第10話 東海の魔海人

 西方にしかたこんは、日ごろ、知佳島ちかしまから黄海こうかいに入り、南海の物資を大陸の沿岸に運んでいるのだが、大陸では、このあたりの海を東母の海と言って恐れている。


 彼らは太古の昔から、海の向こうに、東母の海を飲み込む巨大な黄泉の谷があるとの言い伝えがあるという。そして、その黄泉の谷から海が逆流しないように、島々が連なって砦となり、砦の脇を流れる黒潮が守っている。

 特に、渤海ぼっかいあたりの航海族は、黄海こうかいのことを古代、炎帝神農えんていしんのうの娘ジョアに因んで精衛せいえいの海として恐れ崇めている。


 縄族なわぞくは、れっきとした航海族であり、黒潮を幹線とする東海の海路を熟知している。ところが、大陸人が東海に恐れを抱けば抱く程に、縄族なわぞくの存在価値は高まる。時には、蓬莱ほうらいの使者として、迎えられることもあると言う。縄族なわぞくは、大陸人にとって、謎の海人なのである。


 亶州たんしゅう(台湾)と目と鼻の先にあるゆな(与那国)島は、黒潮の入り口にある。

 ゆな島の縄族なわぞくは、暖かい潮の勢いに乗って、縄島なわしま本島までを導く潮見衆である。宮の島を越えれば、本島までは島影のない大海原である。見通す目印がなく、頼りになるのは、天津御虚空あまつみそらの星々と、潮の流れを示す潮筋である。


 島々を離れ、大きくあがりの方向に流されても、反対の東母の海に迷い込んでも、命の保証はない。ここは、ゆな島の潮見衆が、しっかりと導く。


 さらに、黒潮は北上するが、最大の難関は、奄美の島々が転々と浮かぶトカラ海域である。黒潮はこの海域から、いきなり東に方向を転じるのだ。あたかも巨大な海龍が黄泉の国の深海に呼び寄せられるが如くに、黒潮はそのすべての勢いを持って東に流れる。


 航海族にとって、この海は最大の難所である。一歩間違えば、潮の流れと共に根の国、黄泉の世界へ迷い込んで、二度と戻ることは出来ない。だが奄美族は、黒潮がここで秋津洲あきつしまを包み込む南北二つの大きな海流となって分かれることを知っている。


 その根元にある奄美の海域は、大小の渦に囲まれた魔の海である。渦に取り囲まれた小さな島々は、外敵から守られて、潮見の衆を育てる。この海域の島は、誰も近づくことが出来ない鬼の島と呼ばれている。


 この鬼島おにしま海域こそが奄美之潘あまみのはんの本拠地であり、海見衆あまみしゅうの海域である。

 二つの黒潮を西と東に分かれて行方ゆくえを追い、潮見ができるのが鬼衆とも呼ばれる奄美衆であり、秋津洲あきつしま海人あまの原点になっている。あの伝説の大噴火爆発を起こし、島の姿を失った鬼界島きかいじま火海神ひうみかみの子孫といわれる。


 南方衆みなみかたしゅうは、黒潮の本流に乗って、秋津洲あきつしまの南岸を東に向かう。屋久島やくしま多根島たねしまの間を通る潮に乗り、つくしの島の東から瀬戸に向かったはん一族の他にも、阿波あわの島や紀伊きいの沖、阿積あつみの海にも出かけるという。


 西方衆にしかたしゅうは、北に向かい、つくしの島の西岸を通って知佳島ちかしまからは東西に分かれる。奄美あまみ西方衆にしかたしゅうが、知佳島ちかしまにいるのは、黒潮を追ってここまでやってきた奄美衆あまみしゅうの心意気である。奄美衆なればこそ、黒潮の潮目の筋が見えるのである。

 知佳島ちかしまの海域は、奄美と同じく、黒潮が渦巻き、東西に複雑に分かれる難所である。


 知佳島ちかしまからは、精衛せいえいの潮に乗ってさらに北に向かい黄海こうかいに入ると、今度は西向きの潮となって山東半島に辿り着く。


 半島から、大陸に沿って南下すると、東母の海を一回りして、長江口ちょうこうぐちに着く。さらに南下すると再び亶州たんしゅう脇の黒潮に戻る。この海路を熟知しているのが黒潮を操るこんようたちの奄美あまみである。


 奄美族あまみぞくや浮き縄族は、間違いなく、この広大な東母とうぼの海の主導権を持つことができている。

 奄美族と浮き縄族はこの黒潮と東母とうぼの海を三月でひと周りすると言う。大陸では、これら縄族なわぞくのことを、百越ひゃくえつも恐れる驚異の海人、東母の魔海人まかいじんと呼んでいる。


 櫛彦くしひこたちは五日程、ひとつ柱の島に滞在した。異国の人々と気持ちを交わし、刺激に満ちた日々を過ごしたが、そろそろ、比古次神ひこじのかみの顔が心に浮かぶようになった。


 櫛彦くしひこはこのままこんと共に、知佳島ちかしまに行きたいと思ったが、秋津大宮あきつおおみやの仕事を放りだすわけにも行かず、八潮やしおの気持ちをおもんばかっていた。


「八潮よ、われに替わって、こんについて行くか。われも知佳島ちかしままで言って西の海を眺めてみたいものだが、豊浦宮とようらで待つ兄、比古次神ひこじのかみの姿がちらほらと見えておる。どうだ。」


八潮やしおの顔がさっと火照った。綿津見わたつみの血が全身を走った。大地にうずくまり、そのままの姿勢で、


「ありがたき仰せにございます。われ、こんと共に南のりゅうの通り路を訪ねてみたいものです。ひとりで海の妖怪ようかいにも立ち向かってみたいものです。」


りゅうの通り路とは、さすがに綿津見わたつみの子であるな。」


 櫛彦くしひこは、若き海人あまの行く末を讃えた。こんもそのことをすでに心得ていたのであろう。にこやかな笑みを持って八潮やしおを迎えた。櫛彦くしひこはさらに久治良くじら曽良そらにも声をかけた。


久治良くじらよ、八潮やしお師匠しょうであろうが、付いて行くがよい。ここで別れじゃ、師として、わたつみの子をしっかり育てよ。曽良そらもわかっていような。」


 櫛彦くしひこの言葉に、曽良そらはうなずくばかりで、何も言わなかった。天空の一つ星を涙の向こうに眺めながら、わが子の行く末を祈った。


 櫛彦くしひこ曽良そらは、帰路に着いた。春風を受け、かしこねの潮に乗り、遠く左舷に神島にいます若宮の御霊みたまを拝しながら、豊浦宮ようらのみやに向かった。

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