第5話 遺伝子検査へのいざない

 私は、当時から3流であった私立大学で学ぶ事にした。成績次第では、学費免除の制度があった。また、なぜこの大学に?と思うような、自動車(内燃機関)の権威である教授がいたのも決め手であった。

 大学に入学してすぐに、私は自動車免許を取得した。父を大学病院に連れて行くためだ。父は「まだ大丈夫だ!」とはいうものの、障害者用の「ロフストランドクラッチ」と呼ばれる杖を両腕に付けて、なんとか前に進むかどうか、という状態だった。そんな人に、車を長時間運転させる訳にはいかない。足も手も、脳も、不自由な状態である。他人様にご迷惑をお掛けしては、目も当てられない。

 そして月に一回、片道3時間かけて、私は父を大学病院に連れて行った。病院の先生(教授)との診察は、自分も同席させてもらって、話を聞いた。脳の障害を確認するのによく使われる、先生の指をタッチして、自分の鼻をタッチする、これの繰り返しだが、普通の人であればなんてこともない事だが、父は出来なくなっていた。手の平をひらひらと回す動作もぎこちない。計算もできない。

 半年くらい、父を大学病院についていった頃であったと思う。大学病院の先生から、息子である私に、遺伝子検査をしてみないか、という要請があった。この病気は難病であり、解決の糸口がない。まして40代くらいに後天的に発現するパターンはあまりメジャーではない様で、はっきり言って、研究したい、という事だろう。

 私は、正直戸惑った。当然即答は出来なかった。第一、難病である。私が難病遺伝子が組み込まれている、という事実があったとしても、治療する術はない訳だ。

 半面、はっきり分かってしまえば、40代までに思いっきり充実した生活をして、体に異常が見られたとしても、動けるうちに自害すれば良いのではないか?とも考えた。当時は、遺伝子検査の技術はあったが、それをフォローする体制は整っていなかった。

 私は、精神的に強くない。万一、その遺伝子が無かったら大万歳だが、その可能性よりも、難病遺伝子が組み込まれている可能性の方が大きいのは分かっていた。

 父に相談しても仕方がない。父は自分自身でいっぱいであり、昭和オヤジだ。好きにすればよい!と言われて終わりだ。母に相談すると、大学に入って間もない今の時期に、遺伝子検査をするのは止めた方が良いと言われた。

 母は私の性格を知っている。陽性反応が出れば、その先明るく生きる事が出来なくなると見抜いていた。ひょっとしたら、その時点で自害してしまうのではないかとの懸念もあったようだ。正直、自分でも、よく分からなかった。

 結局、私は遺伝子検査はお断りした。この先、長い不安な生活が続くことになるが、難病で治療方法がない病気に対して、その事実を突きつけられてしまったら、私は、自我がどうなってしまうか分からない、という事が分かったからだ。

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