君がそれを見るか、僕は懸けている

KT

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『恋は、ままならないものである。ましてや想いを伝えるなど、これ、いかに』


 そこまでキーボードを叩いて、僕の手は止まった。むぅ、と、腕を組んでノートパソコンの画面を眺める。僕の思考には数多の文字が羅列していた。その一つずつを精査しながら、次に選び取るべき言葉を探っていく。


 画面を見据えたまま、視線とは別の方向へ手を伸ばす。机上には愛飲しているイチゴ牛乳があった。改めて見遣らずとも行える慣れた動作だが、僕の指先は、すか、すかと空気だけを掴み続ける。いつまで経っても紙パックへ触れないのに、僕はようやく視線を向けた。


「……ない」


 黒い天板に置いていたはずのイチゴ牛乳が消失した。僕は溜め息を吐く。実は、これも毎度の慣れたことだった。


 隣へ目を向ければ、案の定、平然とした顔で紙パックから飛び出たストローをくわえる人物が。コイツが犯人だ。というか、現在、この理科実験室には僕と彼女しかいない。


 ほとんど黒に近い、焦げ茶色のショートヘア。一七五センチメートルという女子にしては長身で、すらりと伸びた手足はバレーボール選手の特徴だ。愛嬌のある顔立ちで、彼女の本性を知らない初見では可愛いと判断してもいいだろう。


 ブレザーを着崩して、ネクタイも緩んでいる様はオシャレなんだか、だらしないのだか。本人いわくの『個性ですぅ』という言葉は信用ならない。


「それ、僕のなんだけど」


「いいじゃん、減るもんじゃないし」


 犯人は悪びれる様子なく言い放って、しかも、抗議する僕の方がおかしいと言わんばかりに唇を尖らせる。ストローを通って口へ吸い込まれていくイチゴ牛乳は、今、まさに減っているのだが、日本語の云々うんぬんを伝えても彼女の機嫌が悪化するだけだ。


大翔ひろと、どうせ、もう一つ持ってんでしょ。いいから出しなよ」


 横暴な発言。ストローをくわえたまま、犯人は歯を見せ爽快に笑む。盗人ぬすっとのくせに、なんて清々しい表情をするんだ。


 僕は追撃を止め、渋々、机上の鞄からイチゴ牛乳を取り出した。これも毎度のことなのである。


 軽く振って、ストローを差す。甘いイチゴ牛乳で喉を潤しながら、背もたれのない木製の椅子で体勢を変え、彼女の方へ向いた。


「ねぇ、あおい。それ、僕の飲みかけだけど、いいの?」


 僕は眉根を寄せつつ、彼女へ問いかける。葵は目をしばたたかせ、首を傾げた。


「え、大翔、虫歯とかだった?」


「…………違うけど」


「なぁんだ。焦らせないでよ」


 彼女は安堵して、また一口、イチゴ牛乳を飲む。これなんだよなぁ、なんて満足げに零す様は、風呂上がりのオヤジと大差ない。


 僕はストローを噛んだ。今日も、想いは一方通行である。


「ここ、間違ってる」


 悔しいので、仕返しせねばと葵の前で放って置かれているノートを指した。女子というより男子が書くような字形で埋まった一頁にて、数式が不正解を訴えている。


「え、ホント?」


「嘘、言わないよ。ほら」


 僕は所在なさげに転がっていたシャープペンシルを手に、正しい数式を書いてやる。解説付きという親切も混ぜておいた。


「葵は、ここ苦手だから気をつけて」


「おおー、さすが学年一の秀才くん。いよっ、将来は東大か!」


「興味ないね」


 僕はシャープペンシルを彼女へ突き返した。イチゴ牛乳を黒い天板へ置いて、再びノートパソコンと向き合う。


 先ほど、自分で紡いだ一節が視界へ飛び込んできた。


『恋は、ままならないものである。ましてや想いを伝えるなど、これ、いかに』


 全く、その通りだ。我ながら、真理を追究し尽くした文章である。


 僕は、ちらりと隣を窺った。僕から奪ったイチゴ牛乳を飲みきった葵が、懸命さの滲む真剣な表情でノートに書き込んでいる。黙っていれば可愛いのに、と、素直に思う。


 僕と葵は、いわゆる幼馴染みというものだ。親同士に交流があり、自分の中にある最も古い記憶に彼女がいるくらい幼い頃から、ずっと一緒だった。


 それほど共にいるならば、家族のような認識でも不思議じゃない。事実、葵は僕のことを、弟か何かだと思っている節がある。


 けれど僕は家族として認識するより先に、ある感情を自覚した。それは、ごく自然に、当然のように僕の心で根付いた。もしかしたら、生まれて最初に抱いた感情が、それだったかもしれない。


