11●疫病神のつぶやき(8)…パンデミック映画あれこれ。なぜ主役がノーマスク?




 にしても“パンデミック宣言”である。

 流行が世界的規模に及んだということである。

 N国国民よ心せよ。

 吾輩はグローバル化したのだ。

 記念すべき西暦2020年3月11日、東日本大震災の9年目の日……

 全世界にあまねく嫌われ者として、吾輩はWHОに認知されたのである。

 もはや“不可視の大怪獣”と形容されるにふさわしい。

 ハリウッドで映画化してほしいくらいである。


 映画化と言えば……


 吾輩みたいな極悪病原体を主人公にしたパンデミック映画の名作が、この惑星の映像史に名を刻んでいる。

 幾つか紹介しておこう。

 一見の価値はあるぞ。

 今や人々は互いに疑心暗鬼である。

 いつ、クラスター友達にされてしまうかわからないのだ。

 “人を見ればウイルスと思え”的に硬直した現代社会を理解するうえで、パンデミック映画の名作は有益なテキストとなるであろう。



●『サタンバグ』(1965公開)

 最強の細菌兵器として密かに開発されていた悪魔の細菌“サタンバグ”が、世界征服をもくろむ何者かに盗まれた。これを追うエージェントの活躍を描く。

 原作は英国の偉大な冒険小説作家アリステア・マクリーンの『悪魔の兵器』。舞台を英国からアメリカ西部に移したのはいいが、なんだかストーリーが西部劇化されてしまい、悪魔の細菌の本質的な恐ろしさを表現するよりも、肉体的フィジカルな奪い合いのアクションばかりが強調されてしまった感がある。

 哀しいが、原作負けした印象は否めない。

 なんといっても、恐怖の細菌兵器を、ぎゅっと握ればパリンと割れそうな三角フラスコに入れ、そのまま平然とポケットに入れて運ぶあたり、見ていて別な意味でハラハラしてしまう。

 防護服を着ろよ防護服を!

 防疫意識がどこかへフッ飛んだ、驚愕のパンデミ・ムービーである。

 しかし笑えるだろうか。

 かのクルーズ船の中では、“清潔ルート”と“不潔ルート”がしれっと合体していたというではないか。21世紀人も、たいして変わらないのである。



●『アンドロメダ…』(1971公開)

 こちらは軍事衛星が宇宙から採取した凶悪細菌と人類の闘いを描く。

 さすが、のちに『ジュラシック・パーク』で一世を風靡するマイクル・クライトンの原作を、かなり忠実に再現しただけあって、未知の細菌を扱う秘密の防疫施設がじつにリアルだ。

 主人公の科学者たちはコンピュータを駆使して、宇宙細菌の正体にせまる。

 その手法は実に理知的で分析的だ。知的サスペンスの傑作といえよう。

 作品のポイントは、危険な細菌が漏れ出た場合の、最終的にして究極の非常消毒手段。

 地下の秘密研究所には、熱核兵器の時限爆弾が同居しているのだ。

 これがクライマックスを盛り上げてくれる。

 惚れた腫れたの人情噺は完全に排除して、細菌の攻略法を絞り出す理知的なアプローチがドラマの主軸をなす。

 解決法は情緒的ではなく、あくまで科学。

 N国国民が直面する新型コロナウイルスの脅威と戦えるのは、精神力でもなく政治でもなく、やはり科学の力なのだと思い至らせてくれるのだ。ビバ、お医者さん!



●『カサンドラ・クロス』(1976公開)

 ジュネーブの国際保健機構…なんて意味深な…に密かに保管されていた軍用ウイルスに感染したテロリストが、国際列車に乗ってしまう。

 次々と罹患する乗客たち、その列車をまるごと強制隔離して、運命の鉄橋カサンドラ・クロスへと疾走させる軍組織。その行先には……

 このウイルス、最初は軽い風邪の症状だが、急速に肺炎を引き起こして死に至らせるあたり、なにやらコロナっぽいところが怖い。

 本作のキモは、病原体の怖さを上回る人間の冷酷さ。

 物語の結末では、大戦中のユダヤ人虐殺がイメージに重なる。

 『大列車作戦』(1965公開)で大活躍したバート・ランカスターが悪役側について、あまりにも非情な展開に引き裂かれてゆく軍人を好演している。作品のテーマは病原体よりも、感染者に対する人間性のありように重きを置いている。

