第40話 普通が、よかったよ

 予期していた通り、母親も限界に来ていた。父親の介護疲れと、自身の老い。片目の視力をほぼ失ってからは、精神的に辛くなることは容易に想像がついた。

 私自身、会社を辞め、在宅ワークの非正規労働者となって、早2か月。

 自宅で仕事をするのは、私自身の精神衛生上、さらに辛くなることは、自分自身でも分かっていた。見たくない父親とずっと一緒の家に居なくてはならない事。そして母も父の介護に加えて、本人も高齢が故の複数の病魔と闘わなければならなくなった。そして、母も、壊れてきた。

 何かあると、辛く当たられるのは私だ。分かっていた事だ。いづれは、こうなるであろうことを。


「よそ様は結婚して独立して立派だ、お前は守るものがないから自由で良い」

「好きな事だけやっていればいいのだから、お前は楽だ」

「お前のこんな給料や性格じゃ、家庭なんか持てなかったから良かった」


 普通の家庭環境に育っていれば、私自身だって、ここまで精神を病むことは無かったよ。そして、今のような生活ではなかったかもしれない。

 確かに、生活や心身の健康状態が、今より良くなっていたか悪くなっていたか、それは分からないが。

 でも、自分だって、普通に結婚して、普通に家庭を持って、普通の生活とやらを、人間として生まれてきたからには、体験したかったよ。

 今さら、母の罵りに対して、何を言う気もない。ただただ、聞くしかない。実の子供を罵らなければならない程、追い詰められているのだから、受け止めるしかない。私にできる事は、今はもう、それしかないのだ。もう、どうすることもできない。

 親がそこまで言うか、そんな子供を産んだのはあなただよ!という気持ちにもなるが、言い合いをしたら両方が壊れる。売り言葉に買い言葉で、こんなもののけにでも憑かれたような家に生まれたくなかった!生まれてこなければよかった!心の中で呟くこともあるが、生まれてきた以上、これが私に課せられた宿命だったのだろう。

 屋根がある家で、布団に横になれる。これだけでも果報者だと考えないと罰が当たると、思うしかない。今まで生きてこられたのも、間違いなく親のお陰だから。


 でも、敢えて、贅沢をひとつ、言わせてもらえるならば、普通が、多くの人が体験しているであろう、普通が、よかったよ。

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