彼女がキリンにしか見えない

北海ハル

彼女がキリンにしか見えない

 彼女はキリンだ。




 いや、別におかしな事を言ったつもりは無い。

 事実を述べたまでだ。

 そりゃ、まあ…生まれてこの方女運に恵まれなく、告白なんてされた事も無かった僕が狂ってしまって、ついにキリンから告白されたなんて妄言を垂れているって言われたらそれまでだ。

 でも違う。

 彼女は、紛うことなきキリンだ。いくら狂っているとしても、人間とキリンを見間違えるなんて事は絶対にないはずだ。

 そう、絶対に。


 ──────────


 告白されたのは高校の校舎裏だった。

 ベタベタなラブコメ展開だが、呼び出した相手がベタベタじゃなかった。

 前述した内容が付き合うにつれてそう見えてきた、とかではない。入学式の時の一年生に紛れて、明らかに人間じゃない別の生物がいたと認識していた。

 初見だ。初見で「あっ、この人(?)キリンだ」って判断した。


 太く逞しい脚、散りばめられた黒い斑点模様に入った、黄色というよりは肌色の表現が合う線、長く伸びた首、ぴょこぴょこと動く耳、そして僕を見下ろす(見下す?)艶やかな瞳。


 さあ、判断してほしい。

 こんな特徴を持った人間がいるだろうか?

 寧ろ僕からしたら「いる」なんて言う人間の方が狂っているとしか思えない。

 しかし恐ろしいのはそれだけではない。

 そのキリンは人語を喋るのだ。それも、とびきり可愛らしい声で。

「あの、颯馬そうま……さん…お返事を聞かせて頂けませんか…?」

 ぺちょっ、と音がする。

 キリンは首が長く、どうしても喋る時は上からになってしまう。当然だ。

 そしてキリンの特徴、動物園なんかで食らったことのある人もいるんじゃないだろうか。

 コイツら、唾を飛ばして来やがるのだ。それも、とびきりくっさい唾を。

 この子もそれに漏れないらしい。心ときめく台詞を唾と共に吐き出されても不快感しか得られない。しかも頭が湿っぽくなって臭い。

 もうこの時点で僕の頭の中は思考を停止させた。


 高2になって早々に校舎裏に女の子に呼び出され

 来てみれば待っていたのはどう見てもキリンで

 めちゃくちゃ可愛い声で喋って

 でも唾はめちゃくちゃ臭くて


 よく漫画なんかでヤンキーが校舎裏に呼び出してカツアゲするシーンは見かける事はあるが、なんならいっそそっちの方が気は楽である。

 それとも新しい手口の一つなのだろうか?

 ヤンキーがキリンをダシに使って相手のメンタルを疲弊させたところを襲う……?

