2
夢を見た。白い夢だ。
ぼんやり佇んでいるところから記憶は始まっている。
僕は両方の手のひらを合わせて受け皿をつくり、その上に何か白いものを載せていた。
焦点が徐々に合ってくると、その白いものは絹の塊、繭みたいなものであることがわかった。
繭から蚕、そして犇めく幼虫を連想して、一気に思考回路が緊急事態用に切り替わる。
そこで僕は気づいた。辺り一面、腰の高さまで絹によって満たされているのだ。
恐怖から竦む足を何とか前に出すが、ぐもぐもと糸が纏わりついてくる。その感触のせいで余計に足に力が入らなくなる。
下半身の輪郭がどうも曖昧で、実は絹の下には自分の体なんてなくて、そこには絹しかないのではないかと思えてくる。あまりにも気持ちの悪い想像。答えを確かめたくない僕はさらに動きが鈍くなる。
一体全体どうすればいいかわからず、もう足が止まりそうなことに焦っている時、はたと気づいた。
何やら僕は頑張って進もうとしているけど、どこに向かおうというのだ。どこに行くべきところがあるというのだ。
ついに僕は動きを止め、ただただ絹の海を眺めるのだった。どこまでも広がっていて圧倒してくるのに、白には表情がない。何も読み取れない。僕はなんだか泣きたくなった。
その後は、どうしたんだっけ。ああ、思い出した。
それから僕は絹の海に沈み込んでいったのだった。
徐々に溺れていったのではなく、一瞬で体が絹の中に移動していた。
ずるずると深みにはまっていく。どっちが上でどっちが下なんか知らない。でも、なぜか沈んでいることを自覚していた。僕が浮き上がる手立てなんてものはなかった。僕は飛べないのだ。飛べない者は沈みゆくしかない。自明の理だ。
そこで僕は目覚めた。
悪い夢というべきなのか僕にはわからないけど、確かめなくてもわかるくらいに脈が大きく強くなっていた。
あからさまな脈拍のドクッドクッという打ち付ける音がリィーーーーという高く細い音に変わる。
意識が現在に戻る。戻ってしまった。
僕は自宅の洗面所でグロッキー状態だった。原因は消化不良だ。
普段、それほどご飯を食べることができない僕だけど、今日はやけにお腹が空いていた。それでどうせだからと調子に乗って夕食を堪能した。
実際のところ、その空腹の原因が胃が荒れているだけだったのだと気づいた時にはもう遅かった。
消化不良なんてしばらくぶりの嬉しくないイベントだなんて、誰にともなく虚勢を張っているうちに、意識の中心はどんどん重たくなる胃の方に移っていく。喉が詰まる感じがひどくなり、唾液の分泌が増えていく。そこで僕は洗面所に移動した。
いっそ吐いてしまえば楽になるとはわかっているけれど、物心をついてしばらくしてから僕はうまく吐けなくなってしまった。どうしても意識がブレーキをかけてしまうのだ。だから無闇に吐き気を引き起こすトイレではなく、トイレの近くにあって一人きりになれる洗面所にいくことにしている。
軽度の消化不良であれば街中を彷徨ってやり過ごしたりもできるけれど、どうも今日はその方法は採れそうにない。
のろのろ体を動かして、なんとか見つけ出した胃薬は粉状のもので、水に溶かして飲もうとするけど、唾液がどんどん出るだけで、嚥下なんてできそうもない。
そういや、拷問の中に、石を食べさせて消化不良を起こさせる方法があったなんて思い出した。今ならその
この苦しみに比べれば、さっき逃避するために思い出した夢なんて悪夢でもなんでもなかった。ただの不安な夢だ。痛い思いをしたわけでも死にそうになったわけでもない。
僕を埋め尽くす気持ち悪さからかろうじて逃れた意識が、僕をこの世から消し去る方法を模索している。
一瞬のあまりにも強烈な体験。それは果てしなく続きそうな苦しみを排除してくれる回答の一つだった。だけど吐くことを許してくれない自意識が、同じように愚かな行為を制御している。
そんな進展なくひたすら消えたいと願うものの、現実は口の中に唾液だか胃液だかが溢れていくのみだ。
僕は尻をついて洗面台に寄っかかった。
僕は考える。次に、意識を逃避できる事柄はなんだろう。
今の頼りは、少しだけ開いた蛇口から出る音だ。この音域がちょうど意識を飛ばすための導入剤になっている。まさに呼び水というべきか。
こんなくだらないことを言うと彼女はどう返してくれるんだろうか。呆れられるのか、それとも無言かな。というか、すっかり彼女との約束を忘れていた。
明日――いや、もう今日だ――会う時までに新しい飛行方法について考えないといけないのに……。
今の仕打ちは不誠実な僕には適切だと思うけど、再び彼女との約束を破ることはしたくない。理由はわからないけど、その裏切りは取り返しのつかない行為のような気がする。
何か状況を好転させるためか、単なる気晴らしか、僕は半ば無意識に腕を伸ばし、洗面台に栓をした。
細く無機質な高音が泡が立つ不揃いな音にかき消される。頭の中もごちゃごちゃ乱される感じがして、ちょっとだけ気分が楽になった。
特に理由もなく僕は立ち上がり、洗面台を覗き込んだ。
泡が水の流れに翻弄されている。その光景の一点に目線を固定していたけれど、集中は続かなかった。
逸れた視線の先には、自分の顔があった。
揺れる水面のせいでその貌は不明確だ。しかし、この上なくひどく情けないものであることはわかる。その有様に不快さを感じる一方で、その顔が自分だということをうまく認識できない。どうも僕とは無関係なように思える。
自分に対するこの捉え方は異常なのかもしれないと思う一方、自分の顔を見る時間などしれているから、そんなものなのかもしれないとも思う。なんにせよ、そんな自己イメージの揺らぎが、この容赦のない消化不良よりは重大なことだとは思えない。
とはいえ、ご無沙汰していた顔には違いないので、この際だから観察することにする。いつもは彼女と同じような面構え。白い仮面。だけど、やっぱり彼女と僕は別物だということを再認識した。
ふらつく頭。重力に逆らうことなく、頭を垂れていく。どんどん境界が迫りくる。
「さらばよ、ナルシス……死ね。今まさに夕暮れだ」
とっ散らかった思考の中から、そんな一節が浮かぶ。
今は深夜だし、残念ながら僕が自分の顔に見惚れようはずもなかった。
でも彼女が同じ立場だったらどうだろう。彼女だったら……。
水面の眼がありありと見開かれた。
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