 僕は、葵のことを好きになった。きっと、僕という自我が生まれる前に。


 僕の視線に勘づいたのか、葵が顔を上げる。二人の視線が交わる。僕は内心で慌てながら、しかし表情には冷静さを貼り付け、わざと音を鳴らしてキーボードを打った。何の脈絡もない酷い文章だ。


「ねぇねぇ、大翔、なにやってんの?」


 ごまかすのに打ち鳴らした音が余計だったのか、葵が興味を持ってしまった。がたりと椅子を近づけて身体からだを寄せ、僕の肩へのしかかる。


 一七五センチメートルが、一六五センチメートルへ寄りかかってきては、たまったものじゃない。あと、僕の心情的にも複雑だ。


「新作の執筆だよ。ああもう、重いから」


「えー、気になるー」


 ぶーぶー文句を垂れる彼女の肩を掴み、力一杯に押し戻した。ノートの前へ戻った葵は、ねて頬を膨らませる。


 こんなに子ども染みた、いいや、小学生と変わらない彼女が、我が校の女子バレーボール部エースとは、よそ様の部ではあるが同情を禁じ得ない。


「なんでさ! 秘密にしたいくらいエロいヤツ書いてんの?」


「失敬な。日本語の情緒がわからない脳筋のうきんに読ませて、僕にどんな利益があるんだよ」


「日本語くらい読めるもん! 『グマとグミ』とか、すごい読んだし!」


「はいはい。幼稚園児向けの絵本ね。僕のは、もっと大人向けだから」


「むむむむむ」


 葵は難しい顔をしてうなった。勝った、と、僕は心の中で拳を振り上げる。


 脳筋が文学系に口論で挑もうなんて、無謀でしかない。まあ、彼女は昔からずっと、懲りずに僕へ挑んできた訳なのだが。


「テスト前で部活動禁止ですのに、大翔くんは文芸部の活動なんかしちゃって余裕ですわね。勉強とか、しやがらないのかしら」


 葵はノートを口の前へ持ってきて、扇子のように、ひらひらとさせた。優雅になりきれない口調が、脳筋の限界を感じさせる。


 僕は口の片端をつり上げた。


「葵さん、勉強はね、家ですれば充分なんですよ。でも、テスト直前になって泣きついてきた誰かさんに勉強を教えないといけないのでね、帰宅することもできず、こうして文章をつづりながら付き合っているのです。女子バレーボール部の顧問からも『成績次第で夏の大会が危ない、助けてくれ』と頼まれてしまいましたから。ねぇ、葵さん」


「う……」


 葵は黒い天板へ、ノートを戻した。大人しくシャープペンシルを手に取り、数学の基礎問題集を解き始める。僕の完全勝利だ。鼻息荒く勝利のイチゴ牛乳を掴み、一口、飲む。


 こそりと、葵の瞳が僕を見た。申し訳なさそうで、不安そうな表情だ。彼女が憂慮ゆうりょするところの意味を悟って、僕は口元を緩める。


「勉強に付き合うの、嫌じゃないから」


 穏やかに言えば、葵の表情が明るくなった。


 彼女は気合いを込めたように口元を引き締めて、机上で広げたノートやらへ向く。苦心しながら手を動かす姿は、つい助けたくなるほどの愛らしさだ。惚れた弱みもあるだろうが、彼女の人柄によるものともいえる。


 昔から運動神経抜群で、どんなスポーツをやらせても上手かった。特にバレーボールは熱心に取り組んでいて、中学卒業前、幾つかのスポーツ強豪校から誘いがあったはずだ。どうして、彼女がそれを断ったのかは分からない。


 勉強が苦手で、思慮が足りず勢いだけのところもあるが、人懐っこいバカというのは好かれやすいもの。学校内で、性別問わず彼女の人気は高い。クラスの隅にいる僕とは雲泥の差だろう。


 ちくり、胸の内を針が刺した。僕はイチゴ牛乳をノートパソコンの脇へ置き、沈む心持ちのままキーボードを打つ。ごまかしで打ち込んだ不出来な文章を消去して、新しい言葉を連ねる。


『それ以前に、僕と彼女は対等でない。彼女の瞳に映る僕は、たぶん、魅力的な男とは程遠い』


 手が、はたと止まった。画面上で吐き出しても消えない、心の膿を俯瞰ふかんする。


 僕たちは同じ場所で育ちながら、何もかもが違った。性格や、体格、得意とするものも、趣味も、人との付き合い方も。二人、並んでいると不均衡さばかりが目立つのだ。共通点を探すのは、名探偵シャーロック・ホームズでも難題だろう。


