ヤタガラス

苅北万里

キックオフ

 ワールドカップが開幕した時、俺は麻酔をかけられていた。インカレ前の練習試合に途中出場して、相手DFと接触し、第五中足骨の骨折。手術をしてもリハビリを含め、競技復帰には二、三ヶ月はかかると医者は言った。インカレ出場は絶望的だった。


 目を覚ますと看護師が側に立っていた。

「手術は無事に成功しましたよ、よかったですね望月さん」

 視線を下に向け自分の足を見るが、どういう状態か包帯でよく分からなかった。鈍い痛みだけが残っているだけだ。この手術が成功したところで、俺の現状は何も変わらない。

 返答を返さない俺に対して、空気を察してくれたのか、看護師はそれ以上何も言わずに作業を済ませた後、病室から出て行った。

 窓の外には穏やかな空があった。気を紛らわそうとゆっくりと上半身を起こし、松葉杖を手に取る。すっかり慣れてしまった杖運びで窓辺に移るのに大した苦労はなかった。

 窓を開けると冷ややかな風が首元から身体に入り込んでくる。窓枠に手をかけ、顔を出すと太陽が眩しい。

 今頃、あいつらは講義を受けている頃だろう。もしくはサボって自主練か。病室の俺には確認のしようがない。

「望月センパーイ! ここー!」

 その声は下から聞こえた。見下ろすと駐車場。

 マネージャーの中井が手を大きく振っていた。


「よっす! お見舞いに来ましたー。部屋の中はやっぱ暖かいですね」

 中井は椅子に座り、手袋を外して、俺の足元に置いた。

「お前、講義は?」

「もちろんサボりですよー。一生に一回のセンパイの手術と十五回の講義ですから、比べるまでもないですよ」

「高校でもお前同じこと言ってたぞ」

「え? 言ってましたっけ?」

 中井はとぼけ顔で言う。

「一生に一回のライブと六回のテスト。それで留年しそうになってたろ」

「そうでした! でも、裏を返せばあたしってまったくブレない女子ってことじゃないですか? ボールはブレても、人はブレない方が良いですし」

 謎理論を語る中井は誇らしげだ。こいつが大学を一般入試で通ったのは奇跡にしか思えない。

 中井が唐突に手を叩く。

「そういえばワールドカップ開幕しましたね、日本は第二戦だからそろそろじゃないですか?」

「相手どこ?」

「イッタリアーですよ! もしかしたら高橋先輩が出るんじゃないかってテレビで言ってましたよ。北高の星ですよねー」

 中井は俺に許可なくテレビをつける。日本代表の練習が中継されている。まだ試合は始まってないようだ。

「あっ、高橋先輩が映ってますよ」

 選手の中で一際に細い身体なので、高橋はすぐに見つかった。名だたる顔ぶれの中、動きは軽やかに見える。難しいボレーまで楽に決め、準備満タンといった感じだ。

「三年前まで一緒にやってたとか信じられないな」

「なに言ってんですか! 北高のツートップの片割れがそんなんじゃ高橋先輩に怒られますよ」

 高校時代は俺と高橋でチームを引っ張っていた。チームの得点王を争い、勝ったのは俺だ。でも、格上との対戦ではいつも高橋が決めていた。

「ワールドカップが終わったら、連絡とって飲み会でもやりましょうよ」

「多分無理、冬には海外移籍で俺たちなんか構ってられないだろ」

「そうですかね? そんなことないと思いますけど」

 中井は不思議そうにするが、俺には分かる。俺たちと高橋はもう違うフィールドにいるんだ。その間にはラインがあってパスを出すのはルール違反だ。

 テレビは中継からスタジオに切り替わった。練習は終わったらしい。

「いつか二人がまた揃うこと、楽しみにしてますからね」

 中井は笑顔で俺を見つめる。

 俺が気の利いた返しが浮かばずに黙っていると、中井はさっきまでの顔から一転、真剣な眼差しで俺を見てくる。

「あの、それで手術の方はどうでした?」

「まぁ、一応成功」

「……ん、良かったです、ほんと」

 中井は俺の足を見る。何も分からないのに随分と熱心に。

「ご家族には?」

「まだ二人とも仕事だから、終わったら来る」

「そうですか、これで一安心ですね。あとはリハビリして、復帰して練習漬けの日々が待ってますよ」

