飛行試行(仮題)

@kon_ger

「飛べるかも」

 それが夜になってから彼女が発した初めての言葉だった。

 駅前から少し距離をおいた場所。ここに僕たちが並び座んでからどれくらいになるだろう。日の光でゆるゆると移り変わっていた影は、とうに人工的な光で磔にされてしまっている。

 いつもだったら二人の会話量は同じくらいなのだけど、今日はある時点を境に僕がずっとポツポツと話していたのだった。もっとも僕の声は通らないので、街の環境音にかき消されていたかもしれないけれど。

 仮面をつけた相手が反応らしい反応をしない状況は、頭に変調をきたす。実は話し相手なんか存在しないのではないか、彼女なんて初めから存在しなくて自分が生み出した幻想なのではないか。朧げな不安が確信めいてきたところで、彼女は口を開いたのだった。

 久しぶりの彼女の言葉に僕は胸をなでおろす。大丈夫、彼女は存在している。しかしほっとしたと同時に、いつも気まぐれで確たる根拠のない彼女の言葉をまともに受け取るのは癪だとも思った。なので僕は視線だけ動かして彼女の出方を窺うことにした。

 暗がりの中、仮面の白い横顔だけがぼんやり浮かんでいる。

 僕と同様、彼女も身じろぎしない。今日遭遇した、春昼の微睡む猫だってもっと動きがあったものだ。

 判断材料が少なく「飛べるかも」という言葉が本気なのかどうかもわからない。

 僕は何か言おうとしたけど、その言葉を飲み込んだ。沈黙の中、彼女の発言の意図に思いを巡らせる。

 飛べるかも、飛べるかもと彼女の言葉を何度も頭の中で繰り返していると、いつの間にか空を見上げていた。夜空に自分の飛ぶ姿を描こうとしたけどうまくイメージが結びつかない。続いて人形を空に飛ばすイメージをする。うまくいかない。

 僕はまるで一仕事終えたみたいに深く息を吐いた。

 どうも想像でさえ、僕はうまく飛べないみたいだ。多少なりとも飛ぶことはできるけれど、注目に値する高さではない。どこまでいってもそれが現実だ。

 再び彼女の言葉を反芻する。まるで自分が飛ぶための儀式のようだ。正確に言えば、自分が飛べると信じるための。

 残念ながら実際の僕は信心深くないが、それでも考えてしまうのだ。いつになったら僕は人形師として高く飛ぶことができるのだろうと。

 別に飛ぶとなったら人形師でなくともいい。人形師が高く飛べれば、人形を操る際に一役買うというだけのことだ。必ずしも人形師自体が高く飛べる必要はないし、人形師が高く飛べるからと言って、表現が上手くなるというわけでもない。重要なのはどのようにして高さを活かすかなのだ。

 それでもやっぱり人形師として高く飛んで一人前になることが僕の理想の一つであることは変わらない。目標を達成できなかったからといって、初めからそんなものは目標ではなかったことにするのはなんか違う。目標がころころ変わる僕だけど、目標が達成できなかった事実はちゃんとカウントされている。

 じゃあ、挫折したと思えるくらいに真剣だったかと言われれば、それはまた別の話なんだけど。

「飛べるかも」

 彼女は前を向いたまま、もう一度言った。

 どうやらさっきの対応では前に進めてくれないようなので、今度は自然に反応してみる。

「どうやって?」

 さあ、返答やいかに。

「飛べるかも」

「……」

 訊き損だった。

 次に何を言おうか少し考え、もう僕に状況を動かす手立てがないと判断した時、彼女はすっと立ち上がった。

 僕が彼女に合わせて立ち上がると、彼女は歩きはじめた。

 依然として何も言わないから、彼女の行動の意図はわからないけど、正直なところ助かった。

 この重たい空気は居たたまれないけど、だからといってさよならするのは薄情だし、この場所に居続けることも遠慮したい。駅から距離をとっているとはいえ、人が集まっている場所が得意でない僕には酷だった。人形師なんて注目を集めての世界なのに僕はそれが苦手なのだ。

 人付き合いがうまくない僕は、人が行き交う場所でその時その時で見ず知らずの人の気を引くしかない。でも、注目されるのはどこまでいっても苦手。そんな矛盾を抱えながらも人形師を目指すことができるのは、注目されるレベルに達していないことと、やっぱり楽しいものは楽しいからだろう。

 仮に注目を浴びることになったらどうなるかと想像してみると、胸がざわついたりする。しかし、だからといって行き先が真っ暗とは思っていない。逃げ出したくなるくらい苦手なのかどうかは、実際に注目を浴びないとわからない。むしろ不安を感じるべきは、なかなか上がらないレベルの方だろう。