 このテーマは21世紀でも全く古びていない。というのは、千人の乗客を詰め込んで伝染病に侵された列車は、そのままおかを走る“例のクルーズ船”なのだから。

 ヨーロッパを横断する疫病列車は、どこの国にも受け入れてもらえず、ひたすら迷走するのだ……残された行先はただひとつ、地獄である、と。

 罪なき患者集団を武力で列車に監禁する兵士たちは白い防護服に身を包み、黒い防毒マスクで顔を覆っている。その姿は死神そのものだ。けだし名作である。



●『復活の日』(1980公開)

 原作は小松左京先生、なんと1964年の出版である。アイデアの斬新さと壮大なスケールのプロットは、舞台を1980年代に移してもまるで古びない。

 テロリストに盗まれた細菌兵器MM88が正体を隠されたまま人類を殺しまくり、文明を崩壊させるプロセス、そこに核戦争の恐怖がからんで黙示録的な滅びと復活の史劇が展開する。

 主人公に草刈正雄、ヒロインにオリビア・ハッセー。そして当時の国内のみならずハリウッド名優が雁首を揃え、バブリーにしてゴージャスなキャスティングだ。あの人この人の若かりし姿を追うだけでも一見の価値あり。

 問題の細菌兵器は、最初は風邪の症状で、次いで肺を侵すところが新型コロナ似だ。最初の大感染地がイタリアで“イタリア風邪”と呼ばれるのも、21世紀的な不気味さがある。

 ニュースでしばしば「南極を除く五大陸に広がり……」とコメントされる今回の武漢発パンデミックだが、この“南極”がストーリーのカギとなっている。

 人類にとって最果ての地である南極が、生き残った者たちの復活の地となるのだ。


 さて吾輩の、もうひとつの注目点は……

 大戦中に建造された米海軍のバラオ級潜水艦“スポット”が1961年に改装を施され、翌年より“シンプソン”と改名してチリ国に貸与された。1975年にチリへ正式に売却。この潜水艦が米国の原子力潜水艦ネレイド号の役で登場している。

 司令塔セイルだけは近代化されたデザインになっているが、船体は大戦時の舟型そのままで、もちろんディーゼル推進、後甲板には骨董品級の五インチ砲みたいな砲熕兵器ほうこうへいきを飾っているあたり、すっげーポンコツ……なロートルぶりがもう痛々しいほどで……じつに嬉しい!! これ、歴史的に貴重な映像じゃないかな? 

 これ好きだぞ、安っぽいCGで誤魔化すよりは、断然好きだぞ! いいんだよポンコツで。潔い枯れっぷりは潜水艦の盆栽だなこりゃ。年季の入った老優の、いぶし銀の演技を見るかのようで、吾輩は大好きなのだ。



●『アウトブレイク』(1995公開)

 1960年代にアフリカの某地で出現した出血性の奇病、その病原体が進化して、90年代の米国を襲う。軍の防疫部隊に所属するベテラン医師は、上層部の消極的な対応に奇妙な不信感を抱きつつ、命令に反して現地へ乗り込むのだが……

 パンデミック映画の中では、最もエンタテイメント性が高い、スリリングな娯楽作品に仕上がった傑作。次々と事件が起こり、背後でつながっていくノンストップ・ムービー。

 主人公のダスティン・ホフマン氏が見た目に似合わず大活躍で、ヘリを縦横に使ってスクリーン狭しとアクションを繰り広げてくれる。格闘技こそ繰り出さないが、そのアクティブなこと、まるでジャッキー・チェンだ。

 『戦略大作戦』(1970年公開)ではヒッピーな戦車隊長を爆演したドナルド・サザーランドが悪役上司役で、ホント嫌われ者のイヤな奴を怪演している。老いてもなお妖しい輝きを増す、たいした役者さんである。

 恐怖の病原体もリアルに描かれており、軍隊ならではの医療設備や、感染源となった街を封鎖するノウハウの緊張感など、見事と言うほかないだろう。

 後半はとんとん拍子に問題が解決していくので、血清の入手から合成に至る展開がご都合主義に感じられる点もあるが、そこはそれ、ハリウッド映画だからね。

 何よりも軍隊の内側の視点で事件を描く手法が興味深い。

 軍隊からみて防疫は戦争の一部であり、戦争であればこそ犠牲者はつきものであり、その犠牲を踏み台にして出世しようとする軍人もいることが浮かび上がってくる。パンデミックは戦略的に利用されるのだ。病原体も怖いが、犠牲者ありきで当然とする“軍隊の偉い人”も同等以上に怖いのである。