 状況が状況なだけに、発想までぶっ飛び始めてくる。

 もはや返事なんて考える事も出来なかった。


「お願いします……」


 ──────────


 今になって思えば、いくら頭がショートしていたとはいえOKを出したのは意味が分からない。

 毎日毎日校門で首を長くして待つ彼女の下へ行かなければならないのが苦痛だ。

 現状で既に理解が追い付かないというのに、もっと理解出来ないのは周りの反応である。


 普通、キリンと付き合うなんて有り得ない話なのだ。……有り得ない。

 だが僕の友人はもっと有り得なかった。

「颯馬お前、めちゃくちゃ可愛い1年生ゲットしてんじゃん!すげ〜羨まし〜!」

 今すぐ僕と立場を代わってくれ。

「颯馬、遂にやったな!あんな可愛い子が初めての彼女ってめちゃくちゃすげえよ!応援してるぜ!」

 めちゃくちゃすげえのはそこじゃない。

「このまま結婚しちゃったりしてさ。きちんと新しい家、建ててやれよ!」

 サバンナにでも行けと言うのか。


 ご覧の有様である。どうも彼らには「超絶美少女の高校1年生」にしか見えないらしく、〇年に一度とか、そういうレベルの可愛さらしい。

 声だけ聞いてみると、そりゃ可愛らしさしか無い。

 でも塞いでいた目を開けた途端に動物園である。

 もはや狂っているのが周りか僕か分かったもんじゃない。

 当然、対するキリン側の友人もおかしい。


「凛、歳上好きだったんだ〜!優しい人だといいね!」

 そうだな。優しく飼育してあげればいいのかな。

「顔は中の上って感じだけど、凛は初めてならあのくらいが丁度いいかもね〜」

 僕は丁度よくない。ぶっ飛んでいる。

「もし結婚まで考えているならさ、良い家建ててもらいなよ!!」

 何故みんな新居を建てたがる。僕は日本から出たくないぞ。


 とまあ、こんな感じだ。

 会話から察せると思うが、キリンの彼女もれっきとした名前がある。僕が分かっているのは少しだけだ。


 名前は愛向凛あいむきりん。やかましいわ。

 高校1年生の超絶美少女。キリンじゃないか。

 気立てが良く、今時には珍しい大和撫子らしい。大和と言うよりはアフリカだし、撫子でもなんでもない。ただのキリンだ。


 ここまで来るとおかしいのは寧ろ僕なのでは、という結論まで出さねばなるまい。

 彼女がキリンにしか見えない。周りは普通に接している。そんな状況で誰が僕の言葉を信じるだろう?

 もう諦めて全てを受容するしか無いのだろうか?

 そんな悶々とした気持ちを抱えながらも彼女と付き合い出して1ヶ月が過ぎた。

 おかしいのは僕の方だ。そう思って何とか耐え抜いてきた1ヶ月だ。ある種の拷問である。

 毎日帰路では彼女との会話を繰り返し、頭は唾でベトベトになり、時々横断歩道を駆け抜ける時に彼女の脚に踏まれそうになり、待ち行く人からは何の反応もされない始末。

 いっそおかしなものを見る目でも向けてくれと、何度願っただろうか。

 それは彼女への侮辱であると同時に、僕がまともである事の確認でもあった。

 だけどそれは叶わなかった。

 誰も何も気にしない。

 それはつまり、僕だけが狂っているという事が明確になった裏付けである。


「颯馬さん……?楽しくないですか?」

 キリンに声を掛けられるが、もはや反応できるほど僕の心は強く保てていなかった。

 キリンは困っているようだった。だからどうした。キリンに感情があるものか。いや、しかし彼女はキリンではないのかもしれない。やはり、僕だけが狂っている。そうなのだ。きっと、そうだ。

「いや……大丈夫…。凛ちゃんは気にしないで、ほら、食べてよ…」

「そうですか……?それじゃあお先に頂きますね」

 そうだ、この子も、周りも狂っちゃいない。おかしいのは僕だけなんだ。


 たとえこの子が目の前で蹄で正しく箸を持ちながらハンバーグを上品に食べていようと

 校舎に入る時に体を縮めて二足歩行になりながら上履きに履き替えていようと

 体育の授業の時、サッカーで長い脚を利用しながらゴールを何発も決めていようと


 僕だけが、狂っているんだと。そうやって考えて……


「…有り得るわけないだろがあぁぁぁ!!!」

 僕のパスタが宙を舞い、コップは床に落ち、キリンは口からハンバーグを噴き出した。

 キリンは驚いたような表情で僕に言う。

「あ、の…颯馬さん……?」

「もう勘弁してくれよ……!無理だ!納得出来るわけがない!!きみは…凛…いや……違う!」

 朦朧とする。だけどこれだけは、はっきりと伝えなければならない。

「颯馬さん……」

「ごめん凛ちゃん…。僕は…僕にはきみが……どう見ても…」

 全てを言い終える前に、彼女が言った。

「キリンに見える、……ですよね?」

 不意を突かれた。

「え……?」

「分かっていましたよ。颯馬さんが私の事をキリンだと思い込んでいるのは最初から。でも、中々言い出せなくて……」

「ち、ちょっと待ってよ。あの、凛ちゃん…?自分がキリンに見えるって言われてるのに、どういう…?」

 彼女は辛そうな表情を見せながら続けた。

「私…ちょっとおかしいみたいなんです。特定の人にだけ、私の姿がキリンに見えるみたいで。でも、大体一日とかそれくらいで済んじゃいますし、見える人も何万人に一人とか、そんなレベルだったんです。しかも、一度会った事のある人には私がキリンに見える事は絶対にないらしいんですよ」

