第10話 踏み出せない一歩

 浮かれた話は、生涯それで最後だった。父が難病である事は、その女性は知っていたが、遺伝性であることは知らないだろうし、私も言わなかった。

 自分の父の介護に加え、もし私自身も動けなくなったら…。本当に好きな人であったら、そんな辛い目に合わせることはできない。尚更の事だ。

 それからは、そんなに深い話はすることは無く、携帯メールなどでは連絡は取り合ってはいたものの、その頻度を、自ら減らした。

 私はその後、中国の内モンゴル自治区に暫く出張となった。私が勤めていた会社の、私の所属部署(新規事業部)を閉鎖し、中国の会社に設備や特許一式売却するとの事だった。

 私はこの時、今までやりたいと思っていた仕事が無くなる事、そして新規事業部が無くなると、私はどこかの部署に転籍となる。その同僚の女性は、派遣社員だったので、派遣切りで終わりであると容易に予想はついた。

 しかし、そこでやはり、私は「難病遺伝子」を持っている可能性が高い事を理由に、中国への技術移管を終え、部署が無くなると同時に、退職した。

 懇意にしてくれた女性には、「ちょっといろいろ問題があって、実家に帰る事にしたんだ…。良い人、見つけなよ。」と言い残して、退職と引越しをした。まさに、踏み出せない一歩だった。


 数年後、その女性はご両親の紹介で再婚をしたと、ご丁寧に連絡をくれた。「葉月も頑張れよ~!」と書いてあったが、複雑な気持ちでしかなかった。

 これで良かったんだ…。そう自分に言い聞かせる事しかできなかった。


 私は、約8年間、一人暮らしをしていたが、実家に帰る事はほとんどなかった。しかし、年に一度くらい帰省すると、トイレの電球は切れている、風呂場の電球は切れている、洗濯機も壊れている…その他、両親は不自由な暮らしをしていたことが分かった。

 「街の電気屋さんでも呼んで直さなきゃ不便でしょうが!」と言ったが、父は定年よりかなり若くして退職しており、退職金は少ない、その時には、両親は60歳を迎えており、本当は65歳まで待ったほうが受給額が上がるので待ちたかったそうだが、日常の生活が立ち行かなくなるため年金を受給していた。

 父は途中から国民年金になったのでたいして貰えない、障害年金も当時身体傷害者3級で申請していたので微々たるもの。母は昔から国民年金。

 私も仕送りはしていたものの、母曰く、「お前の金を使うわけにはいかない」、と、手をつけずに私名義の口座を作って貯金していたらしい。

 こうなると、精神的にきついが、兄妹も居ない私が、実家に戻るほかに手段は無いと思い至る事となった。地元での就職を探し、ちょうどその時、まだITバブルの余韻が残る時代であったので、就職先が見つかった。2007年の事だった。

 父の病状は、確かに悪くなっていた。身体機能に加え、言葉(呂律)も、100歳過ぎのおじいさんのような感じで、聞き取ることは難しかった。

 父への通院は、今までの大学病院主治医(教授)が海外の病院へ移った事、また、脊髄小脳変性症の新薬の進展もなく、大学病院に行く必要が無いと判断し、片道1時間ほどの脳神経内科で薬を処方されるのみとなった。

 私も転職したての職場で、月に何度も休むことが出来なかったので、地元のボランティアさんに病院に連れて行ってもらう事が多くなった。

 いろいろな方のご協力を得て、何とか暮す事が出来る様になったが、父の病状悪化に比例して、父の態度は横柄・横暴になっていった。自分の体が思い通りにならないもどかしさ、苛立ちは理解できるが、ボランティアさんにまで横暴な事を言っていたらしい。

 ボランティアさんからも、「葉月(父)さんのような頑固で意固地な方は、初めてです…」と、明らかに勘弁してほしい、と言う感じであったが、何とかお願いして病院の送迎だけは続けていただいた。

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