【お題2:最高のお祭り】日常のための日常 〜しあわせの場所〜
日本には『ハレ』と『ケ』という伝統的な世界観がある。
ハレは晴れ。儀礼やお祭りなどの『非日常』のことで、ケもそのまま
ただこの概念には、さまざまな論争もあるらしい。よくわからないが、ハレとケのほかに『ケガレ』をくわえるべきだとか、その場合お葬式はハレなのかケガレなのかとか、これまたいろいろな意見があって、統一的な定義は現在もないのだという。また、ケガレにもあらゆる解釈があるらしい――が、それはこの際どうでもいいのである。
なにしろ、
彼女――ユキは、希実が高校生になってすぐにはじめたアルバイト先のカフェで、仕事を教えてくれた先輩である。アルバイトをしながら、ちいさな劇団で舞台に立っている。年はたしか三歳か四歳上だったはずだ。
ユキは漢字で『結希』と書くのだそうで、希実とおなじ『希』が名前にはいっている。
もともと明るくて気さくな人なのだけど『名前に自分とおなじ漢字がつかわれてると、なんか親近感わくよね!』と、希実にはよくわからない理由で好感を持たれるようになった。苗字ではなく名前で呼んでといわれたのもそのときだ。今にして思えば、はじめてのアルバイトで緊張していた、希実の心をほぐすための気づかいだったのかもしれない。
それから約一年。仕事もおぼえ、店にもすっかりなじんだ今、なぜ休憩中にハレとケ講座がひらかれているのかといえば、きっかけをつくったのはほかでもない希実自身であった。
◇
残念ながら、希実は舞台にまったく興味がない。チケット代だけで一日四時間のアルバイト代、場合によってはそれ以上のお金がふっ飛んでしまったりする。ユキには悪いが、正直なところバカらしいと思ってしまう。だから彼女の舞台もこれまで一度も観に行ったことがない。
いつもよくしてもらっているし、自分でもちょっと薄情だなとは思う。だが、そのお金で数日は暮らせるわけで、そう考えてしまうとやはり義理だけで何千円も払う気にはなれなかった。
というのも、希実が小学校を卒業するのと同時に両親が離婚して、今は母ひとり娘ひとり、生活はカツカツなのだ。
女癖が絶望的に悪い父親も養育費はしっかり払ってくれているようだけど、特別高給とりというわけではないし、もちろん大金持ちというわけでもない。女につかうお金をぜんぶこっちにまわせと思わなくもないが、もうあれは病気なのでしかたがないと希実もあきらめている。
母の給料と養育費と希実のバイト代。そのほとんどが生活費と学費で消える。贅沢はできないのだ。
といっても、今の生活にべつだん不満があるわけではない。ただ、地味に暮らしていると、夢に向かってまっすぐ努力しているユキが、たまにひどくまぶしく見えることがある。
それでつい、聞いてしまったのだ。
なんのために演劇なんてやってるんですか、と。大変な思いをして、いくら努力したって売れる保証なんてどこにもないのに、なぜ――と。
ユキはどういったらいいのかとしばらく悩んで、それからハレとケの話をはじめたのである。
舞台での『ハレ』はいうまでもなく、本番のことだ。それは彼女にとって、なにものにもかえがたい『最高のお祭り』なのだという。時間にすれば、数十分から長くても数時間のできごとだ。けれど、その時間があるから生きていける。その時間を思えば、きつい稽古も、地味な裏方仕事も、食うや食わずの貧乏生活もなんでもないと、ユキは顔を輝かせた。
そして最後に、舞台をハレとケにたとえるのは劇団仲間の受け売りなのだと、バカ正直につけくわえた。それがいかにも彼女らしくて、希実はすこし笑ってしまった。
しかし、彼女の気持ちはやっぱりよくわからない。そもそも演劇の魅力自体わからないのだから、それもしかたないのかもしれない。それでも、わからないながらに理解はできた。
ハレとケは非日常と日常で、ユキにとっての日常は、すべてハレのためにあるのだ。そこが、希実とは決定的にちがう。希実にとっては、日常が一番大切だ。ケのためのケ。日常のための日常といっていい。
父の浮気に目をつぶろうとしてつぶりきれず、それでも懸命に気づかないふりをしていた母から、だんだん笑顔が消えていった日々。見ているのがつらくて、母に離婚をすすめたのは希実だ。もし、自分がいるために離婚できずにいるのだとしたらたえられないと思った。
そうして離婚が成立して、生活は大変になったけれど母の笑顔は増えた。
ハレとケ。非日常を輝かせるための日常生活。理解はできる。だけどやっぱり希実は、刺激的な非日常より、おだやかな日常のほうがいい。
こういう発想のせいか、友だちには所帯じみてるとかババくさいとかよくいわれるのだけど。いいのだ、それでも。
最高のお祭りより、ささやかに笑いあえる日常。それが、希実にとってのしあわせだ。
(おわり)
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