 安堵の息を吐く中井。その姿が俺には無神経に映った。

「……安心じゃねぇよ」

「え?」

「お前にも分かってんだろ。俺の立場」

 あの試合で俺は結果を出さなければいけなかった。三年生になっても途中出場の毎日。点を取らなければ俺を使う理由はない。下級生を出して将来に投資した方が建設的だ。

「俺は終わったんだよ。これから頑張ったところでスカウトは来ないし、誰も俺を見やしない。将来性はゼロ、潮時ってやつだよ」

 中井は口を開かない。ただ俺の目を見つめている。真っ直ぐとまるで俺を責め立てるように。

「……怪我が治ったら退部する」

 なんとか言い切った後、俺は気まずくなって目を逸らし、テレビに逃げた。丁度、高橋がセンターサークルでボールに足を乗せていた。

 静かな病室にキックオフの笛が響いた。

 高橋はボールを後ろに預け、前へ走り出す。あの頃より速く。屈強なDFに押されても、倒されず前へ前へ。

 俺にはその姿が眩しかった。太陽なんかよりも遥かに。

「あたし、思うんです」

 中井が切り出す。

「高橋先輩と望月センパイのどっちが凄いかって百人に聞いたら、きっと九十九人は同じ答えです」

 普通に考えて高橋に決まってる。きっと中井の言いたいことはそうじゃない。

「残りの一人はお前か?」

 俺なりの答えを出したが、中井が首を横に振る。

「あなた自身ですよ、センパイ」

 中井がふざけている様子はない。

「高橋先輩の代でまだサッカーを続けてる人が何人か知ってますか?」

「結構いるだろ、青木に酒井に田口。あと佐々木も、あとは俺か」

「その中でプロを目指している人は?」

「……俺だけだ」

「そうです、センパイだけです」

「だから何だよ?」

「普通の人は高橋先輩を見て凄いと思うんです。そして、諦めるんです。比較をして苦しみたくないから、どんなに頑張っても届かないっていうのは辛いですもんね。でも、センパイは諦めなかった」

 俺はそんなことないと言おうとして、やめた。そう主張する根拠がなかった。

 中井は続ける。

「今、センパイが苦しんでいるのは高橋先輩と自分を比べているからです。大学入ってなかなか上手くいかない日々に辛くなってると思います。でも、それを理由に諦めるのは昔のセンパイも許さないはずです」

 歓声がテレビから上がった。高橋がゴールを決めたことを実況が騒がしく伝えている。

「あとセンパイは視野が狭いです」

「何だよ、今さらプレーの文句言われても」

「違います。さっきの間違った発言についてですよ」

 中井は拗ねたように俺から顔を逸らして言った。

「私がずっと見てます」

 笛が鳴った。俺たちは何かを誤魔化すかのようにテレビに集中した。


「そうだ。お見舞いの品、渡し忘れてました!」

 試合が終わった直後、中井は明るく言った。

 中井はポケットに手をやり、なにかを取り出し、そのまま俺の足付近をいじり始めた。

「なにやってんだ?」

「おっけーです。できました」

 中井が手を退けると包帯の上に片羽を広げた黒い鳥がいた。

「日本代表のカラスか」

「ヤタガラスですよ、センパイ」

 どっちでもいいだろと内心は思ったが、口には出さなかった。

「きっとセンパイを守ってくれますよ」

 そう言い残して中井は帰っていった。部活の時間が迫っていたんだろう。

 中井が去った後、テレビの音が残った。高橋がインタビューを受けている。ゴールの感想や次の対戦相手への言葉などひとしきり話終えた後、最後にこう言った。

「絶対優勝します」

 やっぱり眩しくて、果てしなく遠い。俺が止まってる間も進んでるんだ。

 テレビを消すと病室は静けさを取り戻した。

 結局、中井は俺の気持ちを聞いていかなかったな。多分、分かってるんだろうな。

 再び自分の足をみる。

 窓からの光がオレンジに包帯を染め上げる。その中から浮き出るヤタガラスのバッジ。

 どんなに眩しい輝きの中でも、その黒は俺を導いてくれる気がした。

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