよいよ部屋は静かになった。

 置き時計の針を見ると、九時丁度を指していた。この部屋を出たのが七時と三〇分で、すなわちおれは一三時間と三〇分もの長きにわたって、東京で人に色目を使い、色目を使われながらも、愛想笑いと仏頂面を重ねてきた計算になる。

 おれは確かにそのようにして今日一日を間違えることなく乗り切ったし、そのことに対してはむしろ自尊心すらも抱いていたが、一方で、衝動にもよく似た何かが徐々に積み上がっていく感覚も覚えるのだった。

 これをフラストレーションと、どこかで見慣れた横文字で表現するのは、あまりにも稚拙かつ直球で面白くなかった。高度な文明を生きる人間としての、もう少し高尚かつ根源的な何かだとおれは思っていたが、これを的確に言語として明示し得る頭もまた、おれは一切持ち合わせていなかった。

「ああ」

 おれはこの感覚を、ひとまずこう呼んでいた。

「キチガイだ、キチガイポイントが今日も溜まってたんだ」

 ところで、話は唐突に変わる。

 件の曲の主人公は、何故にインコを二羽も飼っていたのだろうか。ここでおれは、都会を生きる人間は常に乾いていて孤独だから、気休めになれるような話し相手が欲しいのようふふふ――などと紋切り型の話をするつもりは無い。

 これはおれの勝手な目論見だが、主人公も恐らく「キチガイポイント」を持っていて、それを自室のような個人的な空間で発散する時、おれのように一から十までを全て独りで完結するにはあまりにも侘しく寂しくそして気恥ずかしいものだから、共有してくれる都合の良い何かしらを欲するあまり、当てはまったのがたまたまインコだった、という話なのではないだろうか。

 要するにこれは女々しい言い訳のようなもので、終始独りで勝手に狂気にまみれていれば良いものを、インコに話しかけている体にすることで、ほんの僅かばかり恥の感情を紛らわしている、恐らくそうに違いないのだ。

 だから、なにもインコでなくとも良い。犬だろうが猫だろうがぬいぐるみだろうが何でも良い。何にせよ、大変いやらしい人間である。

「おれは強い男だから」

 おれは独り言ちる。部屋には誰もいない。無論インコもいない。

「おれのキチガイはおれで責任を取る」

 おれは強い男なので、衝動の言い訳にインコを飼うなど、するわけがない。

 ただ、仮にインコを飼うとして、おれが部屋で口走った支離滅裂な言葉を覚えて、何の脈絡も無い拍子で声に出してくれたら、それはそれで面白いのだろう。

「クダサブロウ! クダサブロウ!」

 おれの愛インコ、マッキンリー(三歳、オス)は夜毎叫ぶだろう。

「そこだけ覚えちゃったのか」

 おれはそう話しかけては、鳥籠越しに指でマッキンリー(三歳、オス)のトサカを撫でるだろう。するとマッキンリー(三歳、オス)は鬱陶しそうに身を屈め

「イタインダヨオ!」

 と、口走る。

 勿論マッキンリー(三歳、オス)は適当にその言葉を選んだのだろうが、今のくだりと妙に合致しているようなその口ぶりに、おれは思わず笑ってしまうのだった。

「おまえ、ひょっとして意味分かってるのか?」

「イタインダヨオ! クダサブロウ!」

 マッキンリー(三歳、オス)はどうも機嫌がよろしいようだった。

「ワンデーケーニスミタイ! クダサブロウ!」

「住みたいなあ、ワンデーケー」

「ワンデーケー!」

「ワンデーケーなあ」

 おれはマッキンリー(三歳、オス)の、空豆のように艶がった黄緑色の毛先を眺め、明日退勤したらマクドナルドにでも行ってチーズバーガーでも包んでもらおう、それを持ち帰って、バンズの端の方をマッキンリー(三歳、オス)に分け与えたりして、心から幸せな気持ちになろう、と思ったのだった。


 ここまで考えて、更に一五分が過ぎた。ハッとして棚の上に目をやったが、あるはずの鳥籠はそこには無く、やはりマッキンリー(三歳、オス)もいなかった。インコなど飼うわけがないと断言しておきながら、いざ飼った時の妄想にはそれなりの時間を費やしてしまう有様だった。

 おれは、強い男ではないのではないか?

 ふと疑念を抱いたが、これ以上は何も考えないことにし、ひとまず何かを腹に入れることにし、冷蔵庫を開けた。独り身の冷蔵庫には、賞味期限が切れたドレッシングと、いつ炊いたか分からない米をラップで包んだもの、そして歯形が残った食べかけの板チョコ、その他諸々、取るに足らない何かが無造作に散らばっている。

「空っぽの冷蔵庫開けて」

 冷蔵庫の扉を乱暴に閉めると、無造作に貼り付けていたマグネットがバラバラと床に落ち、それを拾おうとして屈むと腰がギシと軋む音がして、俄かに気分が悪くなる。

「いろいろ思い出してると――」

 おれは家を出て、チーズバーガーを買いに行くことにした。

 アパートのエントランスを出るといつの間にか雨が降っており、電灯に照らされた向こうが霞んで見えた。おれは何もかも嫌な心持ちになり、部屋に戻って何も食わずにそのままくたばってしまおうかと考えたが、チンケなニヒリズムを引きずったまま朝を待つのもまた癪なので、黙って傘を持ち出し、外に出た。

 金沢には肌寒さ残る花曇りが似合う、福岡には湿り気さえも焼け尽くす真夏の陽光が似合う――「この街にはこの天気」という謎のレッテルを、おれはいくつかの街に対して抱えているが、では東京に最も似合う天気とは一体何なのだろうか、駅方面への道すがら、漠然と考えた。

