風に吹かれて身が縮こまる。あらためて外気の冷たさに気づいた。

 放射冷却、という言葉が頭に浮かび、そこで思い至る。

 彼女は寒くないだろうか。

 珍しく僕の後塵を拝している彼女。

 どんどん街中から外れ、音の発生源が少なくなっている。だから、とぼとぼついてくる彼女の足音がはっきりと聞こえる。

 僕たちは山沿いの勾配のある道路を歩いているのだった。

 車通りがそれほど少ないわけではない。明かりも音も途切れるということはない。それなのにどうしてか心細く感じる。どうしようもない隘路に足を踏み入れようとしているのではないか。そんなふうに考えてしまう。目的地がわかっていない彼女はなお一層のこと不安だろう。

 トンネルが見えてきた。ここまでくると目的地まではあと少しだ。

「この道で合ってるの?」

 不安そうな彼女の声音。

 今の状況はあまりにも不可解だから無理もないだろう。

 これまでの道は歩かなくたってバスだって走っている。そして彼女には言っていないけど、目的地にしても終点とはいえ地下鉄だって通っている。それなのに僕たちは出会ってからずっと歩いているのだ。

 夕方、いつも通り落ち合うと、僕はすぐに歩き始めた。

 無愛想な僕の振る舞いにまず彼女は驚いたようだった。僕が勝手に歩き始めたこともそうだし、彼女に対してこんなぶっきらぼうな態度をとることもこれまでなかったから、それはそうだろう。

 次に彼女は不満げになった。まともに取り合わない僕に腹を立てたのだ。それは当然だった。なぜ僕が無言で勝手に歩を進めるのか、彼女は問いただした。しかし、僕は答えることなく、歩き続けた。

 ついに彼女が帰ると言い出して、内心僕もどきっとしたけど、結局、彼女は帰らなかった。「もう知らない。怒ったから」とだけ宣言し、それからは彼女も無言で歩いてきた。

 途中から明らかに彼女は不安そうだった。木々が風に大きく揺さぶられたり、自転車にベルを鳴らされたりすると、小さく声を漏らしていた。

 彼女を安心させるため僕はよほど口を開こうと思ったけれど、ぐっと堪え、頷くだけして歩を進めた。

 今日、僕はすべてを飲みこむつもりだった。僕がここまで無言を貫いてきた理由も。今日の彼女に対する振る舞いの弁明も。ここまで徒歩だった理由も。そして、諸悪の根源であるゲップも。

 そう、そこまで頑なに僕が口を閉ざしていた理由は、迂闊に口を開くとゲップが出そうだったからだ。

 動けなくなるほどの気持ち悪さからは解放されたとはいえ、昨日からの胃の不調は依然続いていて、かといって彼女との約束をすっぽかすこともできない。そこでとった苦肉の策ができるだけ無言を貫くというものだった。

 バスや電車を利用しないのも、たとえ口を閉じていても喉が鳴るかもしれないからだった。

 外で歩いている分にはそこまでシビアになる必要はないけど、変に愛想よく対応するとボロがでないとも限らないし、普通にやりとりすれば彼女の言い分を通さざるをえない。

 冷静に振り返ってみると、どう考えても僕が今していることはおかしいことに気づいた。彼女との約束を破らないためにここに来たのに、当の彼女に嫌われてしまうような振る舞いをしているのだ。

 自分がしていることのおかしさに気づくも、もう途中変更は許されない。ここまでやってきたすべてが無に帰するような気がする。愚かな僕を彼女が見放すような気がする。そうでなくとも、よくもお嬢様気質の彼女がへそを曲げずにここまでついてきたものだというのに。

 謝りたい、謝りたい、ひたすら謝りたい……。

 いや、待て。それならなおさらここまでついてきた彼女に対する裏切り行為になるのではないか。しかし、僕の振る舞いは謝るべきことなのだから、それとは別に単に謝ればいいのではないか。いっそ彼女がここから離れてくれれば……ここにきて?

