第51話『おはようございます』

「おはようございますセブン様!」

「……」


 部屋の入り口の前に立ち笑顔を浮かべる彼女に挨拶を返すことすら忘れて。

 俺は目の前で起こってる事態に言葉を失い、自分の目を疑っていた。

 いや、きっとこれは夢に違いない。


 昨日の闖入者にもう一度会いたい。その願いが自分の想像以上に強かったのか?

 こんな幻覚を見るほどに?

 しかし、そうでなければ説明がつかない。


 朝からこの城で俺を起こしに来る侍女がいることも。

 ほんの数時間前に聞いた覚えのある、どこか気の抜ける声も。

 なによりも心が温かくなるような錯覚をもたらす柔らかな雰囲気も。


「おや? 覚えていませんか? あ、そういえば暗かったですもんね。ほら、昨晩あなたをころ——」

「ちょっと黙って!」


 はっとした表情浮かべ、とんでもないことを口走ろうとした侍女を、慌てて部屋に引き込み、扉を閉める。


「城の中で何を言おうとしてるんですか! いや、それよりもここで何をしてるんです!?」

「なにって……朝なのでセブン様を起こしに来たんですよ」

「そうじゃなくてっ。……なんでまだここにいるんですか」

「あなたが逃がしてくれたんじゃないですか!」

「えぇ……」


 普通。暗殺を失敗したうえに標的に顔まで見れらた暗殺者が、敵地の中に留まってさらには起こしに来るなんて……いったい何の冗談なんだろう。

 しかも誰聞かれているかも分からない廊下で自供まで始めて。

 いったい、この余裕はどこから来るんだ。


「あの状況で逃げて良いって言われたら、場外まで逃げないか!?」

「だって、戻ったら……」

 

 そこで彼女は言葉を切ると、瞳を潤ませ沈痛な表情となり、声を落とした。

 それを見た俺は彼女の置かれた状況をなんとなく察する。

 彼女は暗殺者。隠密がその姿を見られてしまえば、以降きっと役目をこなすことができなくなるだろう。


 依頼主の情報が漏れる可能性もある以上、始末されてしまうのかもしれない。

 昨日だって顔を見られた瞬間に自決しようとしていたほどだ——、


「そうですよね……。わかりました。これ以上悪さをしないのであれば、このことは秘密に——」

「もう、お城の美味しいご飯がもう食べられないじゃないですか」

「あなたは本当に暗殺者なんですか?」

「そういえばまだ名乗っていませんでしたね。私はラナと言います。数日前にこのお城で雇ってもらうことになりました。昨日は色々ありましたけど、よろしくお願いします。——あ、私に敬語はやめてくださいね? 目立ってしまうので」

「……はぁ。わかったよ……ラナさん」


 話を聞かず、自己紹介を始めたラナさんは最後に俺の手を取って柔らかく微笑む。

 ——もう、好きにしたらいい。

 なぜかそれ以上彼女を直視することができず、熱を持ち始めた頬を指で掻きながら、視線を逸らした。

 






 ラナさんの言葉から予想はついていたが、彼女はどうやら城から出ていく気はないらしい。

 そもそも自分に構う時点で目立たないわけがないのに。

 それを知らないはずはないのに、彼女はことあるごとに構いつづけてきた。


 毎日のように朝、起床のあいさつに訪れ。

 食材を調理せず食べるところを目撃された日には、手料理を運んでくれた。

 侍女専用の浴室があるにもかかわらず、なぜかいつも俺が湯あみしようとする際に現れては部屋を利用していくので、その間は理不尽に締め出されたり。


 そして、街の近傍にある草原のとある一角。大きな岩の影に隠れるようにして存在する池のほとり。

 夜に城を抜け出し、“息抜き”と言って、彼女の『秘密の場所』へと連れ出してくれることが特に気に入っていた。けれど、それを面と向かって言うことはできなかった。

 なぜならそこへ訪れるとき、ラナさんは決まってどこか辛そうな表情をしているから。 

 ある日、どうしても気になってしまった俺は、ついにラナさんに尋ねてしまった。


「……それは乙女の秘密です。でも、セブン様もなにか秘密を明かしてくれたら、教えて差し上げます。そうですね……例えば、どうしてそんなに強いのか、とか」

「……」


 俺は彼女の言葉にしばし沈黙し、考える。

 自分がどうして強いのか、なんて俺にはわからない。

 それでも、ラナさんが辛そうな顔をする理由を知りたくて、自分に温かさをくれた彼女を助けたくて、俺は事実かどうかも分からない、唯一の心当たりを口にする。


「本当かどうかはわからないけど、兄上たちは俺のことを人間じゃないって言ってたことがある。もしかしたらそれが関係あるのかもしれ、ない……」


 言葉尻が途切れ途切れになってしまったのは、俺の言葉を聞いたらナさんの表情がみるみるうちに変わっていったのが見えたからだ。

 その口から「やっぱりあなたが……」と呟いた気がしたが、あまりに小さかった声は、風に音にまぎれよく聞き取ることができなかった。


「どこにも、いかないで——あ」


 その表情の意味が分からない俺は、自身が人間でないかもしれないということを知って、ラナさんが離れていくかもしれないと今さら不安になり、気がついたときにはそう漏らしてしまっていた口を見るように視線を下げ、思わず手で押える。

 

 同時に、甘い香りと柔らかな感触が身体を包む。

 ふっと息を吐くような音が聞こえたときには、俺は目の前でしゃがみ込んだ彼女の両腕の中にいた。


「大丈夫ですよ。たとえどんな存在であろうと、私がセブン様を恐れることはありません。知らないままに、私はあなたのことをずっと知っていましたから」


 それはいったいどういう意味だろうという疑問が、音になることはなかった。

 すぐさま、まったく異なる衝撃が飛び込んできたからだ。

 腕を解き、わずかに距離を取った彼女は笑みを浮かべながら俺の右手をつかみ自身の頭部へと導く。


 誘われた右手が柔らかい髪の中に埋もれている隆起した何かに触れた。

 反応するように、ぴくり、ぴくりと動くそれは——、


「実は、私も人間ではありません」

「獣……人?」

「それを知って。セブン様は私を蔑視しますか?」

「そんなことしないっ……しないよ」


 笑顔を納め真剣な表情で問いかけるラナ。それに首を横にぶんぶんと振りながら答えを返す。

 獣人種を人が忌避しているのは知っている。

 でも、彼らを嫌ったことは一度もない。だって、己に非道な仕打ちをするのはいつだって同じ人間で。肉親と呼ぶべき人たちだった。


 むしろ、ラナが人間でないと知って、どこか喜んでいるような気さえした。

 初めて愛情と呼べそうなものを感じることができた。

それを与えてくれたのが、この人で良かったと。

 答えを聞いた彼女は、今度は勢いよく俺を抱きしめ、笑い声をあげる。

 

「あははっ! さすがはセブン様。——これでもう、迷う必要はありませんね」

「え?」


 しかし答えが返ることはなく。言い終えると俺から身体を離し、そっと立ち上がる。

 そして、見上げる俺に穏やかな表情を向け、手を差し出しながら、


「さあ、帰りましょう」

「……うん」


 伸ばされた手を握って立ち上がると、ラナさんはそのまま歩きだす。

 さっき明かしてしまったことは本当に正しかったのだろうか。

 結局、本当に知りたかったことを知ることができなかったことにも気づかず。

 前をゆく彼女の背を見上げながら、言い得ぬ不安を覚えた俺は、いつもより少しだけ強くラナさんの手を握った。

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