第39話 生が正か、死が生か

 父の介護をしていた母の具合が悪くなった。加齢(網膜)黄斑変性症。網膜に異常な血管が増殖し、網膜に正常な光が入らなくなって、一気に視力を失ってしまう病気だ。

 アムスラーチャートチェック。通常、人間は両目を使って生活しているため、片目に異常があっても、もう片方の目で補正してしまう。片目ずつ、このアムスラーチャートチェックシートを見て、歪んで見えないかチェックする事が大切だ。

 白内障など、高齢になれば大体の人は発症するが、カメラでいうところのレンズ部分が曇ってしまうじょうたいなので、手術すれば回復する。

 網膜は厄介だ。視神経の部分なので、いくらレンズを良くしても、見える訳ではない。メガネをかけても、どうやっても、視力は回復しない。根治する方法も手術もなく、月に一回程度、眼球注射で現状を維持する状態が精いっぱいの治療だ。

 幸いではあるが、母は今のところ右目のみ発症してしまった。それに伴い、左目も右目の補正に入るので、視力は悪化している。

 田舎暮らし、父の介護、病院やスーパーも、郵便局ですら車を運転しなければ生活ができない。高齢ドライバーだが、母も運転をせざるを得ない。

 最近は母も少し落ち着いたが、最初の頃は流石に取り乱していた。

「私が動けなくなったら、誰が家族の面倒を見るの…」

「もう片方も発症したらどうしよう…」

「どうしても車は乗らなくては…」

 普段気丈に振舞っていたが、やはり母も、自分自身が治らない病気、しかも視力を失っていく恐怖は、尋常ではないだろう。

 私は、これを機に、在宅勤務のアルバイトで生計を立てることにした。もちろん複数かけ持ちだ。日々の父の介護や買い物は、さすがに休むわけにはいかないので、無理のない程度、母にしてもらい、母が眼科で治療を受ける時は、さすがに私が車で隣県の病院まで連れて行くようにしている。

 私自身、そろそろ脊髄小脳変性症を患う年齢。父も、症状はますますひどくなり、脳神経外科、リウマチの整形外科に加え、透析の恐れもあるとの血液検査の結果で内科にも連れていかなければならない。

 脳神経外科は、ただただ、行くだけ。難病で治療方法も確立されない。単に薬を処方されるが、当然、効く薬ではない。内科で透析手前であると言われ、水を1日3リットルは飲むように、と言われた。

 父は、デイサービスなどで他人には、「早く死にたいのに、身体が動かず死ねない身体だ」と、さも死にたいような事を言って、周りから慰められるのが唯一の心の支えなのかもしれないと、最近思ってきた。

 実態は、生への執念は、母や私の比ではない。水を持ってこい!ひたすら飲む。当然、尿漏れパンツは履いているが、一日3回は交換する。尿漏れパンツは、1枚で6回分の尿を吸収する、恐らく一番容量の大きなものを使用しているが、寝る前に交換しても、朝になると、シーツやベッドに大量に尿を漏らし濡らしている。この大容量の尿漏れパンツのキャパシティを超える程、水を飲み、生きたいのだ。

 私が在宅ワークにしたことで、母と話す機会も増えた気がする。お互い、疲れた、もうすぐ天から迎えが来る…、そんな事ばかりを言っているが、いざ父がいなくなったら、それもそれで、日々の生活は楽になるだろうが、張り合いはあるのだろうか?

 「死ね!死ね!」悪態をつく父に対して、毎日のように思っていたが、いざ死なれても困るのは自分達だ。

 かといって、このまま状況が悪化するのを黙って見過ごして困るのも、自分達だ。


 生きていることが正しいのか、死ぬことが正しいのか


 この状況になると、何もかもが不安になる。私は、両親を看取るまでは生きると決めた。それ以上の貯蓄は無い。老後の資金など貯める余裕は無い。

 親には長生きしてもらいたい。反面、自分はその時、細胞に組み込まれた難病遺伝子で動けなくなっていないだろうか?お金は大丈夫だろうか?

 不安は尽きない。

 しかし最近気づいた事は、「何をするにもお金がかかる」お金の不安が一番であったが、この先どうなるのか、コロナ禍で生活も世の中も一変、何も予測できない世の中。昔のセオリーは通用しない。将来の不透明さの恐怖の方が、勝ってきた。

 ネットで調べればだいたいわかるご時世、この先、将来の予測が立たないことが、最も不安であると感じている。


 なにも間違いではない、でも、どれも正解ではない


自分の行為も、他人の行為も、結局間違いでも正解でも無いのだろう。そう考えると、生か死か考えることも、間違いでも正解でもないのだろう。

 そう思う、2022年の1月だった。

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