 例えばおれが新宿のガード下をくぐる時、渋谷のスクランブル交差点で人混みをかき分ける時、大門で東京タワーを見上げ、市ヶ谷で外濠を見下ろし、その時その時に広がっていた空の色は果たして何だったか、思い出そうとするも、別に雲一つ無い快晴だったわけでもなく、靴が水で浸る程の大雨でもなく、そのうちおれはどうでも良くなり、いかにして服を濡らさずにマクドナルドへ向かえるだけに神経を注ぐことにした。

 東京という街は、おれにとってはあまりにも強大で猥雑でドロドロとした得体の知れない集合体であり、イメージがどうのと安直なレッテルを貼るには、どうにも恐れ多いのかもしれなかった。

 雨は強まり、やたらと強い街灯の奥で、雨粒の足が乳白色に輝いて見えた。おれはそれを見て、かの映画で雨を降らす演出をした際には、フィルムに雨粒をしっかり焼き付けるために牛乳を混ぜ込んだ水をホースで放射していた――という、その昔誰かから聞いた、嘘か真かも分からないような雑学を思い返した。

「牛乳の雨に降られちゃ、嫌だよなあ」

 おれは雨音に隠れるくらいの音量で呟き、水溜りを靴の踵で少しばかり蹴り上げた。ジーン・ケリー扮するドンは、果たして本当に牛乳混じりの雨の中で歌い踊り、傘を振り上げては水溜りの上を飛び跳ねたのだろうか。

 今、おれは彼のようになりたかった。おれも沿道の鉄格子を傘ではじいたり、ショーウィンドウのマネキンに挨拶をしたり、したかった。

「でもダメなんだ、おれは東京を生きてるんだから」

 狛江駅南口のロータリーは思いの外閑散としていたが、それでも電車が駅に着く都度、それなりの人混みがコンコースから吐き出され、それぞれがそれぞれ向かうべき方角へと散っていった。

 おれが今ここで「雨に唄えば」をタガが外れたような大声で歌い、滅茶苦茶に傘を振り回し、水溜りを踏みしめ始めたら、彼らはおれをどんな目で見るだろうか。

 なるべく関わりたくない、と思うだろう。病んでしまっているのか、そうでも無ければただのヤケと見るだろう。だが、おれもこうでありたい、私もああでありたいという思いもまた、どこかの一抹に抱くのではなかろうか。

 おまえら、今に見ていやがれ。おれがおまえらの憧れになってやる。精々、軽蔑したり羨ましがったりするといいさ――

「まあ、いつかね、いつかやってやるから」

 おれは下を向き、誰にも聞こえないように口に出すと何故だか急に疲れてしまい、そそくさと高架下に構えているマクドナルドへと向かった。

 マクドナルドは駅の高架下に造られた「小田急マルシェ」とか言う、気取った横文字が無性に鼻につく商業施設の中にあり、高校生だろうか、小柄な女性の店員が、あどけない笑みをたたえてレジに立っていた。

「あー」

 おれはレジを挟んで彼女の向かいに立ち、レジに置かれていたメニューの中からチーズバーガーを探そうとしたが中々見つからず、人差し指が空を切っているうちに大恥をかいたような気分になり、自分でも驚くほど無機質な声で

「チーズバーガー包んでください、あとポテトもMで」

 と、言った。

「チーズバーガーですね、畏まりました」

 彼女は笑みを一切崩すことなく、繰り返さなくても良い注文をわざわざ繰り返し、ホールを振り返って暗号めいた何かを叫んだ後、しばらくお待ちください、と返した。

 おれがレジ横で待っている間、彼女は律儀にも背筋をしゃんと直に伸ばし、その顔は曇りの一つも無く、聖者のような清々しき笑みに満ちている。

 しかしこの女も、家で独りになった時はどうなるか分かったものではない。家に帰り、自室の扉を閉めるなり、綺麗にセットされた長い黒髪を掻きむしっては

「タピオカの渦の中で死にたい! タピオカの渦の中で死にたい!」

 と金切り声で絶叫したり、たまにわけもなく腰を捻ったり、枕に頭を押し付けたり、床に寝そべってクロールの真似事をしたりするに違いないのだ。

 インコは飼っているだろうか、犬は飼っているだろうか、猫は飼っているだろうか。恐らくぬいぐるみくらいは置いてあるのだろう。

「いや、できれば置いていないでほしい」

 おれはしみじみと思った。

「君は強い女であってほしい、おれが強い男であるように」

 しばらく経つと、彼女は紙袋に包まれたチーズバーガーとポテトを持ち

「お待たせしました、お気をつけてお帰り下さい」

 と、それを丁寧に差し出した。おれはそれを受け取り、彼女に言葉を投げた。

「雨、強いですね」

「えっ」

 彼女は咄嗟に目を瞬かせては大変分かりやすくたじろぎ、ほんの束の間だったが、その顔からついに聖者の笑みが消えた。しかし、すぐに体勢を取り直し、ただ一言

「そっ、そうですね」

 と返したが、おれには、それだけで十分だった。

 マクドナルドを出ると、雨粒はいつの間にか小さくなって霧雨へと変わり、南口のロータリーは靄がかりに包まれ、二子玉川へと向かう路線バスのテールライトだけが、朧に浮かんでは赤く輝いていた。

 おれは傘を差さずに帰路を歩き、部屋に戻ると紙袋からチーズバーガーとポテトを取り出し、ものの数分もしないうちに平らげてしまったのだが、全てが無くなったところでマッキンリー(三歳、オス)に与えるバンズの端の部分を残さなかったことを思い出し

「しまったなあ」

 と、零すのだった。

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