忍びの者は誰がため彼がためと誓う

綾織 茅





 大名同士が覇権を争い、戦を数多引き起こすようになってからはや幾年。

 戦場に、戦場以外に流れた血の量はもはや一国に流れる川の水量にも匹敵するやもしれない。血で血を洗い流すことに、人として大切な何かを失いかけることもある。朝に挨拶を交わした者が、昼、夕には物言わぬしかばねとなって、野にさらされるのを見ているだけしかない日々も珍しくはない。


 本当に、本当に人の命がもろはかないこの時代。


 そうやって人の営みは日々どうしようもなく変わりゆくのに、季節ばかりは何事もなかったかのように変わらずに同じだけ巡ってくる。


 大名達とは対極の立場にある皇家に仕える忍び集団である“八咫烏やたがらす”の里にも、例年に比べ遅ればせながら春が訪れた。


 里の北側にある小高い山のいただきには、不落の山城を模した建物が次代の八咫烏をになう“ひな”達のために建てられている。ここは彼らが忍びの技術を学ぶ学び舎で、八つの年から六年間、十三で元服を迎えるまで仲間と寝食を共にする場。ここで六年間を終え、さらに二年間実地を積んで初めて一人前の忍びと認められ、様々な任務を任されることになる。

 そしてここは、誰が言わずとも、彼らが護られるだけの存在であれる最後の場所でもあった。


 その学び舎の一角に、こじんまりとしたいおりが併設されている。代々の八咫烏の長が住む庵の今の主は、六十も半ばを迎えた老翁で、若い頃は黒々としていた髪も白いものが目立つようになってきていた。


 寝ていた布団から身体を半分起こした老翁は、広げた掌をじっと見つめる。昔はたこが潰れたせいで固く張りがあった掌も、今は皺だらけで骨に皮が纏わりついているだけのようになってしまった。

 それから、寝ている間に誰かがやってきて、空気の入れ替えのために開けていったのであろう障子の向こうに広がる庭に目をやる。


 竹垣の向こうからは、雛達の野外実習中の声が響いてくる。その元気な声に混じって、どこからかうぐいすの鳴く声が聞こえてきた。この辺りは目隠し用に低木も植えられているため、どこかの枝で羽休めでもしているのだろう。



(……そうか。もう春なのか)



 厳しい冬を越して暖かくなってきたからなのか、今日は随分と調子がいい。

 随分と長い間、体調が思わしくなく寝込みがちになっていた老翁だったが、これならばと久しぶりに布団の下から抜け出してみた。


 そういえば、今朝起きる前に懐かしい夢を見ていた気がする。

 ……いや、夢というか、記憶に残る一部だろうか。


 あれはそう。三、四十年も前になる。今日のような春の夜。まだ老翁が八咫烏の長となる前、学び舎の教師だった頃のことだ。鍛錬が厳しく、夜になれば布団の中でこっそりと泣く子供達。頭を撫でたり布団の上から拍子をとってあやしたりしていた。

 普段は生真面目な男だった老翁も、その時ばかりは師としてではなく、まるで年が離れた兄のように接していた。時には上の代の者達がこっそり彼らの部屋に忍び込んで一緒に寝てやっていたのを見逃したこともある。


 とても、とても懐かしく、温かい夢だ。



(そう。夢だ)



 最後に墓参りをしたのはいつだっただろう。病でせっていたせいでなかなか墓参りをすることができていない。だから、夢枕に立ったのではないか。


 どうか、どうか。思い出して欲しい、と。


 布団から立ち上がった老翁は、衣紋掛けから羽織りを引っ掴む。そばに立てかけてある杖をとり、居室となっている庵から外へ出た。自分一人で歩くのは本当に久しぶりで、自分の脚だというのになかなか思うようにいかない。けれど、行くのをやめるという考えは男の頭になかった。



おきな。横になっておられずとも大丈夫なのですか?」



 庵の出入り口である竹垣の門をくぐると、三十半ばの細身の男がサッと駆け寄ってくる。尋ねる声音は静かで柔らかな印象を持たせるが、目元が涼やかな男の顔は少し強張っていた。自分の立場では強く口出しできないものの、老翁の体調を自分の親のことのように心配しているのだろう。



「今日は調子がいい。墓参りに行ってくる」

「先生方のですか? それならば、私もお供させてください」

「そうか。お前はあいつらの教え子だったな。なら、水桶と何か花を持ってきてくれ」

「分かりました。すぐに準備して参りますので、少々こちらでお待ちいただけますか?」

「いや、先に行って待っている」

「しかし、それでは翁の御側役が」

「構わん。仕込み杖もあるし、辺りを見回っている奴らもいるだろう」

「……分かりました。すぐに追いかけます。では」



 頭を軽く下げ、青年はきびすを返して走り去る。その背をしばらく眺めていた老翁も、墓のある高台へ向かって歩き出した。







 高台は山頂から里へ続く石段を下り、さらに山道を歩いていった開けた所にある。庵からは四半刻ほどで到着するその場所は、眼下に扇形に広がる里を見下ろすことができる。手入れされ、刈り揃えられた芝が踏みしめられる度にさくさくと音を立てた。


 奥に桜の木の下に卒塔婆そとばが二つと、その周りを半分囲うように石が積まれた小さな石塔が十七。全て同じ代の老翁の教え子達のものである。一番早くて齢十五、遅くて十八の子らのもの。


 夢で見た可愛らしい過去が嘘のような成長を遂げることになるとは、あの頃は思いもよらなかった。先輩には生意気な後輩共、後輩には自分達で遊ぶ暴君共と、担当がしらだった老翁の元へ日夜苦情もとい訴えが来る、良くも悪くもすくすくと育っていった彼ら。その姿は頼もしいやら、いい加減にしてほしいやらで。

 彼らが六年を過ごした学び舎を去り、一人前の八咫烏として任務を得て各地に散らばるまでほとんど全ての日を共に過ごした。


 ――そして。

 続々と耳に入ってくる訃報に、命を落とした者を担当していた師が一人また一人と唇を噛む姿を、柱に拳を打つ姿を隠れて見てきた。

 取り戻すことの叶わない身体の代わりに積んだ石塔は、日を追うごとに増えていく。


 再び一堂に会したのは、学び舎を巣立って行った四年後。それも、手放しで喜べる再会の理由ではない。とある大名が八咫烏から人質をとろうと、学び舎を襲撃するという蛮行の憂き目にう。なんとしても子供達を護ろうとした師達に死傷者が多数出たため、彼らを急遽代役として呼び戻すことになったのだ。


 その時点で、十七人いたのが六人減り、十一人になっている。そして、それからおよそ一年後。ある出来事で、彼らの代は残り全員が命を散らした。



「……お前達、長いこと来れなくてすまんかったな」



 卒塔婆の前で胡坐を組んで座る。何をするでもなく黙って石塔をながめていると、温かな春の陽気に包まれて眠気がゆるやかに襲ってくる。

 そのうち背を撫でるような風が吹いてきて、老翁は目を閉じた。




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