 独り善がりな思考に陥っていると、分岐点がやってきた。

 アスファルトで舗装された道から外れ、土の道に入る。

 ここまで来たら目的地まではあと少し。さしもの僕も観念しこれまでの行動を貫くことにする。彼女も特に何も言わなかった。

 道は湾曲していて、木々に視界が遮られている。なぜか挑むような気持で歩を進める。

 ほどなくして視界が開けた。

「一応、目的地到着」

「湖だけど……ここ?」

「そう」僕はようやく口を開く。「ここで飛ぶんだ」

「ここで? 飛ぶ?」

 当然、意味がわからない彼女。だけど、僕は説明をつけ加えなかった。一度、説明しだすとある程度しゃべらないといけないし、そうなるとゲップリスクが高くなる。

 僕から何も引き出せないとわかった彼女は、湖の方に歩いていく。両手を柵に載せて、覗き込むように前のめりになった。木の柵だったから、耐久性が気になったのは秘密だ。

 いつもの遠くをみる姿勢でいた彼女がようやく口を開く。

「ああ、そっか……水に映るんだ」

 さすが彼女、僕の言わんとしていることがわかったようだ。

 湖で飛ぶということは、飛ぶ姿が水面に映るというわけで、その姿は低い方が鮮明に映るのだ。

「合ってる?」

「うん」

 いつもだったら間違いだと言わせない雰囲気だけど、どうやら怖がらせすぎたらしい。

「ごめんね」

「何が?」

「もっとやりようはあるのにさ」

「うーん……よくわからないけど、気にしてないよ」

 両手を柵に掴まって伸びをし始める彼女。

 特に委縮したわけでもなさそうだし、怒ってもいなさそうだ。ほっとする。

 次に柵から手を放しての伸身運動に移り、それが終わると彼女が言った。

「よし、準備完了。じゃあさ、飛ぼうよ」

 なぜか手を差し伸べる彼女。

「うん、飛んでみて」

「いや一緒に」

 想定外のお誘いだった。

「一緒に? なんで?」

「わたしが飛ぶ。すなわち、あなたも飛ぶ」

「いや、それは違うと思う。大体、水面に映った姿がちゃんと狙った効果になっているか見ないといけないし」

「そんなの後からでいい。今は一緒に飛ぶんだよ」

「いや、それこそ一緒に飛ぶのは後からでいいんじゃ――」

「ダメ。今日はずっとわたしが言うこと聞いてたでしょ。だから、今度はわたしがお願いを聴いてもらう番。でも」

 彼女は柵に右手を掛けると、持ち前の身軽さでひょいと向こう側に飛び越えた。

「あなたは別に強引に連れてきたわけじゃない。付いてきてほしいとも言っていない。わたしが勝手にここまで付いてきた、そう言うこともできる。だから」

 彼女は再び手を差し出した。

「同じようにわたしも強制しない。お願いもしない」

「じゃあ、その手は何?」

 彼女は僕の問いかけに答えない。今日、僕も同じような対応をしたから、無言に対して不平を言うのは筋が通らないだろう。自業自得だ。それに無駄口を叩いていると別の懸念も出てくる。

 飛ぼう。

 もしかしたら外目からは飛んでいると思われないかもしれない。もしかしたら、すぐに降下して水浸しになるかもしれない。

 それでもいいじゃないか。

 いつかの日、僕は飛ぼうとしたのだ。確かに持ち前の飽き性でその試みは続かなかった。けれど、初めから飛ぼうとしてなかったなんて言うつもりはない。努力不足だってことはわかっているけど、今だって飛べたらいいと思っている。そのためには、まずは飛ぼうとしなければならない。

 まったく、僕が彼女を飛ぶように盛り上げないといけないはずだったのに、よほど僕の方が浮き足立っている。

 もう僕は思わずにはいられない。

「飛べるかも」

 

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飛行試行(仮題) @kon_ger

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