 しばらく歩を進めて、彼女の目的地がわかった。いつものたむろしている橋に行こうとしているのだ。

 完全に駅から離れたところで、背中越しに彼女は言う。

「どうして今日は何も考えてこなかったの?」

「考えてこなかったんじゃなくて、思いつかなかったんだよ」

 想定問答に入っていた回答だったけど、彼女が訊いてこないから忘れるところだった。

 彼女は会う度に、さまざまな飛ぶ方法について、提案することを要求する。彼女もまた、僕と同じく、高く飛ぶことができない。

 初めは僕自身が飛ぶことに意識的だったこともあって、あれやこれやと飛ぶ方法について考えたものだったけど、どうも自分がうまく飛べないことがわかってからは、騙し騙しあるいは惰性的に考えてきていた。

 しかし、ここのところは何の考えも浮かばないし、考えることすら忘れていた。それで今日は宿題ができていないことを伝えたら、すっかり彼女は口を閉ざしてしまった次第だ。

「人形師になることはもうやめたの?」

「別にやめてないよ」

「じゃあ、飽きた?」

「飽きたってわけじゃないけど、フレッシュな気持ちで目指しているといえば嘘になる」

「つまりは飽きたんでしょ?」

「まだやれるかもって思う日も全然ある。来る日も来る日も、飽きているわけじゃない」

 彼女は橋の真ん中のふくらんでいる所で立ち止まり、無言でこちらを見てくる。もちろん仮面があるから表情は読めないけれど、雰囲気から楽しそうでないことは僕だってわかる。

「本当だよ」

「嘘って言ってほしかったね」

 ため息交じりにそう言うと、彼女は欄干の方に向き直った。その視線は川やその奥の山に向けられているというより、ずっと向こう何かを見ているようだった。街の景色とも空とも違う何か。

「言っとくけど、あなたが思いつかないと、わたしは飛べないからね」

 いつもながらのよくわからない宣言だ。

 飛べないことにまるで自分に責任がないような言い草は、言い換えれば、自分ひとりでは状況を動かせないということであり、自分の無力さを主張している。

 以前、彼女が自分の考えについて、上流階級のお嬢様じゃないと成立しない考え方をしていると言っていたけど、本当にその通りだと思う。

 とはいえ、彼女の態度に高圧的なところがあるかと言われればそういうわけでもなく、僕が思案するのが当然と思っているだけの様子だ。あくまで僕がするべきことをしていないから、注意しているだけといったふうである。

 一方の僕は、ふらふらと目標を変えてしまう自分自身を信用しておらず、そんな自分に彼女の希望を聞き入れられる能力があると思っていない。そしてまた、彼女が僕の能力を信じているとも思っていない。本来的には人に期待されるのが苦手な僕がわりと気楽に彼女と一緒にいられるのはそれが理由なのだと思う。しかし、不平に口を閉ざすという今日の出来事を考えれば、それくらいには僕の能力を信じているのだろうか?

 僕を信用しないといけない状況……なんだか彼女が憐れに思えてきた。

 よし、今回はこのあたりの感情を原動力にして、飛行方法を思案してみることにしよう。ここ数年でわかったことなのだが、僕は感情が伴ってないと、すべきことでも行動できない質なのだ。

「申し訳ないとも思っているんだよ」

「申し訳ないと思っている日もあるし、申し訳ないと思ってない日もある。今日は申し訳なく思う日でした、でしょ?」

「まあ……そうだね」

 否定すると嘘になる。

 彼女はわかりやすく大きく息を吸って吐いた。

「あー、どうにかなんないかなぁ。ま、別になんだっていんだけどさ」

 声の調子がちょっとずつ軽くなってきた。切り替えが早い。

「ごめん」

「別に謝られるようなことじゃないし。わたしが夢見がちというただそれだけ。特に積み重ねがあるわけでもないのに、突発的に空を飛べるようになれる方法があるかもしれない、そう考える方がおかしいんだよ」

「あ、やっぱり飛べるようになったわけじゃないんだ」

「うーん……? なんでそう思ったのさ?」

「飛べるかも、飛べるかもって言うから」

「飛べるんだったら、そんなこと言わずに飛ばない?」

「そうかもしれない」

 じゃあ、あのつぶやきは何だったのだ。

「人ってさ、結果からそのプロセスに思い至ったり、力を発揮できたりするものじゃない? 今までできないと思っていたことが、一つ成功事例ができただけで、どんどん後に続く人がでてくる。だから、わたしが飛べるかもって匂わせたら、あなたが”そうだ、その方法があった”みたいな感じで何か考えを思いつくんじゃないかと思って」

 いや、それはいくらなんでも単純すぎやしないか。その話はあくまでちゃんと取り組んだ上でのブレイクスルーだろう。しかし少なくとも、彼女は僕がそれで思いつくかもしれないと思ったわけだ。