「な……っ」

「でも颯馬さんの場合は違いました。私と初めて会った時、颯馬さんはずっと首を上に向けていました。その時点で私がキリンに見えている事は分かったのですが、まさか1ヶ月もその状態が続くなんて思いませんでした」

 彼女の瞳が潤み、声も掠れていた。その小さく縮こまってしまった肩を揺らしながら、必死に泣くのを堪えているようだった。

「ごめんなさい…私もお会いした時にお話すればよかったんですが、思い過ごしだといけないと思ってずっと言い出せなくて……。颯馬さんはずっと我慢して、キリンにしか見えない私と付き合って下さって…。自分を疑ってまで私と…ごめんなさい…ごめ……」

 彼女が顔を伏せてしまい、さらりと流れた金髪に隠れる。

 なんて事だろうか。誰も、誰一人として間違っちゃいない。それどころか、自分の勘違いが原因で初めての彼女を泣かせてしまうなんて有り得ない。

 気付けば僕も涙が零れていた。情けなさと申し訳なさが混じってよくわからない感情が溢れ出す。

「僕の方こそ……もっと早くこの事を伝えておけば、こんな蟠りなんて無かったのに…ごめん……ごめん…ッ!!」

 彼女が僕の隣に腰掛ける。その細い身体を僕に寄せて、少し恥ずかしそうに言った。

「これから、少しずつ、少しずつお互いに知っていきましょう。たとえ私がキリンにしか見えなくても、颯馬さんが私を受け入れてくれれば、私はそれだけで幸せです」

 僕は彼女の肩を抱いた。

 無骨な筋肉じゃない。ただ一人のか弱い女の子の肩の感触が、僕の手に残っていた。


 ──────────


 あの一件から半年が過ぎた。

「おはようございます颯馬さん!」

「ああ、おはよう」

 登校時間よりもだいぶ早く、彼女は今日も首を長くして僕の家の前で待っていた。─────もちろん、慣用句的な意味で。

 あれ以来、彼女がキリンに見える事は無くなった。何がきっかけかは分からないが、きっと自分に正直になった事で彼女の本当の姿が見えるようになったのだろう。

 キリン時代の唾の一件も彼女に話した。認識した相手がキリンに対して抱くイメージを再現しているらしく、結局のところ唾も臭いも幻覚症状でしかないそうだ。しかし原因が彼女とはいえ、一時期幻覚に悩まされていたというのは自分の神経も疑わざるをえない。

 まあ、今はそれも無くなったので良しとしよう。

 それよりも、未だに聞けていないことが一つ───────


「そう、言えばさ、凛ちゃん」

「ん、どうしたんですか?」

「いやね、なんで入学して直ぐに、僕に告白してきたの?良い人なら他にいるんじゃないかな、って思って。」

 えぇっ!?と声を上げた。────いちいち仕草が可愛らしい。

「……聞きたいですか?」

 鞄で顔を隠しながら、恥ずかしそうにそう呟く。

「ああ、聞きたいな」

「そうですか……じゃあ、取り敢えず学校まで行きましょう」

「……?うん……」

 何やら含みのある言い方だが、僕には伝わってこない。何を言いたいのだろう。

 歩きながら彼女は言った。

「結局のところ、一目惚れが一番です。確かに颯馬さんよりもかっこいい人はいますけど、何よりキリンに見えていた私を耐えながらも受け入れてくれましたから」

「でも、それって結果論だからね。確かに気が狂いそうだったけど───」

「"依存"……。私が欲しかったのは、それだけです。颯馬さんからのひたむきな愛が、愛だけが欲しかったんです」

 彼女の声が低くなる。

「……ごめんなさい、颯馬さん。私もう一つだけ隠していた事があるんです」

「凛…ちゃん……?」

 じっとりとした汗が背中に湧いた。えも言えぬ恐怖が、僕を包み込む。

 校門が見えてきた。いつもなら生徒指導部が服装検査をしているはずだ。でもそこに見えるのは……。

「私、颯馬さんから一身に愛を貰うために色々考えたんです。私がキリンに見える状況、それを利用出来ないかって。それで私が完全にキリンに見えなくなって半年経ちましたし、その計画は実行される事になりました」


