「翁っ!」



 いつの間にか芝の上に横たわっていた老翁の身体は、後から来ると別れた男に支えられている。傍には倒れた水桶と花が散らばっていた。よほど慌てたらしく、小刻みに男の身体が震えている。



「大丈夫ですか!? 調子が悪くなってお倒れになったとかではありませんか!?」

「……大丈夫だ。心配せずとも、追い返された」

「え? 追い返された?」



 ハハッと自嘲気味に力なく笑う老翁。

 老翁の言っている意味が伝わらない男は、なおも心配そうに老翁の様子を窺っている。その男の顔も確かに幾筋かの涙に濡れていた。



「……その涙を何とかしろ。見られているぞ」

「え? 見られているって、まさか」



 男は卒塔婆の方へ視線をやると、しばらく呆けていた。かと思えば、服の袖でぐいぐいと力強く拭って見せた。



「僕は泣いていません。泣いていませんから」

「もう遅い」



 老翁は男が持ってきた花を手に取ると、卒塔婆の前に置いた。手を合わせ、しばらく目を瞑る。背後で男も老翁と同じように手を合わせるのが分かった。


 目を開けると、丁度風が吹いて桜の枝が揺れる。それはまるで、またしばしの別れを彼らが言外に知らせてきたかのように老翁には思えた。



「翁、何かございましたか?」



 男が騒いでいた声を聞きつけたのか、何人かが続々とこの場に集まってくる。



「……なんでもない。そろそろ戻る」

「はい」



 老翁が歩き出すのに合わせて、皆もその場から踵を返した。






 老翁が生を全うするまで、一年半あまり。

 その最期の言葉は、ただ一言。



「少しは待っていたと言えんものか」



 その口元は笑みに彩られていた。



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忍びの者は誰がため彼がためと誓う 綾織 茅 @cerisier

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