 吾輩のもう一つの注目点は……

 病魔に襲われた地域の究極の“消毒方法”として、『アンドロメダ…』(1970公開)は核兵器を用意したが、こちらでは核兵器に次ぐ破壊力を誇る巨大爆弾“デイジーカッター”にそつくりな爆弾が登場する。直径二キロメートルほどを一瞬で焼き尽くす残虐な兵器だが、まさにこの用途に使うために生まれて来たかのような無慈悲さに、戦慄させられる。そうなのだ、悪徳軍人が絡むと、結局、“消毒の一環”として大量破壊兵器を使いたがるのだ。

 恐るべき教訓である。



●『感染列島』(2009公開)

 インフルエンザに似た症状に始まり、やがて内臓を破壊して眼窩から出血する殺人的な難病が、突如、日本を襲う。当初は鳥インフルエンザの変種と思われていたが、主人公の若き医師たちは医療崩壊する凄惨な現場の中で、少しずつ真実にたどり着いてゆく……

 日本国内の医療現場を扱っているだけに、リアル感は半端ない。“軽症者は自宅へ帰れ”という方針が実行され、酸素吸入器が不足するあまり、恐怖のトリアージともいうべき非情な患者選別を強いられる病室など、十一年後の今に重なるデジャブ感が壮絶だ。

 一歩間違えば、2020年の今もそうなりかねない……と思わせる説得力が凄い。いや、中国で、イタリアで、まさに今、現実となっている光景ではないか?

 そう簡単に特効薬や血清が開発できるはずもなく、最後は個々の人間の免疫力で闘うしかないところに、医療のどうしようもない限界があり、その壁が主人公たちの前途に立ちはだかる。医者のありようを問いかけるヒューマン・ドラマとして、イチオシの傑作だ。

 この作品が公開された数か月後には新型インフルエンザが大流行し、WHOのパンデミック宣言が出されるに至った。



 このほか、●『コンテイジョン』(2011公開)という作品がある。

 残念ながら吾輩は未見だが、2009年の新型インフルのパンデミック直後の作品であり、リアリティは十分だろう。

 日本国内を中心に描いた感のある『感染列島』に対して、世界的な感染爆発を扱い、未知の病原体の感染ルートの解明が大きなポイントになっているという。





●主役はマスク不要?

 

 にしても、気になる点がある。

 どの映画を観ても、主役級のヒーローやヒロインが、いかにも危なそうな場面で、マスクやゴーグル、あるいは防護服を着けていないのだ。

 ベッドで血へどを吐いて痙攣する断末魔感染中の患者さんを前に、マスク無しの素顔をさらして心臓マッサージ、必死の介抱、そして耳を寄せて遺言を聞き取るなど……

 おいおい危ない、濃厚も濃厚、ズブズブベタベタの濃厚接触じゃないか?

 もう、次なる犠牲者に自分を差し出しているかのようである。自殺行為だ。


 そういった疑問はネットの中にも散見される。


 まあしかし、考えてみれば無理もない。映画だもんね。

 真面目にきちんとマスクとゴーグルをしたら、大事な場面のほとんどで俳優さんの顔が隠れてしまう。

 顔を出せないと、悲劇的な修羅場のシーンで、感情表現に多大な支障が出る。

 ベッドを並べ、集団で治療する場面は定番だが、そこで全員がマスクとゴーグルだと、どれが誰だかさっぱりわからない。主役を探すだけでも面倒だ。

 これでは、せっかく有名なスターさんに出張っていただく意味がない。

 仮面〇イダーが最初から最後まで変身したまま、仮面を着けっぱなしで通すようなもので、全編スタントさんでドラマが完結してしまう。

 それではまずいので、ここは演出上の“オトナの事情”で、“例外的に主役の顔を見せますよ。でなきゃドラマになりませんから。わかってネ”ということだろう。

 そのあたりの事情を忖度して、善良なる観客の吾輩は、“この場面は、透明なマスクと透明なゴーグルをつけておられるのだ”と解釈して、イメージを脳内補完することにしておる。


 SFでも、この種の論争を巻き起こしたトンデモな有名作がある。

 『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997公開)。

 かのハインラインの『宇宙の戦士』を原作に仰ぎ、侵略者の極悪宇宙生物を虐殺、もとい駆除する物語だが、原作の最大のウリは、戦う宇宙兵士が着用する“パワードスーツ”。

 等身大より二回りほど大きい程度の、いわば“ミニ〇ンダム”な外観の、宇宙服タイプの動力甲冑といったところだが、ハヤカワ文庫で邦訳されたときのイラストが抜群に秀逸で、ファンを興奮させたものである。

 すなわち、巨大ロボットのコクピットでギコギコと操縦するのではなく、戦場での実用性を重視した、“兵士”のスペックを可能な限りエキスパンドする発想の勝利である。要するに、“あくまで肉体の延長としての装甲”なのだ。

 これが実写映画化されると聞いて、喜んだこと。

 そして映像を拝見して、ブッ飛んだこと。

 何じゃこれは?

