第3話 高校時代

 中学を卒業し、私は高校生になった。県立高校であったが、当時は県下有数の進学校であった。私の従兄弟は、筑駒、開成、日比谷…有名高校を出て、東大、一橋、悪くても千葉大薬学部、というような家系だった。

 私の父は4人兄弟の末っ子。あんな頑固で融通の利かない性格だ、兄妹からも煙たがられていたのだろう、父本人は鈍感なので気づいてないのだろうが、親戚で連絡が直ぐに取りあえないような田舎に引っ越しさせられていた。土地を斡旋したのは税理士であった伯父のようだ。

 おかげで駅もなく、バスも数時間に一本しか走っていない辺鄙な場所であった為、通学は苦痛だった。10㎞自転車で最寄り駅まで行き、そこから小一時間電車、高校至近の駅から15分の徒歩でやっと到着だ。

 父よりも、悔しかったのは母だろう。親戚従兄姉が優秀だから、自分の子供(私)だけは、大学にまでは行って欲しいと思ったのだと感じた。

 しかし、私は高校の勉強についていくことが出来なかった。さらには鈍くさい奴だと、イジメにも遭っていた。でも、あまり親にも言えないので、耐えて毎日通学した。赤点連発再テストでやっと卒業できたようなものだ。

 父の病気の進行も進んでいた。運動機能に加えて、呂律が回らない、チック症状のような話し方になった。当時は携帯電話が普及していない時代であったので、連絡網は自宅の電話であった。父が出ると、必ず同級生から、葉月の家はじいちゃんがいるんだな、と言われた。

 悲しかった。

 とても父であるとは言えなかった。父には電話に出ないでくれと頼んだ。でも、言う事を聞く父ではない。無理だった。

 母も更年期障害であったのだろう、とにかくイライラとしていた。私も父の言動、動作、行動、全てがますます嫌になっていた。

 病気が、父の偏屈な性格に拍車をかけたのだろう。思い通りに自分の体が動かない。話すこともままならない。手にも震えやリウマチも併発し、字もろくに書くことができない。それは自分自身が一番悔しかったであろう。

 しかし、その思いを受け止められるキャパシティは、パートや家事で疲弊した母、高校の通学・勉学・イジメに疲れた私には、無かった。父に辛く当たる事もあった。しかし、あのオヤジは倍返しで腹の立つ事を言う。口だけは達者だ。

 口論は日々絶えることは無かった。真剣に、両親の離婚話も進んだ。父は家を売って、自分だけ青森県の施設に入ろうと勝手に話を進めていたのだ。こんな田舎の中古住宅、売れたって、たかが知れているのに。当時父は40代後半。

 焦る気持ちも分かるが、だったら何で家族を持とうと思ったのか?高校生ながら、強い憤りと、自分は絶対に家庭を築かない、と誓った。

 青春を謳歌するべき高校時代、この崩壊した家庭で育ち、難病の父を持った負い目から、恋愛する事もなく、唯々毎日、辛い高校生活と、辛い家での生活を続けていた。自分の部屋に入り、ドアを閉める。そこからが、私の至福の時間だった。

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