四年に一度は寂しすぎる
水乃流
四年に一度は寂しすぎる
それは怒っていた。
なにしろ、四年に一度なのである。オリンピックでもワールドカップでもない。もっと大きな、全世界的な規模で、四年に一度。
――閏年である。
古代ローマの時代から、なぜか四年に一度、一日多い年だ。いや、なぜかは分かっている。余ってしまうからだ。そもそも、太陽と月の運行が微妙にずれているのがいけない。それを言ったら、地球の自転だって、きちんと割り切れるようになっていれば、四年に一度、とってつけたように一日増やす必要はないのだ。一年三百六十五日で良いものを、一年で五時間四十八分四十五・一六八秒余ってしまう。この余った時間を四年ごとに精算しようというのが、それ――閏年である。
だいたい、閏年が生まれた頃は、一年の始まりは三月だった。だから、その年の最後に一日をそっと差し込んだのだ。そこには優しさがあった、と思う。「一年の終わりだから、まぁいっか」的な。でも、今は年の終わりでも何でもない。年度の終わりでもないから、「あぁ、一日多くて助かった」なんてこともない。感謝もされなければ、優しさも感じない。
やっかいなことに、グレゴリオ暦になってからは、西暦が百で割り切れる年は閏年じゃない。でも、さらにやっかいなことに四百で割りきれる年は、やっぱり閏年。あーめんどくさい。閏年の立場にもなってみろ、とそれは思う。もっとシンプルにしろよと。
少し前、太陰太陽暦が健在であったころには、閏月や閏日もいて、愚痴なんかいいあってなんとかストレス発散できていたけれど。少し前、太陰太陽暦が健在であったころには、閏月や閏日もいて、愚痴なんかいいあってなんとかストレス発散できていたけれど。
要するに、閏年は数合わせなのだと。合コンで女性の人数に合わせるために、仕方なしに呼ばれる非モテのようなものだと。サンドイッチを作るときに切り落とした耳を、もったいないから油で揚げて砂糖をまぶしてお菓子にするようなものだと。……あれは、結構美味いのだけれど。
それはともかく。
自分が余り物と呼ばれているように思えてならない閏年は怒っていた。もう、こうなってらストライキでもしてやろうか。
「今年の閏年は中止になりました」
みんなどんな顔をするだろう。そうだ、そうだ。そうしてやろう。それが意地の悪い笑顔を浮かべたとき、いきなりその頭は後ろから殴りつけられた!
な、何をするっ!
それの頭を背後から叩いたソレが口を開く。
何を言っているのだ、閏年! お前はオリンピックイヤーなどと呼ばれて優遇されているではないかっ! それに、2月29日生まれの人間のことを考えたことがあるのか! 彼ら彼女らは、四年にひとつしか歳を取れないのだぞ? 見た目は四十なのに、十歳だぞ?
うぅ、確かにそれはそうだが……って、お前は一体何者なんだ?
私は閏秒! お前のように定期的ではなく、不定期に差し込まれる数あわせの一秒だ! 注目もされず、忘れられていることも多いのだ!
このようにして、閏年と閏秒の不毛な会話が交わされるようになったのだが、どちらにとっても寂しさを紛らわすことができたようだ。
めでたし、めでたし。
四年に一度は寂しすぎる 水乃流 @song_of_earth
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
科学技術の雑ネタ/水乃流
★71 エッセイ・ノンフィクション 連載中 180話
言葉は生きている/水乃流
★0 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます