春過ぎて、夏の少女は夜を走る
狭倉朏
少女は走り、少年は立ち止まる
走れ。走れ。走れ。
すべてを振り切れ、逃げ切れ、走れ。
止まるな。止まったら追いつかれる。
心の中で声がする。頭の中で何度もそう唱える。
しかし、
夜の公園には彼女と彼、ふたりだけがいた。
荒い息とともに上下する夏生の肌を汗が伝う。
「くそが……」
夏生は小さく毒づいた。
胸の谷間に流れ込む汗が気持ち悪かった。
顔を上げると近付いてきていた春行と目が合った。
「…………」
「精が出るな」
春行は感情のこもらない声でそう言いながら、タオルを投げてきた。
「……どうも」
春行が投げて寄越したタオルをTシャツの胸元にえぐり込むようにして汗をぬぐう。
豪快な動きに春行は小さくため息をつく。
「……乙女がすることか」
「乙女って」
少し失笑。からのあえて作ったにやけ顔で夏生は問う。
「照れてんの?」
いまさらだ。自分たちの仲で男だの女だのを意識するなど。
春行から返事はなかった。
もう残っていないはずの汗の不快感が再浮上する。
夏生はそれをごまかすように、春行に背を向けた。自販機へ足を向けると、春行はのっそりとついてきた。
夜を自販機の灯りだけが照らしていた。
飲むものは決まっていた。ペットボトルのスポーツ飲料。
尻ポケットからICカードを取り出して自販機に当てる。
ガコンと落下音が静かな公園に大きく響いた。
半分ほどを一気に飲み干して、夏生は春行に残りを投げた。
春行は困ったようにペットボトルを指の腹で持った。
それを持つのは畏れ多いというように、それがまるで汚いものかのように。
どちらなのか夏生には判断がつきかねた。
「残り、飲んでいいよ」
「断る」
返事は思いのほか早かった。
「あっそ」
夏生は再び走り出した。
かすかなため息が背中を追いかけてきた。
走れ。走れ。走れ。
夏生は再び唱え出す。頭の中を埋めつくす。
逃げろ、逃げろ、逃げろ。
あんな奴からは逃げてしまえばいい。
逃げていい。
春行が陸上部をやめたのはゴールデンウィーク前のことだった。
高校三年生の春。最終学年。最後の地区予選を控えた、まさにこれからという時期のことだった。
春行は前触れもなく、夏生に何も言わず、部活をやめた。
夏生にとっては青天の霹靂だった。
春行は元から口数の多い男ではない。
幼い頃から春行と夏生はいっしょに走っていた。
最初はおいかけっこだった。
それはハイハイから始まった。ハイハイの頃からふたりは追いかけっこをしていた。
次はつかまり立ちだった。つかまり立ちをしながら追いかけっこをした。
よちよち歩きのころも、歩けるようになってからも、ずっとずっと追いかけていた。
追ったり追われたり、交互に繰り返してふたりは年を重ねていった。
そこに言葉は確かに要らなかった。
夏生が春行に追いつけなくなったのはいつの頃からだっただろう。
春行がすぐに夏生に追いつくようになってしまったのはいつの頃からだっただろう。
仕方のないことだった。男女の差というものがある。
夏生は女子の中ではレベルの高いランナーだ。
そんじょそこらの男子には負けなかった。
しかし春行もまた男子の中ではレベルの高いランナーだった。
夏生はそれに追いつけなかった。
追いつけない。それでも走った。走り続けた。
それなのに、春行が勝手に止まってしまった。
何一つ言わずに。いつものように。
「……ちっ」
ペースが乱れる。
足がもつれる。
転びそうになる。
思考のせいだ。
よけいなことを考えているから足が迷うのだ。
「……くそが」
完全に足を止め、何度目かの悪態をつく。
春行は走るのをやめたくせに夏生の自主練には付き合う。
夜に女子を一人にはさせられないと言ってくる。
「ちくしょう」
悔しかった。何かがどうしようもなく悔しかった。
じっとりと汗がまた伝う。顔を伝うのが気持ち悪い。
「ちっ」
手でぬぐおうとして気付く。
もらったタオルを首にかけたままだった。
「何やってんの……」
夏生は全身から力が抜けていくのを感じた。
夏生はとぼとぼと公園に戻った。
春行がそれを認めてブランコから立ち上がる。
その手にはまだスポーツドリンクが宙ぶらりんに握られていた。
ふらりふらりと夏生は春行に近付く。
春行は覇気のない夏生に少し戸惑う。
「……どうしてやめてしまったの」
その質問に具体性はなく、その声はか細かった。
しかし春行にはそれで十分だった。
「立ち止まりたくなったからだ」
春行の答えは素早かった。
いつかこんな質問が来る。それを予想していたかのようだった。