「っていうかさ」

「うん?」

 こちらに向き直った彼女の体がふわりと浮いた。指五本分くらい。これが彼女が力を最大限に発揮した結果だった。

「これ、いつもあなたは飛んでいるって言ってたよね」

「言ってたね」

 最近は飛ぶ方法を思いつくのが難しくなってきたから、ちょっとだけ浮かぶことのできる彼女を飛んでいると主張することにしているのだ。彼女は高く飛ぶ方法を考えてこいとはいっていない。あくまで飛ぶ方法についてだ。彼女の飛ぶという言葉にはある程度の高さが前提とされていて、僕はその省略を逆手にとったというわけだ。もちろん、彼女もその構造には気づいている。僕の主張は不備を指摘するのも野暮という代物というだけだ。

「でも、飛べるかもってわたしが言ったら、もう飛んでいるとは言わなかったじゃない。つまりそれは、普段は飛んでいるって思っていないってことじゃないの?」

 僕はできるだけ声の調子を落として言う。大きくゆっくり、手に動きもつけてみる。

「うん、そうなんだよ。だから、おかしいなとは思ってたんだ」

「嘘つき」

「例え、数センチでも飛ぶのだったら、それは飛んでいるんだからね。地面についていたら、僕だって飛んでいるとは言わないよ。事実を捻じ曲げまで自分の主張を通すつもりはない。でも、君は地面から離れている。飛んでいるんだ」

「そのとぼけた感じがむかつくんだってば」

「飛べるのに飛べるかも。うーん、深読みしすぎたな」

「飛び膝蹴りしようか」

「すみませんでした」

「まったく」

 彼女はため息をつく。

 ふざけた分、今度は誠意を示す。

「いや、でも実際のところさ。飛ぶことに高い低いっていうのはあっても、貴賤はないって思っているのは事実なんだよ。ちゃんと飛べない僕が言っても説得力無いんだけどさ」

「わかってるよ。これはわたしのわがまま。あなたは自分の飛ぶ高さを受け入れてるもんね」

「いや、僕も目標は一緒なんだよ」僕は欄干に寄りかかる。「状況的には高く飛ばなければならないはずなのに、どこまでいっても必死になれない。本気で挑んで失敗するのを避けているっていうのもあるんだろうけど、案外、本心からこのままでいいとも思ってるんだ。まったくどうしようもないね」

 隣で彼女が息を呑んだのがわかった。

「わたしは……」

 続きの言葉は出てこなかった。彼女は何を言おうとしたのだろう。僕にはわからなかった。

「ま、ここまであれこれ飛行法を考えてきたんだから、そろそろちょっとした成功例はあっていいと思うんだけどね」

「それってわたしのやり方がまずいってこと?」

「いやいやいや」

 雲行きが怪しくなってきたぞ。

「わたしにはそう聞こえたんだけど」

「そうじゃないって」

「ふーん……」

 視線を彼女の方に移したそうとしたがためらった。それで怒っていることがわかったら困ることになるからだ。本当に僕は彼女をあてこするつもりなんてなくて、謝るにしても何に謝ればいいかわからないのだ。実際上は、理由がわからずともひたすら謝ることが効果的なのかもしれないけど、一方的にやりこめられるには僕の気は小さすぎた。

「飛べるかも」

「え?」

 唐突な言葉にわけがわからなくて彼女を確認すると、相手もこっちを向いていた。じっとこちらを見据えていた彼女はずいっと身を乗り出し、さっきよりも強い語気で、

「飛べるかも」

「わかった、わかった。次までにはちゃんと考えるからさ」

 必死の弁明である。

「それってさ」依然として不満げな声。「わたしの言葉に対してちゃんと答えになってる?」

 考えてみると直接の返答にはなっていない。ただ僕としても必死に彼女の言わんとしていることを汲み取ったつもりだ。飛べるかもって彼女がつぶやかなければならないのは、僕が宿題をしてこなかったからだと考えたのだ。

「もっと普通に対応してよ」

「普通?」

「そう普通」

 そう言われても普通って意識すると難しくなるものなんだよな。しかし、ここで口答えするのは論外だ。飛び膝蹴りというさっきのワードが頭にちらつく。とりあえず、ぐっと腹に力を入れた。

「飛べるかも」

 僕の普通はこれだ。

「どうやって?」

 返答やいかに。

「あなたが飛ぶ方法を考えてくれればね」

 僕が言葉を失っていると、彼女は楽しげな笑い声をたてた。

「さあ、返事は?」

 徐々に頭が回り始める。

 いやはや、行きつくところは一緒じゃないか。

「わかった。わかった。次までにはちゃんと考えるからさ」

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