 だれひとりパワードスーツを着ていない。ベトナムの時代と大差ない、前時代の海兵隊である。

 総員生身そういんなまみであったのだ。

 (裸ではない。もしも裸だったら別な意味で傑作となったことだろう)

 そのときはSF映画に黒歴史を刻むトンデモ・ムービーだと、呆気にとられたものだが……

 考えてみれば、無理もない。

 兵士が全員パワードスーツを着用したら、どれが誰だかわからんのだ。

 みんな同じロボット顔であり、只今激戦中! の見せ場のシーンで、感情表現もなにも、あったものではない。

 大量のゴキブリと大量のガ〇ダム型ゴム消し人形が集団相撲を取っているだけ……にしか見えなくなってしまうのだ。

 なるほどなあ……

 それから吾輩はこの作品を観るたびに、“実は全員が透明な最新式ステルスパワードスーツを着て戦っているのだ”と脳内補完することにしている。


 “オトナの事情”は他にもあったようで、やはり、顔を出さなきゃ“出演”にならないと、俳優さんたちと制作サイドの契約に絡む要素があったと推察される。


 ということで、パンデミック映画の数々に観られる、“おいおいマスクとゴーグルつけてないぜ!”の驚愕シーンは、“最新式のステルスマスクとステルスゴーグル”で納得することにしていたのだが……


 それも、この2020年3月14日あたりまでのことである。

 吾輩はここで、認識を新たにした。

 NHKのニュースで“K大病院では、これまで職員一人に一日で一枚のマスクを支給していたが、それが一週間に一枚に減らされたらしい”と聞いたのである。

 げげっ!

 そこまでマスク不足かよ!

 これは由々しき事態である。

 旧帝大の由緒ある大病院ですらマスクが足りんとは!


 たちまち吾輩の脳内で、パンデミック映画の“マスク無しオッケー?”のシーンの意味合いが変質した。


 映画の中でも、“マスク不足”だったのだ!


 そう解釈できよう。

 演出上の意図と言うよりも、洒落抜きでリアルにマスクを使い果たした事態だったのだ。

 これは怖い。

 今まさに現実の“マスク不足”は、映画の中で“マスクなしの治療を強いられる”主役たちの修羅場が、明日にも現実になるかもしれないという、恐怖の蓋然性を暗示しているのだ。


 これから吾輩は、パンデミック映画を観るたび、納得するであろう。

 これは、2020年のマスク不足を予言しているのだ……と。


 それにしても、“マスク不足で医療崩壊”という恐怖のシチュエーションが、現実になるかならぬか、吾輩はそこそこ真剣に案じておる。

 N国国民よ心せよ。

 “自分は大丈夫だ、ちゃんと健康保険に入っていて、まともな治療を受けられる”などと能天気に平和ボケしていると、痛い目に遭うぞ。

 なんとなれば、昨年から流行りの“上級国民”という概念である。

 この概念が現実のものであれば、どうなるのか。

 “上級国民”と“非上級国民”の違いは、三つの社会的要素に歴然と現れる。

 “司法・教育・医療”の格差である。

 言わずと知れたことであろう。

 すでに、全国民への“第一段階のトリアージ”が済んでいるかもしれないことを。


  “限られた医療資源”という、耳タコな慣用句がある。

 限られているからこそ、その医療資源が使われる対象も、限られることになる。

 マスクやゴーグルですら行き渡らなくなったとしたら……

 貴重なマスクとゴーグルを使って“まともな治療”を受けられる限られた機会を与えられる国民と、そうでない国民が、既に選別されているかもしれない。


 もちろん、これはいわゆるディストピアSFの話である。

 現実になるとは思っていない、いや、思いたくない。

 このたびの“コロナクライシス”が、そうならずに済むことを、吾輩は心から祈っておるぞ……


          ……もう何だか、オリンピックどころじゃネエよな……





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