 キリンだ。

 生徒指導部の連中がキリンに変わっている。そう、彼女がキリンに見えていた時と同じだ。だが、違う点が一つだけ────

「確かに私は万に一つの確率で他人からキリンに見られる事があります。それは私自身制御できるものではありません。ですが……私をキリンと認識していた相手に、私以外の一意の人間をキリンとして見せる事が可能なんです」

 再び、あの半年前の感覚が体を襲う。狂っているあの世界が、常識が、戻ってきた。

「さあ…そろそろ登校時間です。みんながキリンに見えるように仕向けました。…颯馬さん、あなたは私と自分以外、全ての人間がキリンに見えるはずです。しかも今度は、。本人らは喋っているつもりでも、あなたは一切認識が出来なくなっているのです」

「繧医♀鬚ッ鬥ャ?√≠繧後?∝∩縺。繧?s縺ィ荳?邱偵↓逋サ譬。縺励※縺溘s縺??」

 形容が出来ない、理解も聞き取りも不可能な声を後ろ、いや上から掛けられる。キリンがこちらを見ながら立っている。親しげに話されるが理解出来ない。

 呼吸が苦しい。狂いそうだ。いや、あの頃狂っていると判断したのは自分だ。ならば、今回も狂っているのは自分か?

「狂っているのは颯馬さんではありませんよ」

 彼女が動揺する僕の横で呟く。まるで母親のような、恐ろしいほど優しい目を向けて。

「狂ったのは世界です。私とあなた以外の全てがキリンになりました。人語を理解でき、尚且つ話せるのは私とあなたの2人だけ。あなたが頼れるのは私だけ。会話が出来るのは私だけ。人間に見えるのは私だけ。この呪いのような幻覚を解けるのは私だけ。……さあ、颯馬さん。私を頼って……全てを私に委ねて、私と共に居てください……。」

 腰が抜けた。貼り付いたような彼女の笑顔は、もはや人間の成せる表情ではなくなった。仮面のように動かない表情を向けられ思わず目を背けるが、いつしか周りにはキリンが集まっていた。

「縺ゥ縺?@縺滂シ溯ェソ蟄先が縺??縺具シ」

「譌ゥ縺乗?。闊弱↓蜈・繧阪≧縺懊?りウシ雋キ縺ァ繝代Φ雋キ縺?◆縺?@」

「縺?▽縺九i縺雁燕閾ェ霄ォ縺後く繝ェ繝ウ縺ォ縺ェ縺」縺ヲ縺?↑縺?→蛻、譁ュ縺励※縺?◆?」

 理解出来ない、したくない、わからない。半年前とは比にならない恐怖と狂気を感じ、僕は思わず屈み込む。

 頼れるのは彼女だけ。人間に見える、彼女だけ。

 今すぐこの気味の悪い言語から解放されるには、彼女について行くしかなかった。

 僕は必死に立ち上がり、彼女の手を取り来た道を引き返す。

「きゃっ!颯馬さん、意外と大胆ですね!」

「うる……さいっ!!」

 息が切れる。でも、逃げないと、今度は本当に、自覚があるうちに狂ってしまう。

 途切れる息の中、僕は声を振り絞って彼女に訊ねた。

「凛…ちゃん……!なんでこんな…事……」

 その言葉に彼女はまた満面の笑みを浮かべた。今度は貼り付いた表情ではなく、人間らしい、無邪気な笑顔だった。でも─────

「さっきも言ったじゃないですか」

 目には今までのような光など無かった。



「一目惚れ、ですよ」

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