「……走り続けるのに、疲れた」
春行は心底、そう言った。
「なにそれ」
夏生は腹が立った。
そんな理由で立ち止まった春行にはらわたが煮えくり返った。
「……そんな理由、認められるわけ……」
「それが理由だ」
春行はきっぱりとそう言った。
それ以上を許さない強固さがそこにはあった。
夏生は春行からスポーツドリンクをひったくった。
言葉といっしょにすべて飲み込んだ。
空を見上げる。濃い雲が月を隠している。
じっとりとした暑さがまた夏生をおそう。
6月が始まろうとしていた。
「……夏、か」
2020年の夏、スポーツの夏が始まる。
いつもの公園に夏生がいる。
うつむきながらブランコを漕いでいる。
隣に座ることがはばかられるかのように、春行は夏生を遠くから見つめる。
先にしびれを切らしたのは夏生の方だった。
キッと春行を見上げた。
しかし彼女は無言のままだった。
しばらく黙って、そして春行は言葉を絞り出した。
「……テレビ見ないのか?」
「そのテレビを見たくないの」
「そうか」
テレビの中には春行がいる。
追いかけても追いかけても追いつけない
夏生の足ではとうてい追いつけない。
近くの春行だけではなく遠くの誰かにも、夏生は追いつけない。
春行が止まったところで追いつけない人間なんて山ほどいるのだ。
そんなことすぐに気付けばよかった。
春行が止まってすぐに気付けばよかったのだ。
気付かずに、追いつけないものを追いかけて、夏生は今、立ち止まってしまった。
「負けたよ」
「そうだな」
今更言うまでもない。春行はスタンドで見ていた。しれっと見ていた。
地方大会で夏生は負けた。全国には行けなかった。
ベストを尽くしてなお、敵わない相手がいた。
隣にいたし、遠くにもいるのだろう。
そんなことは春行も夏生も知っている。
ここ最近は、負けた記憶だけが夏生の脳にこびりついていた。
振り切れない。
走っても走っても逃げ切れない。
逃げれば良いのに逃げられない。
春行はしばし黙っていたが、ぽつりと口を開いた。
「じゃあ走ろう」
「…………」
今日は私服だ。
走る気分じゃない。
違う。そんなことは問題じゃない。
「いやだ」
「…………」
夏生はただただいやだった。
夏生のすげない返答に春行は返す言葉もなく俯いた。
沈黙が場を支配した。
春行は夏生の隣のブランコに腰掛けた。
ブランコの軋む音だけが公園に響いた。
永遠に続きそうな静寂に最初に負けたのは夏生の方だった。
「……春行はどうして立ち止まれたの……いや、立ち止まれた上に平気な顔してるの」
今、立ち止まっている夏生の顔は苦痛に歪んでいる。
心は常に切り刻まれている。
足が、腕が、体が、むずがゆい。
走れ。走れ。走れ。
悲鳴が聞こえる。頭の中で渦巻いている。
止まるな。止まったせいで、追いつかれ、追いつけない。
こんなに苦しいのに、こんなにいやなのに、どうして春行は止まったのだろう。
それを知るために夏生も止まっていたけれど、結局答えを得れず問いかけてしまった。
「……追いつけないことに、安心した」
「……え?」
「追いかけられて、追いついて、追いかけられて、追いついて……」
それは夏生も感じていた彼女と春行の関係。
「走っている夏生が好きだ。追いつけない君が好きだ。……だけど、夏生が立ち止まるなら……俺は」
春行はブランコから立ち上がった。
解放されたブランコが舞う。
「俺は走る」
春行は夏生に背を向けた。
その背中は、そのフォームは、走るときの春行だった。
春行は走り出した。
振り向かず走り出した。
その背が呼んでいる。
走れ。走れ。走れ。
逃げるな、走れと呼んでいる。
追いついてみせろ。
夏生は負けた。負けたのだ。負けて立ち止まった。
それでも、追いついてこいと走り出す春行がいる。
昔のように。
夏生は立ち上がっていた。
ブランコが静かに揺れた。
2020年の夏はスポーツの夏だ。
すべてが終わったはずの夏生にとっても、まだまだスポーツの夏だった。
走れ。走れ。走れ。
すべてを振り切れ。自由に走れ。
止まるな。止まっても走り続けろ。
夏生は走る。春行と走る。
鼓動の高鳴る理由は走っているからだ。
今はまだそれだけでいい。
それが気持ちいい。
7月が終わろうとしていた。
それでもふたりの夏はまだ続いていく。
春過ぎて、夏の少女は夜を走る 狭倉朏 @Hazakura_Mikaduki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます