中
『……い。先生』
懐かしい呼び方で名を呼ばう、もう生身で聞くことがないその声音。記憶の中でようやく聞くことが叶っていたその声は、老翁の意識を揺れ動かした。
ぼんやりと目に映る声の主達。だんだんはっきりしてきた人影は、卒塔婆や石塔の主達の姿であった。
「……なんだ、お前達。相変わらず一緒にいるのか」
最初に老翁の口を苦笑交じりについて出たのは、そんな言葉だった。
学び舎で忍びの術を学ぶ雛は本来、それぞれの代ごとに三つに組分けがされていた。しかし、彼らはそんな組分けなどないものであるかのように
時が経った今でもそれを違えることのない彼らだからこそ、どうして苦笑を漏らさずにいられようか。
『こちらに来るにはまだ早いのを追い返すために、全員で川の
『最初の頃は良かったんですが、皆、鍛錬を積んだようで』
『だいぶ見送ってしまいました』
矢継ぎ早に口を開く己の教え子達は、その生を終えた年の姿をとっている。
積極的に口を開く者、傍に寄ってきては胡坐を組んで座る者、一歩下がった所で緩く笑みを浮かべて立っている者、木の幹に腰かけてこちらを見下ろしてくる者。様々な者がいるが、十七人全員が揃っていることだけは確かだった。
『もう踏んだり蹴ったりだったんですよぉ。先輩には長時間お説教を食らったあげく、結局自分だけ満足してさっさと川を渡って行かれるしでー。まぁ、その分くそ生意気な後輩達には僕特製の超強力な気付け薬をかがせてやったんですけどねぇ。フフッ、フフフッ。目覚めてからしばらくは身体が眠りを欲しても頭が眠りを許さない仕様になってるんですよぉー』
『止めました。俺らはそれ、止めたんです。
『ど、どこからそんな材料を手に入れてくるのかと不思議に思うんですが、秘密だと教えてくれないんです。だから第二、第三と被害者ばかり増えてしまって……す、すみません、すみません』
あの頃と何ら変わらない一人一人の話し方の
「次代を継ぐ子供達、
やっとのことで口を開いた老翁は、
「俺にとっては、お前達より上の代の俺らにとっては、お前達だって大事な後輩だったし、雛だった。護るべき奴らだったんだぞ」
「それを勝手に考えて行動して、勝手に生き急ぎやがって」
「そして、死んだ後も後から来るもんの心配か。馬鹿野郎共が」
俺が、俺の教え方がいけなかったのか、と、呟く声は恐ろしいほどか細い。
長く艶やかな黒髪を高く結わえた青年が老翁の肩にそっと手を置く。
瞬き一つで、彼らは老翁の教え子であった最初の年である齢八つばかりの少年の姿になっていた。丁度夢で見た年の頃だ。そして、老翁の姿も彼らを教えていた頃の年に若返っている。木の上など離れていた子らも駆け寄ってきて、老翁の周りを取り囲んだ。
『先生。俺達は先生の教え子だったからこそあの子達を護れたんです。今も護れているんです』
『何かいけないことがあったとするならば、そういう時代だったということです。同じ国の人間同士で蹴落とし蹴落とされ合う。そういう時代です。今もまだ』
『でも、いつになるかは分からないけれど、平和になる世は来てくれる。少なくとも、子供達が自分の命を守るために、相手の命を
『その時のために、僕らは今でも頑張るんです』
『それに』
老翁の担当だった子らの中でも先頭に立っていた子が一度言葉を切り、皆の顔を見渡した。皆もその言葉の先を知っているかのように笑みを浮かべ頷いている。
『それに、この時代に生まれて育って、悪いことだけでもありませんでしたよ。ここにいる誰一人、自分の人生が酷いものだったとは思っていません。数えきれない程の教えを授けてくれる先生方に出会い、追いかけるべき背を示してくれた先輩方に出会い、何があっても背を預けられる友人達に出会い、護るべき可愛い後輩達に出会えた。これを幸せと呼ばず、何を幸せと呼ぶのでしょうか?』
『身勝手な奴らばかりで申し訳ございません。でも、こういう時代だからこそ、皆との出会いや絆を何物にも代えがたい貴重なものだと思う心を持つことができました。だから、その土台を作ってくれた八咫烏と次代を担う子供達――雛達は僕達が必ず護りたかった』
『先生。俺は、俺達は、俺達自身の意思であの未来を選んだんです』
その言葉に、老翁はハッと顔を上げた。
『あの時、因縁のある大名同士、長年膠着状態になっていた。そして、
『私達が学び舎に戻る理由となったのも、また別の大名が妙な気を起こし、学び舎を襲撃したがため。なので、今度は私達が先に行動に移したのです。その大名からの
『後は先生の方がご存知でしょう。
『たとえ、学び舎を襲撃するという罪を犯した裏切者という
『先生。決して
『いずれ同じことを考える
長い間ずっと答えがでなかったことに、ようやく彼ら自身の口から答えをもらえた。
いつの間にか、すでに皆の姿はここで最初に見た姿に戻っていた。そして老翁の姿もしかり。
言いようのない胸騒ぎを覚えて手を伸ばすと、後ろにいた者から順番に消えていく。待て、待ってくれという老翁の言葉もむなしく、笑みを絶やすことなく消えてゆく姿を見送るしかない。最後に残ったのは、十七人の中でも特に担当を受け持っていた五人だった。
『先生。あの子が呼んでいます』
「あの子?」
足元から徐々に消えていく彼らの姿と入れ替わりのように、必死に老翁を呼ぶ声が頭に響いてくる。
『よく成長したようで、僕も安心しました。さすが、僕らが一年受け持っただけある』
『なんだなんだ? アイツ、まだ泣き虫は治ってないのか』
『んー。まぁ、今は仕方ないよね。というわけで、先生。いつまでもここにいないで戻ってあげてください』
「戻る? どこへ?」
『言ったでしょう? 来るにはまだ早いのを追い返すために全員でここにいるんだって』
『貴方はまだこちらに来ていい人ではない。病なんぞに負けないでください』
『……身体を大事に。無理をせず』
消えていく姿は次々と背を向ける。
『先生。今度は本当に会うべき時に』
『お待ちはしませんので、ごゆっくりどうぞ』
「待てっ! もう少し、もう少しだけっ!」
伸ばした手は、宙をかいた。
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