 彼女の隣にいて、似合う男は僕じゃない。身長だけでも追いつきたいとイチゴ牛乳を飲んだって、少しも背が伸びない。僕は誇れる男じゃない。ただの幼馴染みで、やがては離れていく存在でしかなくて。


「大翔、ここ」


 不意に、葵が僕のブレザーを摘んだ。咄嗟とっさに画面から目を離して、僕を頼って儚げに揺れる大きな瞳に出会でくわす。心臓を射貫かれた気がした。


 僕は反応を失った。黙って見つめ返していると、葵は気恥ずかしそうに身体を捻って僕の袖を引っ張る。


「う、うん?」


「ここ、わからない」


「どこ?」


「ん、と、この問題」


 木製の椅子が床を滑っていく音が鳴って、二人の身体が寄り合う。彼女が示す箇所を覗き込めば、必然と顔が近づく。髪からか服からなのか、だらしない見た目からは想像つかない、かぐわしさが鼻腔をつつく。胸の奥が、きゅっとする。


 黒い天板の上、新しい頁を開いたのだろう真っ白なノートがあった。それに乗る彼女の指は美しく、細くて。凄まじいスパイクで相手コートを脅かしているのが、冗談かと思えるほど可憐だった。心底から触れたいと思う。


 僕は心中で自身を叱りつけ、手早く解答を書き込んで葵から離れた。


 在り方が違っていても、共通点がなくても、名探偵が見放したとしても。生まれてから今まで身体の内で熟成させた想いは、その中心をくり抜いて捨てたって、僕の至る所に染み付いている。忘れられるはずがない。僕じゃない男のそばにいる彼女を、見たくない。


 僕はキーボードを強く打つ。思考に浮かんだ言葉を、よく精査せずに、そのままで綴っていく。


『それでも構わない。僕の気持ちは変わらない。だから、君のために書こう。これは僕の正直で、ありったけで、情けなくも強気な挑戦だ』


 それから僕は締めの言葉を打ち込み、幾つかの操作をした。ノートパソコンから手を離すと、画面をさらしたまま立ち上がる。


「イチゴ牛乳がなくなった」


 声が上擦るのを堪えて、呟いた。彼女を一瞥いちべつすることもなく、急いで理科実験室の扉を開け、退室する。


 ぴしゃり。扉を閉めた僕は、けれど立ち去ることはしなかった。すぐさま屈み、気配を殺し、扉へ耳を寄せ奥の様子を探る。


 イチゴ牛乳がないなんて嘘っぱちだ。ノートパソコンの隣に、愛飲のそれは置かれたままだ。本当に中身が空だった場合、僕の性格上、すぐに捨てることは葵ならば知っている。イチゴ牛乳は、そこにあるだけで不自然な存在なのだ。


 彼女は不審に思うだろう。行動の理由を知りたがるだろう。そして、ノートパソコンの画面を覗くに違いない。


 そこには、全編が精一杯のラブレターとなっている物語がある。脳筋である彼女には全てを読めないだろうから、親切丁寧に、最後の文章だけ文字を大きくしておいた。もちろん、どんなバカにも伝わるよう、簡潔で直球な言葉だ。


『好きだよ、葵』


 君がそれを見るか、僕は懸けている。自身の恋慕を、僕の全てを込めて。


 がた、と、椅子が床へ倒れたような音が響いた。僕の胸中に驚きと、ざわめきが広がる。


「あ、あ、あ……」


 葵が震える声音を零す。僕の期待感は、一気に頂上へ登り詰める。


「バカーーーー!! ちゃんと口で言えーーーー!!」


 彼女は羞恥しゅうちに塗れた声を発した。僕には分かる。それに嫌がる素振りは、なかった。


 椅子の吹っ飛ぶ音がした。僕は一目散に駆け出す。背後で扉が滑る音。


 今は、まだ、彼女の俊足に捕まりたくない。この後、面と向かって言わされるのだろうから、必死で逃げなくてはならない。


 だって僕は途方もなく、ふやけて破顔しているのだ。真面目な顔で告白なんて、できないに決まっている。


 僕は嬉しくて嬉しくて、走りながら拳を振り上げた。心の中でなく、実際にそうした。皆に見せつけてやるつもりだった。


 君がそれを見たのだから、全てを懸けた僕は無敵だ。











「ちょ……まっ……ハァハァ、ガハッ、ハァ……葵、足、速すぎ……」


「え……大翔……もうちょっと運動した方がいいと思う」

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