第2話 父からの宣言
私が高校受験の頃、父から折り入って話がある、と、部屋に呼ばれた。内容は、父は病気になったという内容で、深い説明は無かった。難病と呼ばれている程の病気であり、父自身も、今後どうなるか、よく理解していなかったのだろう。
当時、父は少し足を引きづるような歩き方ではあったが、普通に二足歩行ができていたので、中学3年生の当時の私としては、「そんなに大変な病気なのかな?」程度にしか思っていなかった。
しかし、高校受験を終え、私が高校に通うようになると、父の病状は急激ではないにしても、確実に、着々と悪くなっていった。父の勤務先からも、再三、何の病気なのか?治療に専念するように休め、もしくは、治るまでは会社に来るな、という上司や同僚の対応だったようだ。
しかし、私の父は、メンタル「だけ」は本当に強かった。その頃、私の高校受験などもあり、父の給料だけでは食べていくことが困難との事で、父はそんな体でも、土日にアルバイトで宅配便の配達員をするようになった。
会社から解雇されるかもしれないので、その間に少しでも、日当の良いアルバイトで働いていたのだと思う。それも1年間くらい続いただろうか、だがやはり、アルバイトは無理になった。
しかし父は、しばらくの間は何を言われようと、本業の会社に行っていた。二足歩行は困難となり、杖を使うようになった。通勤も、自転車が乗れくなったので3輪自転車で通勤するようになった。会社の食堂にも歩いていくことができないので、母の作った弁当を持って行った。
勤務先は、当然当時はバリアフリーになっていなかった。3輪自転車で職場棟の脇まで乗りつけ、1階の職場に異動させてもらったそうだ。
「とりあえず、子供(私)を大学に行かせるまでは働く」。後で聞いたことだが、これが母との約束だったそうだ。
まだこの頃は、父は自動車を乗っていた。父自身の運転で、片道3時間かかる大学病院まで、月に一回通っていたのだ。
運転免許の更新も容易ではなかった事だろう。しかし、当時は自分も運転免許を持っておらず、母も、父の病気が発現してからは、パートに出て毎日働くようになった。
私も片道2時間半ほど通学時間のかかる高校に通っており、また、勉強にもついていくことが出来ず、心身ともに疲労困憊、母もパートや家事などで疲労困憊、父自身も疲労困憊だったであろう。
が、昭和オヤジだ。母と私に対しての口調は厳しい。3人家族の溝が、開いていくのを、少しずつではあるが、確実に感じるようになった。
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